毎日SS8/19 互いの間に広がるのは、甘酸っぱさを通り越した緊張感だけで、そこに会話は存在しない。
今日も、用があるからとケイゴを呼び出したものの、会話らしい会話もないまま、1日が終わろうとしていた。ウルフとの約束は、当然果たせていない。
どうやって三日月を見せようか。最初に用意していたプランを失敗してしまったせいで、代替案が思いつかないまま、ここまで来てしまった。
「あ、猫」
「えっ……⁉︎」
「ほら、あそこ」
ネムは今ケイゴの隣にいる。ケイゴが指すネコがネムである筈がない。完全な自意識過剰だ。
「可愛いね」
ケイゴがネムの方を見る。案外しっかりと目を合わせる彼に、不覚にもドキッとしてした。
「そ、そうね……」
本当は、朝からずっとドキドキしている。
ウルフとの約束だから、と頭ではわかっているのに、選ぶ服は普段着よりも少しだけ奮発して買ったワンピースだし、リボンを巻き込んだ髪の毛だって、いつもより複雑だ。
もちろん、そんなことをケイゴが気付くとは思っていない。些細な変化に気付いては何かを言って欲しいなんて、付き合っているわけでもないのに、贅沢過ぎる。
ケイゴに会うためにめかし込んだことも、しどろもどろな会話しかなくても、それでも会えて嬉しいことも、自分だけが抱えていればいいと思っていた。
それなのに、可愛いという簡単な単語が、見知らぬ猫に向けられたのが面白くない。
(私って本当に駄目だわ……)
今もまた、ぶっきらぼうな返答になってしまった。頭の中でシュミレートした会話がそのまま口に出せればいいのに。先程のケイゴの台詞に、何度も会話を継ぎ足す。
「ネムちゃんは猫好き?」
「え、ええ……人並みには」
今その猫にやきもちを焼きました、とは言えない。ポシェットの肩紐をギュッと握り締めた。
「可愛いよね、猫」
「そうね」
会話はそこで止まってしまう。広げられる程の話術がないのだ。そもそも、『猫が可愛い』で話を広げられる人なんて存在するのだろうか。
「ウチにもよく猫くるんだけどさ」
「へっ⁉︎……へぇ、そうなの」
「野良か飼い猫かわかんないけど、気付いたら窓のところで入れてって待ってるんだよね」
これはネムのことだと思う。あの辺りに野良猫は少ないし、家の中にまで上がる図々しい猫はネム以外にいる筈がない。
本当は、今日もその方法にしようと思っていた。そうしなかったのは、ケイゴに会いたかったからだ。
「最初はニコとかモリヒトばっかりだったんだけど、最近オレに懐いてるみたいで」
ドキドキ、とはやる鼓動を抑えるために、更に強くポシェットの肩紐を握った。こぶしに煩い心音が伝わる。
「たぶん、今まで見てきた猫の中でいちばん可愛い」
手のひらに爪が食い込みそうな程の強く握っていたこぶしがゆるむ。
「そう」
ケイゴは、その猫がネムであることを知らない。決してネムのことを指しているわけではないとわかっているのに、膨らんだやきもちは破裂してすっきりしてしまった。
ふと、明後日の方向に顔を背ける。このままケイゴを見ていたら、にやけただらしない顔を晒してしまいそうだ。
「どうかした?」
「ううん、なんでも」
ウルフとの約束は果たしたい。しかし、それは今日ではない。
約束を改めるのはまた後日にしようと、ワンピースの中で揺れる三日月のネックレスを撫でた。