ある時、私の世界から赤と言う色が一切合切消えてしまった。
赤が消えると、目に見える物全てがくすんで見える。
それに気付いたのは、朱墨を取ろうとした際にどれも墨に見えた時だった。
確か昨日ここに置いた筈だと手を伸ばし、墨を取るがどうにも普通の墨と見分けがつかない。
果たしてこれが朱墨なのか、ただの墨なのか。
困り果てて居ると近くを通った以蔵、がどうしたのかと声を掛けてきた。
「何しちょるんですか、武市先生」
「以蔵か。ここに置いていた筈の朱墨が見付からないんだが、知らないか?」
「え、武市。おまん、それ本気で言うたがか?」
目を見開いた以蔵が、少し怒りながら私にまた問い掛けた。
本当に見付からないから困っていると言うのに、どうしてふざけていると取られるのだろうか。
その理由は、以蔵から言われた言葉で判明した。
「朱墨なら手に持ってるそれじゃ!」
「え?」
私が手にしているのは、あれだけ探していた朱墨だったらしい。
以蔵に言われてもう一度見てみるが、やはり灰色にしか見えなかった。
だが、嘘を付けない以蔵が言うならば本当なのだろう。
「分かったならわしは行くぜよ。武市、疲れちょるなら少し休んだ方がええ。その、新兵衛の事もあったき」
「……私にはやることがある。休んでいる暇はない。以蔵、探し物を見つけてくれた礼を言う。だからもう」
行けと言えば、何とも言えない顔をして以蔵は私の元から去っていった。
あれは以蔵なりの気遣いである事は分かっているが、田中君の話題を出されるとどうしても言葉がきつくなる。
私の心に重くのし掛かり、未だに払うことの出来ない重荷になっているのだ。
重荷と言っては、彼に申し訳が立たない。
そう言うわけではなく、何と言えばいいのか分からず心を落ち着かせる為にも筆を取ろうと部屋へと戻る。
見た目は灰色ではあるが、手に持っている朱墨を用意していた硯で磨ってみる事にした。
やはり出てくる色は灰色にしか見えず、どれだけ磨ればいいのか分からない。
「まさか、私は赤が見えないのか?」
ここに来て漸く、赤色を自分が認識出来ない可能性を見出だして墨を磨るのを止めた。
手持ちの刀を取り鞘から抜いて、その切っ先に指を押し付ける。
ぷつりと皮が破けたと同時に血が滲むが、それは見覚えのある真っ赤な色ではなく灰色の液体だった。
疑惑が確信に変わり、私は滴る血を止める事無く記憶にある赤色を思い浮かべる。
血の色は勿論、紅や着物の赤色、神社の鳥居。
ありとあらゆる赤色の物を思い浮かべるが、どれもこれも灰色一色に変わってしまっていた。
高杉の目に痛い程鮮やかだった髪すら、今では灰色にくすんでしまっている。
赤色が灰色に見えるなら、私が絶対に覚えていなければならない義弟の事も灰色に見えるのだろうか。
義弟の、彼の、田中君のあの髪色だけは失われたくはない。
あの日から田中君の事を思い出さなかった日はないが、今思い出したらどうなるのだろうか。
刀を一度鞘に戻して、自分の記憶に残っている田中君を思い浮かべた。
赤銅の色をした長い髪の田中君の姿が見えて、ほっと胸を撫で下ろす。
田中君の髪色だけはちゃんと鮮明に見え事に、安心していると部屋に来た同志が私の指の傷を見てぎょっとしていた。
それ程深く刺したつもりはなかったが、血の色が灰色でどれだけ垂れているのか分からなかった。
手当てを受けながら、同志に赤い物は無いかと問い掛ける。
「赤いものですか。そう言えば、人気の絵師の絵が赤い着物の女でした。確か……あ、あったあった。これです」
渡された浮世絵の女の口も着物も全て灰色に見えて、記憶だけではなく目も赤を捉える事が出来ない事を悟った。
「有り難う。もう大丈夫だ」
同志に絵を返しながら、田中君以外の赤を私は失ってしまったのだと確信した。
きっとこれは、彼を切り捨てた罰の一つなのだろう。
牢に入れられた時から、視界に入る色は全て暗かったが赤を見ないだけ良いのかもしれない。
赤色が判別出来ず、途中から同志にも迷惑を掛けていた。
敷かれた茣蓙の上に座り、刀を握りって腹に突き立てる。
どろっと溢れた血は、最期まで灰色にしか見えずに激痛の中で苦笑した。
私が彼に犯した罪は、切腹だけで償えるモノでもない。
介錯を受けながら、それでも鮮明に。
鮮明に映る田中君の髪色だけが、私に赤色はどんなモノだったのかを教えている様だった。
それが、きっと彼を殺した私への罰だったのだろう。
死してもなお続く罰を思いながら、煙草を燻らせて生前の記憶を思い出していた。
高杉と龍馬の三人で会合をしながらも、相変わらず灰色に見える高杉の髪に死しても尚許されぬ身に目を伏せる。
「武市さん、何か懸念する事があるのかな」
「いや、今のところはない。田中君については、私が引き取って問題はない筈だ。出雲阿国は、高杉。お前にだったな」
「田中君って確か、武市の義弟だっけ?召喚されてて良かったじゃないか、お前の犬だろ」
「田中君は飽くまでも私の義弟だ。会合はこれくらいでいい筈だ。先に失礼する」
大まかな内容は決まっているのだから、これ以上長居をする理由もない。
席を立った私を引き留める事無く、二人も御開きにしたのか各々名目上のマスターへの元へと戻る。
互いに腹の底は探り合いの状態であるが、計画の支障はない。
会合の場から外に出て、灰色に染まる空を見上げて目を細めた。
「……灰色の世界だな」
この場に召喚されても、私の世界に赤色が戻る事はなかった。
赤色が判別出来ないだけでなく、赤みが掛かったものも例外ではないらしい。
赤みが入れば私の目には、灰色にしか見えないのだ。
だから、龍馬が高杉の髪色について言われるまで私は分からなかった。
二人は何か気付いた様子だったが、敢えて触れずに話を進めてくれた事だけは感謝している。
「早く田中君に会いたい物だ」