いちばん欲しいのは、君の温もり 君の初めての担当はこの家に今年産まれた子だと、しんしんと冷え込む空からその家を覗き込んで、チアキは顔をほころばせた。
ぷくぷくしたバラ色の頬と、やわらかなオリーブグリーンの髪色。穏やかな寝顔で眠っている。隣でベビーベッドを覗き込んで、ぴょんぴょんと跳ねているのはその子の兄だろうか。その傍に父親と母親がいて、兄の方を見て「飛び跳ねたら起きちゃうでしょ」と母親が注意する。
と、不意に眠っていた赤ん坊がパチッ、と目を開けたかと思うと、どんどん顔が歪み始めた。
「ふあああぁあぁああぁっ!!」
母親が慌ててその子を抱き上げ、父親が兄を叱る。
「ほら、起きちゃったじゃないか。悪いことしたからサンタさん来ないかもしれないぞ」
「えー?!やだやだやだあ!!」
駄々を捏ねて泣きそうな顔をする兄の頭を、母親がそっと撫でる。
「大丈夫、お腹すいてただけみたいだから、お兄ちゃんのせいじゃないよ」
「ほんとぉ…?」
「本当。サンタさん、ちゃんとわかってくれてるよ」
母親に頭を撫でられて、兄は満足そうに笑った。お父さん!と今度は父の方が母と兄からお叱りを受けてしょぼくれている。
そこでようやく千秋は家を見るのをやめ、ほうっ、と深いため息をついた。
(なんて可愛い子なんだ……!)
一瞬見えた赤ん坊の瞳は、ハッとするほど綺麗な翡翠色で。その泣き声はとても愛くるしく、もし自分があの場にいたら迷うことなく抱きしめてあげたくなるほどだった。
これからチアキは、この子の成長を見守りながら毎年プレゼントを枕元に置くのだ。この子が、チアキの存在を信じなくなる、その日まで。
┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈
年の離れた彼の兄を担当していた相手が、家に入れないと告げてきたのは今年の事だった。
「もう、信じなくなったみたいだ」と寂しげに笑う様子を見て、チアキは胸がツキんと痛んだ。自分もいつか、あの子の枕元で寝顔を見ることができなくなるかもしれないと。最近の子は、情報がたくさん得られるようになったせいなのか、精神の発達も早かった。昔よりも、サンタを信じなくなる年齢は年々早くなっていた。
チアキが担当することになった赤ん坊はすくすくと育って、道端でペタンと座り込んで嫌だと泣きじゃくるイヤイヤ期を過ぎ、母親に手を繋がれて商店街に買い物に行けば、小さな体をめいっぱいつかって「これください!」と言えるようになっていたし、自分の店に買い物に来た客がいれば、「ありがとーございましゅ!」なんて時々つっかえたりしながらもお礼を言って手を振る子どもに育っていた。
彼の名前は翠と言って、名前通り植物が根を張るがごとくすくすくと育ち、いつか美しい大輪の花を咲かせる準備はその年にして整っているような顔立ちをしていた。
その月日がすぎる間に、チアキの担当には新しい何人かの子どもが加わった。それでもやっぱり、一番初めに担当した子というのはやはり自然と気にかけてしまう。
そんな翠のお願いは、毎年可愛らしいもので。
(今年は"あっぷるん"のぬいぐるみか…)
去年は"きゃろっとくん"だったし、一昨年は確か"キャベ太郎"だったと思う。彼の産まれた環境は、どうやら好きな物にも反映されているらしい。
今年からは、一人で翠の元に行かなければならない。そのことが少し不安だったが、チアキは例年通りプレゼントを袋に詰め、寒空の下へと飛び出して行った。
最後のひとつになったプレゼントを抱え、静かに部屋へ忍び込む。まだ甘えたいざかりの翠は両親に挟まれるようにしてぐっすりと眠っていた。少し口が空いているのがまた可愛い。
チアキがそっとプレゼントを置いた時、少しだけ年季の入った床はその音をしっかりと伝えてしまった。コトン、という音が響き、チアキは思わず凍りつく。
幸い、翠はぐっすりと眠っていて起きる気配はなかった。これ幸いと帰ろうとしたその時だ。
「んー…?」
むくり、と起き上がった影は大人にしてはひどく小さかった。その影は眠たげに目を擦ったあと、何気なく窓の方を向き、「わっ…!」と声を出したかと思うとあっという間に布団へ潜ってしまった。
「……」
「うう、ひうっ…」
布団が小さく震え、そこに微かな泣き声を聞き取ってチアキは思わず駆け寄る。そっと布団をめくると、怯えた翡翠が目にいっぱい涙を溜めてこちらを見ていた。
「ひっく、ひっく、おかあさ、」
「ああっ、待て待て、俺は怪しいヤツじゃないぞ!」
「ひううっ…」
ポロポロ涙を流す翠に、どうしたものやらチアキはすっかり困ってしまった。
「ほら、よく見るんだぞ。じゃーん!」
「ううう~…」
何も無い場所からハンカチを取り出す手品も、翠の前では無力なようだ。むしろ余計に怯えさせてしまっている気もする。本格的に鼻を鳴らし始めた翠を見て、チアキは焦った。このままでは、大声で泣かせてしまう。そうなればサンタとしては何もかも最悪の結果を招きかねない。
「おおお、ま、まだ泣くなよ…?ほ、ほら、あっぷるんも言ってるぞ?『元気だすっぷるん!泣かないで!お兄さんは怖くないぷる~!』」
小さな声で話しているせいで少し掠れた裏声を絞り出しながら、何もつけていない手をパクパクさせるだけの男など、傍から見れば怖くないわけが無い、のだが。翠は目を輝かせ、身を乗り出した。
「あっぷるん!!」
「おっ?あっぷるん好きか?」
「うん、すき!だいすき!」
無邪気なその笑顔に、チアキの心臓がトクンと跳ねた。自分に言われた訳では無いことぐらいわかっている。それでも、純粋無垢なその笑顔を見てしまったら、なんだかドキリとしてしまって。
「よかったなあ。ほら、あっぷるんも言ってるぞ。泣いちゃダメっぷる~って」
「わあっ、ふふっ、えへへ…」
手をそのまま翠の頬に当てて、涙を拭ってあげる。泣いたせいでぽっぽっ、と火照った頬は、ひんやりとした空気と混ざって少し冷たくなりつつあった。
すっかり泣き止んだ翠は、布団から這い出してきて不思議そうにチアキを見る。
「ねえ、おにいさん、だあれ?」
「俺か?俺は…」
「あっ!」
翠は首を捻って、はっ、とした顔で小さな手を口元に当てた。目をまん丸にしてチアキの赤い服装を上から下まで遠慮なく見て、それからまた身を乗り出した。
「おにいさん、サンタさんでしょ!!」
「…う、うん、一応…?」
規約を思い出しながらチアキは答える。確か、万が一子どもにバレてしまっても、サンタであることや名前を隠す必要はなかったはずだ。それでも、夢を壊してしまうのではないかとチアキは曖昧に返事をした。だが、その曖昧さもどうやら意味をなさなかった様だ。
「わああっ!サンタさんだ!サンタさんだ!」
「っ、コラ、静かにしないとお父さんとお母さんが起きちゃうぞ」
「あっ、そっか…」
しょぼん、とした様子で項垂れる翠の頭に、チアキはそっと手を乗せた。オリーブグリーンはほわほわと柔らかく、優しくチアキの手に馴染む。
「これは、お兄さんと翠くんだけの秘密だから、誰にも言っちゃダメなんだぞ」
「ひみつ…!うん、まもる!」
「偉いなあ。ようしよし!」
思わず翠の名前を知っていることを口走ってしまったが、翠は気にした様子はなく、むしろ二人きりの秘密が増えたことに喜んでいるようだった。
「おにいさん、おなまえは?なんていうの?」
「俺か?俺はチアキだ」
「ちあき!ちあきおにいさん!おれはねー、みどりだよ!たかみねみどり!ごさい!」
小さくも興奮した声で翠は言って、パッと花が開くように小さな手を5の形に広げて見せた。その姿があまりにも愛らしいもので、チアキは思わずその手のひらに自分の手を重ねる。すっぽり包めてしまう翠の手のひらは子ども特有の温かさでそっと触れ合った。
「ちあきおにいさんのおてて、おっきいね」
「ん?ああ、そうだな。翠くんの手は小さいなあ」
「うん!でも、おっきくなったら、ちあきおにいさんとおなじくらいの、おっきいおててになるよ!」
「そうかそうか、頑張って大きくなるんだぞ」
翠は大きく頷く。小さい子の眠気はいつだってきまぐれで、さっきまであんなに元気にチアキと話してくれたのに、もう次の瞬間にはトロンとした目でチアキを見つめていた。
そろそろお暇するべきだろう、とチアキは思う。元々、あまり一箇所に留まりすぎていてもよくない。
「じゃあ、またな」
「ん…」
目を擦りながら布団に戻った翠を見届けて、チアキも去ろうとしたが何かが引っかかって動けないことに気づく。振り向けば、翠が布団の中からめいっぱい手を伸ばしてチアキの服の裾を掴んでいた。
「ちあきおにいさん」
「どうした?」
「また、あえる?」
チアキは翠の頭をそっと撫でた。安心したのか、翠の手は布団の中に引っ込んでいく。優しく髪を梳きながら、チアキは言った。
「ああ、会えるさ。だからおやすみ、翠くん。沢山寝て、大きくなるんだぞ」
「……」
「翠くん?」
「すう、すう…」
チアキが声をかけるまでもなく、翠はぐっすりと眠っていた。
あたりが白い光に包まれた朝は、チアキだけでなくサンタクロースが一番楽しみにしている日でもある。昨夜働いた分の成果が、一番目に見えるのがこの日だった。
朝食を作る母親の腰にしがみついて、オリーブグリーンが揺れている。その腕には、赤いぬいぐるみがしっかりと抱かれていた。
「おかあさん、おかあさん、みて!!あっぷるんだよ!!」
「サンタさん来たの?良かったねえ」
「うん!あのね、おれね、きのうね…」
翠は目をいっぱいに見開いて何かを伝えようとしていたが、パッと口を塞いでブンブンと首を振った。
「翠?どうしたの、お母さんに言いたいことがあるんじゃないの?」
「んーん、ないよ!おれ、やくそくしたの!ひみつだよーって。だからいわない!」
「そうなの?」
全く、翠はお母さんとの約束はすぐ破っちゃうのにね。やぶんないもん!
ぶうぶう文句を言ったあと、翠はあっぷるんのぬいぐるみをぎゅっと抱きしめて、テレビの方へ走っていった。
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翌年、チアキが訪れる部屋は変わっていた。ねんちょうさんだから、ひとりでもへいきだよ、と翠が強がって、一人部屋を手に入れたのだ。それまで書斎として使われていた部屋を追い出された彼の父親は、「翠に一人部屋は早いんじゃないか?」と言いつつも泣く泣く愛息子に部屋を譲った。
翠の部屋には、いつもあっぷるんが一番目立つ場所に置かれている。外遊びから帰ってくると、翠はいつもあっぷるんに抱きついて、今日あった出来事を話していた。
その年の冬、またしても最後に翠の部屋にやってくると、人影は既に起きていた。
「…翠くん?」
「っ、ひっく、ひっく…」
泣き声が聞こえてきて、チアキは思わず立ち止まる。もしかすると、チアキのことを忘れて怯えてしまっているのかもしれない。
だが、それは杞憂に過ぎなかった。翠はチアキの姿を見た途端、大きな声で泣き出したのだ。
「うわああああん!!ちあき、おにい、ちゃっ、ひっ、ひっく…うええぇんっ!!」
「どうしたどうした!なんでそんなに泣いてるんだ?」
慌てて掛けよれば、翠はめちゃくちゃに涙を拭いながらチアキに抱きつこうとしてきた。どうにか宥めつつ、そっと翠を抱き上げると、翠の身体は驚くほど軽かった。
(この子は…)
覚えてくれていたのか、と思うと同時に、どうして自分が会う時決まってこの子は泣いているのだろうと首を傾げたくなる。
体が冷えないように布団に入れてあげようとしたが、下ろそうとする度に翠はいやいやと首を振った。
「翠くん、なにか楽しいことをしよう。ほら、今年のプレゼントはなにかな?翠くんは、確か"ベジレンジャー・トマトン"が…」
「いらないっ!!」
「えっ」
怒ったような声とともに、ぺちん、と頬を叩かれてチアキは絶句する。頬の痛みなどないに等しかったが、それよりも心の痛みが大きい。
一年間の翠の行いを見て、彼がベジレンジャーを大好きなことは知っていた。幼稚園の「サンタさんへのお手紙」にも、翠はトマトンが欲しいとはっきり書いていたのに。
「どうしたんだ?トマトン、欲しくないのか?」
「ううう~~…ほしいよぉっ……でも、でもぉっ…」
どうやら並々ならぬ事情があるようだ。チアキは翠の話を聞くことにした。
「よかったら、お兄さんに話してみないか?大丈夫、絶対に笑ったり、バカにしたりしないぞ。お兄さんは翠くんの味方だからな」
「ほんと…?」
「ああ!約束だ」
「ん……あのね、あのね…」
翠はモジモジと身体を揺らしながら話し始めた。何度も言葉につっかえて、同じ表現を使いながら。
「みどりね、サンタさんのおてがみに、トマトンくださいって、かいたの。ほんとだよ。かいたんだよ」
「そうなのか。頑張って書いたな」
「うん、でもね、そしたらね、おてがみみて、となりのこがね、おとこのこが、トマトンすきなの、へんっていってね、おんなのこも、みどりくんはおとこのこなのに、なんで、トマトン、すきなのって…」
チアキは胸を切り裂かれるような思いでその話を聞いていた。純粋無垢であるが故に、時に子どもは誰よりも残酷だ。悪意がないから、余計に。
ベジレンジャーは、例えば特撮が男の子向けの戦隊ものとするなら、それとは反対に女の子向け戦隊もの、といわれるような類だ。可愛い絵柄の野菜戦士たちが、地球を守るために戦う。おもちゃの展開も女児向けが多くて、確かにその中で翠は辛い思いをしてきたのだろう。
「そしたらね、あのね、みどりの、おなまえがへんって…ほんとは、おんなのこのくせにって、だから、トマトン、すきなんだって、いわれて…っ、みどり、ほんとに、おとこのこだもん…おとこのこだけど、トマトン、すきだもん…ひっく、ひうっ…」
「それは…ひどい話だな、本当に……」
翠、という名前は、なにも女の子だけの名前ではない。中性的な位置付けだが、やはりまだ女の子につける名前のイメージがあるようで、そのせいか余計にこの子は傷ついてしまったようだ。月明かりにうるうると光る翡翠色の瞳は、まるで海のようだった。そこから塩辛い水が今にも零れそうに揺れている。チアキはそっとその雫を拭いながら、翠を揺すりあげて抱き直した。
「翠くんは、そう言われちゃったからトマトンいらないって思っちゃったんだな?」
「うん」
「翠くんは優しい子だなあ。自分の好きな物や、名前について言われても、怒ったり、意地悪したりしなかったんだな。すごいな、とってもいい子じゃないか」
「うん…」
「お友だちでも、翠くんの素敵な名前や好きなものをバカにするのは、絶対にしちゃいけないことだ。いくら翠くんのお友だちでも、ひどいと思うぞ。誰だって、好きなものをバカにしていいわけがないんだ。それに、翠くんの名前は、お父さんとお母さんが一生懸命に考えてくれた、とっても素敵な名前じゃないか。すごくいい名前だ」
「でも……」
「俺の名前を思い出してごらん。チアキって、女の子みたいな名前だなって俺も言われたことがあるんだ。でも、俺は自分の名前が大好きだし、もし俺がゴンタとかいう名前だったらどうだ?翠くんには出会えなかったかもしれないじゃないか」
「ごんた……??ふふ、ふふふっ…」
翠は可笑しそうにくつくつ笑った。全国のごんたさん、ごめんなさいと心の中で謝りながら、チアキは続ける。
「俺がチアキって名前で、翠くんが翠っていう名前じゃなかったら、俺たちはこんなに仲良くなることもなかったかもしれない。俺は、翠くんの名前大好きだぞ。呼ぶと心があったかくなって、優しい気持ちになるんだ」
「ほんとう……?」
「ああ。それに、翠くんが好きなものをお話してくれる時は俺も楽しい気分になる」
翠の瞳に、少しづつ光が戻ってきた。森林の木漏れ日のような、キラキラした眩しい光だ。
「翠くん、好きなものをバカにされて辛くなったら、俺のことを思い出してほしい。俺は何があっても翠くんの味方だからな!翠くんは、自分の信じる道を行けばいいんだ。俺が応援してるから、大丈夫だぞ」
そう言って目を合わせた翠の瞳は、これ以上ないほど輝いていた。頬を微かに紅潮させ、翠はうん!と頷いた。
「ちあきおにいさん、ありがとう!おれ、トマトンがすき!おにいさんもすきだよ。ヒーローみたいで、かっこいいもん!」
「ははっ、それは嬉しいなあ。一番の褒め言葉だ。そんな翠くんには、プレゼントをあげような。何がいいかなあ…」
首を傾げると、案の定くりくりとした瞳が腕の中から見上げてきた。少し不安そうな顔をしながら。
「トマトン、ある…?」
「ん?あるぞ」
「おれ、トマトンほしいな…さっき、いらないって、いっちゃったけど、うそだよ?でも、うそつきはわるいこだから、だめ…?」
「ふふ、翠くんは悪い子じゃないぞ。ほら、おまたせ」
「わああっ……!」
包みを見ただけで、翠は嬉しそうな顔をした。チアキの腕の中とはいえ、さすがにひんやりとしてきた翠の身体を布団に戻し、チアキはプレゼントを枕元に置く。すぐにでも包みを破きそうな翠に、チアキは言った。
「翠くん、開けるのは朝起きてからだぞ。お兄さんと約束しような」
「うん…いまだめ……?」
「ダメだ。翠くんは、寝るのが一番大事だからな。翠くんがぐっすり寝ないと、お兄さんも悲しいなあ…」
「じゃあ、ねる…うう…」
「そんなに顔しなくても、トマトンは逃げないから大丈夫だぞ。ほら、おやすみ」
翠は布団に入ってからも、じっ、とチアキを見上げてくる。その瞳が微睡んで、瞼が完全に落ちてしまうまで、チアキは翠の頭を撫で続けた。
翠の寝息が聞こえて、そっと家から出たあとも、チアキの手には翠の暖かな重みと、やわらかな髪の感覚がいつまでも残り続けていた。
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それから数年、翠とチアキは時々気づいたり気づかれなかったりしながら交流を続けた。
小学校に上がった翠の部屋には、ピカピカのランドセルや教科書があって、そこにゆるキャラの落書きが描かれていることもあった。
勉強は少し苦手なようだったが、家の手伝いを頑張り、友達と遊び、楽しそうな毎日を過ごしている。兄と喧嘩したのか、はたまた親に怒られたのか、べそをかきながら部屋にこもっている時もあった。そういう時、翠の隣にはいつも、少しくたびれたぬいぐるみがいる。
赤いりんごと、トマトのぬいぐるみが。
チアキが枕元にプレゼントを置く度、その隣に色々なものが増えていく。漢字が年々増えていく可愛い字の手紙を、プレゼントのお礼に受け取ることもあった。翠のあどけない寝顔は、ぷくぷくとしたまんまるい頬から、まだ幼さを残しつつもしっかりと大人に成長していく顔立ちへと変わっていった。
その寝顔を見てそっと頭を撫でる度、チアキの心は暖かくなって、同時に胸の奥がツキンと疼く。
─この家には、近いうちに入れなくなる。そんな予感があった。
翠が6年生のときだった。クラスメイトの女の子たちが、翠の周りに集まるようになった。
「ねえねえ翠くん、一緒に遊ぼう?」
「高峯くん、一緒に帰ろ!」
クスクス、うふふ。女の子たちはめいっぱいおしゃれをして、翠の周りに集まってくる。翠はそれをいつも断っていた。どうしたらいいかわからないと帰ってから母親に零していた。女の子たち、俺が断ると怖い顔するから嫌だ、とも。
しばらくすると、翠の背はクラスでいちばん大きくなった。成長期の背の高い女の子とほとんど変わらない身長だった。そうすると、翠の元にやってくる女の子たちはますます増えた。ほかのクラスからやってくる子もいるくらいに。
男の子たちは困ったような顔をして、「高峯を取るなよー」なんて言って庇ってくれた。翠と男の子たちの遊びは鬼ごっこやかくれんぼから、サッカーや野球や、そういったものばかりになっていった。
疲れる…と翠はリビングに寝転びながら愚痴る。楽しいけど、走り回ってばっかで疲れちゃうんだよね、と。
季節は進んで、冬になった。冬休み前の予定をみんなで話していた時に、それは起こった。
「ねえ、みんな、クリスマスプレゼント何にするの?」
翠が何気なく聞くと、男の子たちは全員驚いたような顔をした。
「え?まだサンタさん信じてんの?」
「信じてるって…だって実際にいるでしょ」
男の子たちはコソッと囁きあった。やべえ、信じてんのかよ、気づかないのかな、普通。でも、6年生になるとそれを堂々と本人の前で言うことなんてしない。
「まあ、そうだなー、俺のところは来なくなったけど」
「俺も!」
声変わり前の高い声と、少しかすれた声が俺も俺もと賛同する。翠は少し面食らった顔をして、じゃあ、俺も今年で終わりかな、なんて言った。
なんだかなあなあになって気まずいまま、あとは当たり障りのない話をして、翠が「ちょっとトイレ…」と席を外した瞬間に、男の子たちはポツポツと囁き合う。
「なあ、ほんとに信じてんのかな…気づくよな、普通は」
「会ったことあるっていってたもんね。あれ、親が誤魔化しただけなんじゃないの?」
「俺もそう思う。サンタなんかいないって兄ちゃんも言ってたし」
「だよな、やっぱり親だよな」
教室の入口、扉一枚へだてた廊下側で凍りつく長身に、彼らは気づかない。
数秒後にどこか不自然に「戻ったよ…」と声をかける翠は、曖昧な笑顔とともに迎えられた。
その年、チアキはいつものようにプレゼントを詰めていた。自分が新人だった頃に担当していた子どもたちのおもちゃはめっきり減って、代わりにもっと幼い子向けのおもちゃの数が増えていた。
「……あ、」
最後のひとつを手に取って、チアキはひんやりとした感情が胸に広がっていくのを感じた。最後のおもちゃはフワフワとしたぬいぐるみで、そこにかかれている住所はあの翡翠色の瞳をした、少し泣き虫で優しい男の子の家ではなかったのだ。
大人になったんだなあ、と思う。ひとつ、またひとつとチアキが新人だった頃に担当する家が減っていく度、この日が来るのをどこか恐れていた。そして今、現実に目を向け始めた子どもがまたひとり増えて、それはチアキにとって何度も経験したことのはずなのに、そこに感じる寂しさはかつてないほど大きかった。
心のどこかで、この子は大人になってからも、チアキと会うためにサンタの存在を信じ続けてくれるのではないかと期待していた。ちょうどあの子は、声変わりが始まったばかりだ。少し掠れた声で、チアキお兄さんと呼んで欲しかった。ぐんぐん伸びていくしなやかな身体を、昔のように抱きしめて大きくなったなあと頭を撫でたかった。今、手の大きさを比べあったらどんな反応をするだろう。テストで満点を取った話、好きなゆるキャラの話。もう、二度と共有できない、チアキと翠の一年に一度の秘密。
(っ…!この程度で泣いていたら、今後もサンタなんかできないぞ…!)
ゆらりと水で揺らめく視界の中で、チアキは自分を叱り付ける。
それでも、チアキが言いたいのはそういうことでは無いんだと、ただあの子が特別だったんだと、心の中でもう一人の自分が叫び続けていた。
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翠の家にサンタが来なくなってから4年が経った。翠の背は相変わらず伸び続け、いつしか家族の誰よりも背が高くなっていた。声変わりはしたが、思っていたよりも低くはならなかった。
古びた家の二階は音をよく通して、隣の部屋で兄が切羽詰まった声を出して司法試験の参考書を放ると、ドン、と抗議するように翠の長い脚が壁を蹴り、それに対して蹴り返され、二人していがみ合いの喧嘩になりそうなところを両親の雷が抑えたことも、一度や二度ではない。両親をあからさまに無視したり、女の子から言い寄られる頻度も増えた。前者は年々落ち着いていたが、後者は逆にひどくなるばかりだった。「彼女いないの?」「私、高峯くんのことが好き」。隠しもしないあけすけな彼女たちの言葉や視線から逃げ惑う日々が続いていた。だから正直、冬休みに入った時はホッとした。
一目散に目に入って駆け寄れるような場所には数学やら古文やらの教科書が並び、ささやかな抵抗を示すかのようにゆるキャラのぬいぐるみが散らばって置かれている。
遅遅としてすすまない宿題からふと顔を上げて、時計が12を回っていることに気づく。
「……」
カーテンを開けると、窓の向こうに赤と緑のイルミネーションが見えた。そこまで見てようやく、今日は12月25日なのだと思い出す。
6年生の時、友人の言葉に振り回されてばかりだった翠が単純な決断をしたせいか、サンタクロースは来なくなった。
翠は普通に日付を超えるまで起きていられるようになった。寝不足の目を擦りながら学校へ向かうことだってある。それでも、何故か自然とこの日だけは、布団に潜り込んでもう来ないあの足音を待ち望んでしまう。
「何が……」
いけなかったのだろう。
手紙を書かなくなったからだろうか。欲しいものを伝えなかったからだろうか。バカにされるのが怖くて、あの日以降一度もクリスマスプレゼントの話をしてこなかったからだろうか。
チアキと名乗った赤い服のお兄さんと、ほとんど年が変わらなくなった見た目をしているのに、チアキに関する翠の心は幼い時のまま、チアキの腕の中で微睡んだ日で止まっている。
布団を敷いて、押し入れの奥をのぞき込む。いつの間にやら奥の方へ追いやられてしまったボロボロのぬいぐるみを見つけて、翠は思わず手を伸ばしてそれを引き寄せた。
長い年月特有の、少し埃っぽい香り。数年前まで抱きしめて一緒に眠っていた。プレゼントをくれた人の温もりが、ぬいぐるみに移っているような気がしたから。
『またあえる?』
『ああ、会えるさ。だからおやすみ、翠くん。沢山寝て、大きくなるんだぞ』
不安に泣いていた翠を、優しく抱きしめてくれたお兄さん。
『翠くん、好きなものをバカにされて辛くなったら、俺のことを思い出してほしい。俺は何があっても翠くんの味方だからな!翠くんは、自分の信じる道を行けばいいんだ。俺が応援してるから、大丈夫だぞ』
忘れていたはずの言葉が、鮮明な記憶を伴って蘇ってくる。翠の好きなものをバカにせず、性格をバカにしたり邪推したりもせず、見た目だけをみて擦り寄ってくることもなかった。ただありのままを受け止めてくれたお兄さん。
「チアキ……おにい、さん…」
16にもなって気持ち悪い。そう思ったのに、小さい頃のように声が震えるのを抑えられなかった。
兄の部屋が静かになっている。大方勉強に疲れて眠ったのだろう。
それをいい事に、翠は泣いた。声を殺してくうくう泣いた。毛羽立ったあっぷるんとトマトンのぬいぐるみに、翠の涙が染み込んでいった。
「会いたい…お兄さん……チアキさん…」
一年に一度、翠のもとにやってくる日が楽しみでならなかったのは、プレゼントのせいだけではない。チアキに話を聞いて貰えるから、認めてもらえるから、自分はまた頑張ろうと思えたのだ。チアキに会ったという紛れもない事実を、今更「サンタは実在しない」なんて一言で消化できないほどに、彼の存在は大きかったのだ。
サンタはいるのだ。生きて、感情を持って、そうして、翠たちの行いをどこかから見ている。いい子だと思ったらプレゼントをくれる。
サンタなんていないよね、と周りのクラスメイトに話を合わせていた翠を、チアキはどんな気持ちで見ていたのだろう。自分ばかり慰めて励まして貰ったのに、翠は何も返せていない。
「チアキさん…お願いします……」
反抗期があって、人と付き合うのが億劫になって、勉強も得意ではない自分は到底いい子から程遠いとわかっているのに、翠は願う。
翠が今年一番欲しいのは、チアキの温もりだ。
ひゅうっ、と窓の外で冷たい風が吹いて、ガタガタと窓が鳴った。あまりに大きなその音が気になって涙に濡れた瞳でカーテンをあけ、翠は大声で叫びそうになった。
大急ぎでガラス戸を開ければ、ガラガラという音の向こうに目を白黒させた男がいた。
彼は一瞬下を向いて、次の瞬間目的の人の視線が自分より上にあることに気づいて上を向いた。
「翠……くん…?」
名前を呼ばれても、上手く動けなかった。ただ、ポタポタと涙が頬を伝い落ちていった。
赤い服を着たその"お兄さん"は、すっかり自分の身長を越してしまった翠を見て、そっと手を伸ばしてきた。十年も前に触れられた手の重みは、色褪せてはいなかった。
「大きくなったなあ」
よいしょ、と少し高い敷居をまたいで、チアキが家に入ってくる。翠くん?と不安そうにのぞき込まれた瞳に自分が映っているのを見て初めて、翠はチアキを思い切り抱きしめた。
「ひっ、ぐ……ひっく…ひっ、ぅ……」
「なんだか、俺が来ると翠くんはいつも泣いているなあ…」
サンタは笑顔を届けるものなんだが、と困ったように笑いながら、チアキも潤む目元を隠すように翠を抱き締め返した。
「翠くん、俺の事、ずっと信じてくれてたんだな……」
「ぐすっ、、ぐすっ…」
「……俺たちサンタクロースは、子どもたちが信じてくれなくなると家に入れなくなるんだ。なのに、またこうして…」
「ごめ、なさっ…おれっ、おれっ……」
「いいんだ。サンタを信じなくなるなんていうのは、いずれ誰にでも来ることだからな。でも
、こうしてまた戻ってこれる家なんて未だかつてない事なんだ。だから俺も驚いてしまって…」
そこまで言うと、チアキは黙ってしまった。じんわりと熱い涙が、翠の服に染み込んだ。
「チアキ………さん、泣いてます?」
「泣いてなんかないぞ。ただ寒いから目が潤んでるだけだ」
「……」
翠はチアキから離れて窓を締め、もう一度チアキの元へ戻った。彼の顔を見ようとすると、チアキはあからさまに視線を逸らした。
「泣いてるじゃないですか」
「泣いてないぞ!!というか、どうして急に敬語なんだ?」
「だって…俺たち、実際はともかく見た目はほとんど変わらないし…でも、チアキさん、俺より絶対歳上なわけだし…」
照れくさそうに告げられたそれに、チアキは笑った。ニコリと赤銅色が弧を描くと、ポロリと雫が頬を伝っていった。
「翠くん」
「翠でいいです。この歳になってくんづけされるの、恥ずかしいから」
「翠」
「っ、」
トクン、と心臓が跳ねて、直後にきゅうっと締め付けられるような感覚があった。それは辛いものではなく、甘酸っぱい疼きを伴っていて、十年以上想い続けてきた気持ちの名前をチアキも翠もようやく見つけることができた。
誰からも教えてもらっていないのに、たった一文字の漢字が浮かんだ途端それはストンと胸に落ちたのだ。
「…翠、どうして俺をもう一度迎えてくれたんだ?今年は何も持っていないんだ。翠の好きなゆるキャラのぬいぐるみも、今の好みもわからない」
「俺、が…」
喉がカラカラになって、上手く言葉が紡げない。だけど、好きなものを好きと、心の中でも強く思えたのは、ずっと昔に幼すぎる告白をしたこの人のおかげだから。
「俺、が、欲しいのは…チアキさん、です…」
「……」
男が、男に。それがどれだけ世間では不思議な目で見られるか、翠はよく知っている。多様性なんて言われるようになっても、やっぱりまだ、自分が女の子を好きになれないことの罪悪感でいっぱいだった。クリスマスの時期は、彼氏と"彼女"の話しかされないから、特に。
だけど、今伝えなければ、チアキはどこかへ行ってしまうから。それが嫌で、小さな頃のようにチアキの服の裾を握って、翠は言葉を続ける。
「俺、チアキさんのこと…好き、で…俺が信じてるのは、サンタクロースとかじゃなくて、チアキさんその人なんです。ごめんなさい…チアキさんのことだけは、どうしても忘れられなくて…それに、好きって言ったって、俺、男だし、身体ばっかりでかいし、嫌かもしんないけど…小さい頃から、全然いい子じゃないし、こんな、ほんとに…ごめんなさい…」
「翠、それは…俺のことが……?」
「好き、なんです。好きなんです、ほんとに。俺、ずっとチアキさんのことが好きだったんですよ。毎年俺の事褒めてくれて、受け入れてくれて、そんな人、チアキさんしかいなかったから…!ごめんなさい。チアキさんだって、俺みたいなの嫌でしょ、もう、大丈夫です…」
「まてまて!早まらないでくれ」
チアキは大きく首を振って、翠を抱きしめた。何が起こったか分からなくて、翠は困惑したように立ち尽くす。
「最後まで俺の話を聞いて欲しいんだ。な?」
翠の返事を待たずして、チアキは話し始めた。翠の好きな、優しい口調で。
「初めて翠を見たのは、まだ翠が産まれたばかりの頃でな、すごく感動したんだ。この子はすごくいい子になるって、そう思った。俺の初めての担当で、これからこの子が大きくなっていくのを見守れるのが本当に嬉しくてなあ」
「……」
「プレゼントを置く度に、翠の寝顔を見るのが楽しみで楽しみで…初めて気づかれた夜に怖がらせてしまったのも、今ではいい思い出だ」
チアキは翠の前で手をパクパクとさせた。翠にはぼんやりとしか思い出せないが、遠い記憶の彼方で特徴的な語尾で話しかけてくれたチアキの顔が浮かんだ。
「泣きながら辛かったことを話してくれたり、テストで満点を取ったことを話してくれたり…そういった話を俺にしてくれるのも、とても嬉しかった。プレゼントしたぬいぐるみたちをすごく大事にしてくれていたのも、俺は知ってるぞ」
翠は黙って聞いていた。チアキはどう思っているんだろう。自分のことを好きなのか、そうじゃないのか。早くそれを聞きたかったけれど、好きじゃないと言われたらどうしていいかもわからなくて、急かせなかった。
「…翠が、サンタクロースを信じなくなった時、すごく寂しかった。毎年プレゼントを運ぶ度、ここの住所がないか探してたんだ。この4年間、ずっと翠の事ばかり考えてた。…翠が、俺にとって大切な人になっていたからな」
そう言うチアキの瞳に嘘はなかった。真剣な顔をして、翠を見ていた。
「俺がもし、願いを叶えて貰えるなら、翠のそばに居たいんだ。好きだって、言いたかったから。だから、その…なんだ、えっと……」
チアキは照れたように笑いながら、最後の言葉を探している。やがて、チアキは言った。翠の頬にそっと触れながら。
「俺は、翠に恋をしたんだ。だから、俺と付き合って欲しい。翠さえ、良ければ」
翠の瞳から堪えきれずに涙が溢れ出す。顔を覆って、肩を震わせながら翠は泣いた。まるで、プロポーズを受けた花嫁のように。
「うんっ……!」
そう言って頷くのが精一杯だった翠に、チアキは触れる。涙を拭って、目を合わせて微笑み合う。
「良かった…」
心からホッとしたようにチアキは言う。翠をぎゅうっ、と抱きしめて、チアキは言った。
「少し、時間が欲しいんだ。翠と一年に一度しか会えないんじゃ、嫌だからな」
「待ってます…」
「大丈夫だ、そんなに待たせはしないから」
チアキの手がサラリと翠の頭を撫でる。翠はその心地良さに目を細めた。
「さあ、おやすみ、翠。大丈夫、俺たちはいつでも逢えるから、怖がらなくていいんだぞ」
そっと布団に横たわって、翠はチアキを見つめる。その言葉を、チアキの存在を、もう信じたって誰も仲を引き裂けない。そう思ったら安心して、翠は引き込まれるように眠りについた。
┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈
「翠!!」
年の瀬の忙しい時期に、店から母の声がする時は大抵ろくでもない用事だ。野菜運んで、品出しして、呼び込みもっとちゃんとしなさい。今回は呼び込みかと検討をつけて、翠は階下へ降りていった。
25日の奇跡の余韻が抜けないうちに矢のように時は過ぎ、今はもう年の瀬だ。今年最後の営業日とあってか、八百屋はいつもより盛況だった。廊下ですれ違った兄が「手伝いお疲れ様」なんて彼女とのデートの帰りのまま頬を寒さに赤く染めてからかうものだから、軽く小突いて歩いていった。
「遅い、お友達待ってるでしょう」
友達と呼べる友達なんていた記憶などないが、翠は渋々表へと出て、そして息を飲んだ。
「チアキ…さん……?」
「おお!元気にしていたか?」
あらやだ先輩?ごめんなさいうちの翠が。大丈夫ですよ。母親と顔を見合せ笑っているその顔は、紛れもなく翠が記憶しているままだった。
「俺は守沢千秋と言います。よろしくお願いします」
「いえいえ、翠がお世話になってます」
モリサワチアキ。翠は口の中で小さくその名前を呟いてみる。千秋が人間界で生きていくための、新しい名前だ。
「翠、千秋くんと約束してたのに、何も準備してないなんて失礼でしょ。準備してきなさいね」
言われなくても、と翠は階段を駆け上がる。下からは「俺が突然来ちゃったので」「あの子ってばいっつもダラダラして…」なんて、まだ翠にまつわる話が続いている。変じゃないような服を選んで、少し髪を整えてみたりなんかして。いつもと違う様子の翠に、今度はひょっこり顔を出した父が「…デートか?」なんて妙に真剣に言うから「違う」とそっけなく返して一階へ降りた。
「おっ」
千秋が目を丸くして、ほんのりと頬を染める。
「かっこいいな」と照れたように言われたそれは、何よりも翠を幸せにした。
「すみません、忙しい時にお尋ねしてしまって…」
「大丈夫ですよ。翠、マナーには気をつけなさいね。暗くなる前には帰ること、変な人多いんだから気をつけて」
「わかってるって…」
年末で活気づく商店街を歩きながら、愛されてるなと千秋は笑う。どうなんだか、と翠は返す。人混みではぐれたら大変だとか何とか理由をつけて、千秋の手が翠の手と重なった。
「来年からプレゼントは配らないことになった。長く担当していたここ周辺の地域の子どもたちを総括して、プレゼントの手配や傾向を調べることになったんだ」
聞いてもいないのに、千秋は翠に話してくれる。それでも、人間の世界にいてくれることがわかって、翠はぎゅっと手を握り返して返事に変える。
「あっ」
とある一角で、二人揃って足を止めた。ガチャガチャの並ぶそこに、"ベジレンジャー"の文字があったからだ。
「回すか?」
「……はい」
百円玉を数枚入れて回すだけで、なんだかドキドキする。コロン、と出てきたカプセルを覗き込むようにして開けて、二人揃って顔を上げた。
「トマトン…」
「ああ、そうだな」
あのプレゼントを枕元に置いた夜、チアキが言ってくれたことは、翠の奥底に大事に記憶されている。自分の信じる道を進むこと。これから沢山、千秋と翠には辛いこともあるだろうし、楽しいこともあるだろう。そんな時間を共有する大切な人に、翠もプレゼントを返したかった。
「千秋さん、これあげます」
「いいのか?」
「はい。だって……俺のトマトンとお揃いだから」
千秋はサッと赤くなって、直後に笑った。
「はっはっは、やっぱり、適わないなあ、翠には。なあ、翠」
「なんですか」
「幸せだな」
翠は応えなかった。応えられなかったのだ。幸せで胸がいっぱいなのは、翠も同じだったから。もう、一年に一度の出会いに焦がれることも無い。ほんの一瞬のやり取りに寂しさを感じることも、相手を信じることができずに一人ぼっちで想い続けることもない。プレゼントに何が欲しいか、互いの口から聞くことだってできる。
その全てが、本当に幸せでたまらないのだ。
「そう、ですね」
そう言って笑い合うふたりの元には、もうすぐそこまで、共に過ごす翌年が迫っている。