それはまったくの思いつきで行われたことなのだろうが、存外長く続いている。
午前五時、まだ隣で眠る恋人を起こさないようにベッドを出る。
サッカー選手を引退し、御影コーポレーションの家業を継いでからは、それなりに忙しい日々を送っており、ここ最近の俺は出張が多いこともあって、二ヶ月に一度、家を空けていた。一回の出張で一週間近く家を空けることもあれば、長いと二週間以上空けることもある。今回は長い方で、今日から二週間、家を空けることになっていた。
出張がある朝は決まって早起きし、身支度をして、前日にパッキングしたスーツケースを持って家を出る。気持ちよさそうに眠る凪を起こすのは忍びないが、だからといって行ってきますのキスと、凪から返ってくる「いってらっしゃ〜い」の言葉だけは譲れなくて、いつも家を出る直前には起こしていた。裏を返せば、家を出る直前までは凪を起こさないようにしている。
たとえ、凪とお揃いで買った、小さなストラップつきの鍵が見つからなかったとしても、だ。
「ここだと思ったんだけどなー」
浴室の中を見て、うーんと唸る。
冷蔵庫の中を見ても、靴箱の中を見ても、浴室の中を見てもダメだった。どこを探しても鍵がない。
凪は、俺が出張に行くと知ると、必ずその日の朝までに家の鍵を隠してしまう。あるときから始まった悪癖兼ちょっとしたゲームは、今のところ俺の勝ちで、さほど時間をかけずに鍵を見つけることができていた。
大体、隠す場所が分かるのだ。というよりは、朝の身支度中に見つかることが多い。朝起きて顔を洗うときに使う洗面台や、飲み物を求めて開ける冷蔵庫、靴を履くために開ける靴箱。
浴室のときは少し困ったけれど、扉が僅かに開いていたので気付くことができた。だから、今日もすぐに見つけられると思っていたのに。
「マジでどこにもねぇ……」
本当にどこにもない。もしかしたら冷蔵庫ではなく、冷凍庫の方かもしれないと思って確認してみたけれど鍵はなかった。
時間は刻一刻と迫っている。あと十分ぐらいで家を出なければならない。凪を起こす時間を含めれば、余裕なんてなかった。
仕方なく鍵の捜索は諦めて、寝室をノックする。凪からの返事はなく、まだ眠っているようだった。
「な〜ぎ〜」
「ん…………」
壁際に身を寄せていた凪が、俺の呼びかけでゴロンと寝返りを打つ。
いつも眠たげな目をしているが、寝起きの凪はさらに目が開いていない。むにゃむにゃと口を動かして、ふわっと大きなあくびをする姿はどこか幼く見えた。
凪は「ん〜〜」と唸って目を擦ると、やっと俺の姿を捉えた。
「……おはよ、レオ」
凪が身を乗り出して、ちぅ、っと軽く頬にキスしてくる。俺は明後日の方向に跳ねた髪を撫でつけると、お返しとばかりに凪の頬にキスした。
「なぁ、あのさ、鍵……見つかんなかったんだけど」
「……鍵?」
すっとぼけた顔で凪が言う。
可愛い。……ではなくて!
「鍵がどこにもねーんだよ。もう出なくちゃ行けないのに」
「へぇ……、それで?」
「早くどこにあるか教えろ」
そう言えば、凪がふっと口元を緩めた。
鍵を見つけられなかったのは、今日がはじめてだ。だからだろう、敗北宣言ともとれる俺の言葉が聞けて嬉しいのかもしれない。
ちょっと悔しいが、遅刻するよりはマシだ。それに、鍵を隠す理由がなんとなく分かる手前、責めるに責められない。
「じゃあ、ヒントね」
「ヒント?」
「うん」
凪が頷く。俺は藁にも縋る思いで、もう一度「教えて欲しい」と凪に頼んだ。
「レオが絶対に"来ない"ところに隠した」
「来ない……ところ…………」
じっと凪の目を見つめる。
身支度中、絶対に来ないところといえば寝室だ。なるべく凪を起こさないように、俺は…………
「ここか!」
ハッとして、凪の枕の下に手を突っ込む。コツンと指先に固いものが触れた。
「お前、こんなところに隠してたのかよ!?」
「あーあ、見つかっちゃった……」
残念……と凪がベッドに突っ伏す。本当に行っちゃうの? と名残惜しむように言われて、うっと胸が痛んだ。寂しそうな目が、俺の決心を鈍らせる。だけど。
「ごめんな、凪。すぐに帰ってくるから」
「……絶対だよ」
「あぁ、絶対。だから、いい子で待ってろよ」
どんなに慌てていても行ってきますのキスだけは忘れずに凪の唇にして、バタバタと寝室を出る。
「気を付けてね」
という、凪の言葉を背中で受け止めて部屋を出た。見つけたばかりの鍵を使ってドアを施錠し、急いで空港へと向う。
素直に寂しいとは言えない恋人の、ぬくもりが移った鍵を握り締めて。