イグゼキュターはドクターの執務室へ繋がるドアを開けた。就業開始時間からきっちり、二十分前のこと。
「おはようございます。イグゼキュター」
「ドクター、おはようございます」
柔らかく迎え入れてくれる声へ、意識せずイグゼキュターの声音から硬質さが削がれる。機械のようだと称された男が人間味を得る瞬間。
作戦行動中とは違い、フードもマスクもフェイスシールドもないドクターの種族的特徴すらない素顔を眩しそうに眺める。
「今日は顔色がいいようです」
「はい。ここ最近は貴方のおかげで仕事がスムーズに終わり、その分たくさん休息がとれていますから」
「良いことです」
「はい。イグゼキュターはしっかり休めていますか」
「いつも通りです」
「それは良いこと、ですね?」
「はい」
自身の端末を立ち上げ仕事の準備をしつつ、とりとめもない会話をする。雑談に属するものだが、ドクターはこれが無駄だとは決して感じない。彼を秘書にとした当初、あまりの話しの通じなさと他者にはない感性に眩暈を覚え、彼とは会話を重点としたコミュニケーションが必須と判断した。だって秘書任命初日、朝っぱらから執務室の外に地雷を設置したと堂々と報告してきちゃう子だ。回転率が良すぎて変な方に振り切ってしまっているその頭へ、倫理観やら常識をぶち込んでやらなくては。その判断は間違っていなかったと思っているし、それがあったからこそこんにちのような気兼ねなく軽口も交わせるほどの仲になれたのだろう。
端的に言うと、二人は先日、晴れて恋人という間柄になった。
紆余曲折を経て、山や谷を登ったり下りたり駆けたり滑ったり転がったり、銃弾や斬撃やアーツが飛び交ったり。色々、本当に色々あったが、なんとか丸く収まった。無理やり収めたとも言う。ドクターはこれまでのことをちょっと思い出し、泣きそうになった。壮絶な苦労のあとの幸福というものは一入だ。
就業開始十分前。準備を終えたイグゼキュターは、たんまりと砂糖を入れたカフェオレをのほほんとすするドクターを見やる。
他者より高速で思考する、優秀すぎる脳だ。それを可動させるのにも維持するのにも糖分は必須。あとでデスクに常備されている中身が減ったお菓子箱へ、チョコレートとキャンディを追加しておこうと決めた。ついでに十時と三時のおやつ時間も設けよう。
「ところで、ドクター。個人的なことを言ってもよろしいでしょうか」
「はい、どうぞ。ふふふ、個人的なこと、言ってくれるんですね」
「迷惑でしたか」
「いいえ、とても嬉しいです」
彼に嬉しいと言われると、胸がくすぐったい不思議な感覚になってしまうのと気付いたのはごく最近。それをそのまま伝えると、ドクターは照れくさいように笑って、僕が嬉しいとどうやら貴方も嬉しいと感じてくれているのかも、とのこと。成程、とイグゼキュターはドクターを通し、日々感情や情緒というものを良く学ぶようになった。
どうぞ、と先を促すように差しだされた掌を握る。微かな熱と脈を感じ、彼が生きていることを実感する。元々の体温が低いドクターと似たり寄ったりのイグゼキュターなので、手を繋いで丁度いい温度になる。
「では、言わせていただきます」
「はい」
「私は、貴方と性行為を望んでいます」
「んぅ、ふぐっ」
「どうしました」
「……カフェオレが、変な、ところに」
聞くやいなや、ドクターの後ろに周り華奢な背を摩った。肉も筋も骨も薄すぎて痛々しく思える背中だが、ロドスへ所属し戦場へ赴くオペレーター全ての命を背負って立つ背中でもある。
「けふっ、すみま、っ、せん」
「いいえ。ゆっくり呼吸してください」
想像するよりもずっと優しい手つきで、イグゼキュターはむせて痙攣する背中を慰める。
「……ありがとうございます、イグゼキュター。もう平気です」
振り返り見上げてくるドクターの顔が少し上気している。平素は不健康の申し子、薬物(理性剤)乱用にオーバーワーク、常時寝不足、たまに力尽き廊下で気絶するように眠っているところを発見され医療室送りにされてはケルシー医師に小言を言われる、本来は真っ白を通り越し蒼白なその頬を、人を殺すことにたけた手が撫で乱れた髪を整える。大事にされている。大切に扱われている。じんわりと、そう、実感する。
だからこそ、ちゃんと向き合わなくてはならない。これは彼一人の問題ではない。二人の問題だ。
「ええっと、あれ、ですね」
「あれ」
「その、僕と性行為を望んでいる、と」
「はい。そう望むのはおかしいことでしょうか」
「いいえ。恋人とそういう接触を望むことは、おかしいことではありません。ただ、僕が勝手に、あなたにはそういうものはないのだと思い込んでいたもので。ちょっとだけびっくりしてしまいました」
「私も男です、ドクター」
唯一の好意を向けた相手には触れたい。
「ええ。あなたは決して、綺麗なだけの天使ではない」
頭上の光輪に背中の翼。全き美貌の天使。しかし彼はしっかりと欲を持った、個として成立している男性だ。
ドクターは鷹揚に頷き、頬へ添えられている掌へ擦り寄る。あなたを受け入れる、という意志を滲ませ。頬をすっぽりと覆う、銃火器の扱いに慣れた指先は硬い皮膚をしている。
「しかし、問題が一つあります」
寄せられる肉付きの悪い頬。ドクターの身長から算出するに、標準を大いに下回っているこの体重を、少なくともあと三キロは増やしてやりたい。個人の理想としてはもっと太ってくれても構わない。彼のぷくぷくもちもちになったほっぺたを摘んでみたい。こうして密かにドクター体重増加計画を画策している思考の傍ら、知らぬところで体重を増やされようとしている当の本人がぱちりと目を瞬く。
「どのような問題が?」
「私は、性体験をしたことがないのです」
「おーっと?」
つい、素で喋ってしまった。
本来は非常に気安い話し方をするドクターであったが、それではオペレーターに示しがつかないとドーベルマンから苦言されて以降、話し方を改めるよう努めた。しかし親しい者とじゃれあっていたり驚いたすると咄嗟に戻ってしまう。いけない、いけない。
けほん。わざと咳払いをし、視線でイグゼキュターへ先を促す。
「私は今まで生きてきた中で、他者へ触れたいと思ったことや性的な欲求を懐いたこともありません。恋人も勿論、いませんでした」
「僕のことは、初恋だと言ってくれましたね」
「はい」
「あなたの初恋が僕であること、とても嬉しいです」
「私もです」
添えられたままの掌に頬の動きが伝わる。ドクターはふにゃっと笑った。とても幸せそうに。しかし、その表情はすぐに引き締まる。
「つかぬ事を尋ねますが」
「はい」
答えたくなかったら言わなくていいですからね、と前置き。
「自慰などの経験は?」
「ありません」
「はわ」
「必要だと感じたことがなかったので」
「あの、エッチな本とか、映像などは?」
「進んで見たことありませんが、業務の一環として遺品の整理・確認のためにそういった類いのものは何度か目にしたことがあります」
「あの、あの、子供がどうやってできるかは知っていますか」
「それは義務教育の過程で習いました」
「な、なるほど」
よかった。赤ちゃんはシュバシコウが運んでくる、などという展開にならなくて。
「私も尋ねてよろしいでしょうか」
「僕に答えられることでしたら」
硬い指先に力が込もる。ドクターの頬が指先の形に少しへこんだ。
「ドクターは性体験がありますか」
「……あ、あー……」
ドクターの視線があっちへ行ったりこっちへ行ったり。脳の中で最適解を模索する。視線と同様、思考もあっちこっち行ったり来たり。ねぇ、普段は良く動く脳なのに、なんでこんなときにちゃんと働いてくれないの。
やがて、諦めたように目蓋を伏せ、無駄に空回りする思考もシャットダウンする。これ以上はカロリーの無駄だ。お菓子を運ぶ手が止まらなくなってしまう。
頬にあてられたままの掌が温かい。この質問をしたことで、イグゼキュターも自覚せず多少の緊張をしているのだろう。
「……僕が、一年ほど前に記憶喪失になったということは、以前教えましたね」
「はい」
「なので、自分のことではありますが、主観だけでその質問は答えられません。僕の中には、これが正確な記憶、という自信をもって言えるものがないので。その上で、他者からの言動を元にした僕の予想で答えます」
細く長く、息を吐く。
イグゼキュターが、はいと頷いた。
「恐らく記憶をなくす前の僕は、そういった経験があったと思います」
「記憶をなくしてからは?」
「……い、一度、だけ」
「相手は女性ですか、男性ですか」
「男性、です」
ちなみに、相手が誰かは言えません。
イグゼキュターが問う前、一線が引かれた。
「ここ一年の私の惨状は、あなたも周囲も知っての通り。自身が置かれている現状の把握や知識を取り戻すのに、形振り構わず死に物狂いでもがいていました。性的な接触は、その過程で薬の過剰摂取による軽い錯乱状態での事故でした」
情は、多少あったのかもしれない。向こうに。憐憫だとかの類いが。しかし愛が伴う行為では決して、決してなかった。
「私はあなたに理解と寛容を求めます、イグゼキュター。私の過去に何があろうとも、今、最たる情と関心を注ぎ、行動を注視し、恋を経て、愛し合っているのはあなただけだと」
イグゼキュターに遠回しな言い方はよくないというのは、これまでの経緯を踏まえると明白だった。
だから、直球で告げる。
自身がどれほど彼に心を砕いているかを理解してほしい。そして理解したのなら、過去のことは水に流して欲しい。
この主張は、酷く我儘で、傲慢だ。