眠れないんだ。
困ったような、寂しいような。決して涙など流すことなどなかった少年の初めて聞く弱々しい声が、耳元で響いた気がした。
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微かに聞こえた玄関の開く音に意識を浮上させた。眼球だけを緩慢に回し、サイドテーブルにある物騒な首のないぬいぐるみの横、デジタルの時計が午前二時を示しているのを確認する。
柔らかく軽い掛け布団を深く被り直し、夢現のまま響いてくる物音を子守唄のように聴き入る。玄関の鍵を閉める音、靴を脱ぐ音、少し静かになり、ダイニングテーブルに荷物を置く音。寝る前にテーブルへ置き手紙をしたから、今頃きっと読んでいるのだろう。お疲れさまという労りと夜食は冷蔵庫の中というありきたりな内容を、暗闇でも鮮明に物事を捉えるあの美しい金の瞳で。
意識が遠退く。寝付きはすこぶるいい方だ。嫌なことがあった日でさえきっちり八時間の睡眠をとった自分に、お前それは流石にないだろうとセルフでツッコミを入れるくらいには。寝付きが良すぎるせいで家の玄関から居間までの短い廊下で寝てしまっていたとか、学校の廊下で眠っているのを友人に発見されるとか。あまりにどこでも眠ってしまうものだから睡眠障害の一種である過眠症を疑われ、病院を受診したこともある。勿論、異常は認められなかった。
微かな足音が近付いてくる。誰かが、あの男がいるのが、少年の眠気に拍車をかける。
男は少年の家族であり、家族にしては希薄で。保護者であり、保護者にしては寛容で。同居人であり、同居人にしては親密だった。物心ついたときから両親がおらず、謎のド派手な(自分のことを朕と言う)中国人が経営している施設で過ごしていた自分の前に突如現れ、里親として名乗りをあげたのが氷のような鋭い美貌のフランス人、エドモン・ダンテスという男だったのだ。
安心してしまう。ここはあの男が用意してくれた巣で、あの男の領域で、あの男の匂いと気配で満ちていて。それだけでもう、守られていると思ってしまう。絶対の信頼を置いてしまう。ここにはなんの危険もなく、脅威もなく、害意もないと気を抜いてしまう。だからこそ眠気が勝るのだ。
うっすらと開いていた目蓋が完全に降りる頃、部屋のドアがゆっくりと開いた。まだ微かにあった意識で、男が近くに来たのを感じる。
「……眠っているのか」
闇に溶けるような、穏やかな声色。呼応しようと目蓋を震わすが、目は頑なに開かなかった。
「いい。そのまま寝ていろ」
おやすみ。良い夢を。
大きな掌が目を塞ぐように置かれる。外から帰ったばかりで冷たい指先が徐々に温まっていくのを感じながら、ゆっくりと意識を手放した。
少年が眠ったあともずっと、男はその目蓋を塞ぎ続けた。
祈るように。
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金曜日の夜。
明日は高校が休みで、夜更しをしていい日だ。素晴らしい。
親しい女友達は次のイベントの原稿があるから徹夜すると張り切っていたが、少年には全く関係ないことだったのでさっさと夕食を済ませ、風呂に入り、二十一時から毎週放送される映画をジュースとお菓子片手に見た。時折メッセージアプリが鳴って、挫けそう、負けそう、声かけて、寝落ちするかも、と矢継ぎ早に泣き言が送られてきて、その全部にちゃんと返信をした。律儀で情が深いのは、少年が特出して賞賛されるべき美徳だ。
なかなかに面白かったアクション映画も終わり、深夜に近い時間帯のテレビは笑いに重点をおいたバラエティ番組へ切り替わった。その頃にはアプリが新着のメッセージを受信することもなくなったから、落ちたな、と少年は笑う。起こすべきかと一瞬考えたが、なんとなく行動には移さなかった。締め切りにはまだ余裕があると知っていたから。
お菓子もジュースも空っぽで、興味も失ったテレビは消した。歯磨きを済ませ、何をしようかなと考えながらも無意識に自室のベッドへと転がった。そうなってしまえばもう、訪れるのは睡魔しかいない。寝転んで十秒、早速うとうとしてきた頭に慣れ親しんだ音が玄関からした。男が帰って来たのだろう。デジタル時計を確認。今日は比較的早い帰宅のようだ。
男がなんの仕事をしているのか、少年が訊けないことの一つ。訊いてはいけないような、訊きそびれてここまできてしまったような。もうこの際、何やっててもいいかなと投げやりなような。複雑な心境で、最後は開き直っている。
流石に頭が冴え、身を起こした。それと同時、部屋のドアを許可もなく開けた男と視線がかちあう。
「……眠れないのか」
「いや、寝ようと思えばいつでも。どこでも」
「起こしてしまったか」
「起きてたような、そうじゃないような。寝るのもいいけど、折角の金曜だからさっさと寝ちゃうのもなんか勿体ない気もする」
「貧乏性」
「君の熱心な教育の賜物だね。ありがとう」
「素晴らしく名誉なことだ」
言ったそばから、男は消えた。部屋のドアを開けたままで。だから隣の自室でスーツから着替えた男がバスルームに向かうのに少年の部屋を横切ったのを目にし、さっさとシャワーを済ませ手作りの夜食を温め直してから食べているだろう音もしっかりと届いた。
自分以外の生活音というのは、案外心地が良い。ベッドボードに枕を敷きつめて寄りかかり、瞳を閉じて音だけを聞く。食べ終わった食器を洗う、洗面所に行き歯を磨く。視界を閉ざして聴覚だけで行動を男の把握するのは、幼い頃から長く共にあったがために容易い。あとは自室に戻るのだろう。そこで仕事の続きをするのか寝てしまうのか、それはわからないが。できれば自室に戻る際、部屋のドアは閉めてから行ってくれればいいのだけど。
しかし予想に反し、寝るばかりのラフな格好をした男は少年の部屋を通り過ぎることはなく平然と入って来た。
「考えたのだが」
ベッドサイドに立った見上げるほどの長身から声が落ちてくる。薄暗い室内。光源もないのに鮮明な金色が輝く。静かな、いや、鮮烈なる月のような。
「今日から、共に眠ろうと思う」
「うん。……、うん?」
「了承したな?」
「うん? ぇ、んん?」
「では、早速」
長い腕がするりと伸び、少年の身体を簡単に抱き上げてしまった。幼い頃には抱っこも経験させてもらったが、十七歳になってこれはちょっと。
「あの」
「なんだ」
「歩けます」
「知っている」
「自分の足でちゃんと立てます、歩けます」
「立派に育ったものだ」
言外に、降ろしはしないが。付加された意思を正確に読みとり、少年の眉間が狭まる。下がった眉尻にフランス男らしい自然な所作で口付けを送ってから、広いベッドへ丁寧に降ろされた。
「ね、あの、なんで君の部屋……」
「お前のベッドでは狭いだろう。何故シングルサイズなぞ買った? せめてクイーンサイズにすればいいものを」
「せめてのハードルが高い。じゃなくて! いやいや、一人で寝るのにそんな大きいベッドいらないだろ」
「目出度くも今日から二人寝だ。人生とは何が起こるかわからんな」
「いや、いやいやいや! そもそもなんで二人で寝ることになるの?!」
反対側から男もベッドに乗り上げ、混乱に喚く少年へ布団をかけてやった。まだ忙しなく口を動かしながらも促されるまま身体を横にしてしまう少年の愚直なまでの素直さを、男は言葉にせず心底賛美した。男は手放しで賛美したが、もしここに第三者いたならば、ちょろい、の一言で片付けられてしまっただろう。
なんで、どうしてをまだ繰り返し困惑している少年に顔を近付け、頬を寄せる。男の過度な接近であからさまに減った口数を気にかけることもなく、耳元でチュと軽いリップ音を立てる。口を直接つけたわけではない。音だけだ。ビズ、所謂チークキスと呼ばれるそれ。フランス人である男には当たり前の習慣。
「……慣れないな、お前は」
完全に沈黙した少年を見下ろす。くっついていた頬もリップ音を拾った耳も真っ赤だ。もう一度したら怒られるだろうか。最低でも二回はしたいのだが。
「うるさい、です」
「幼い頃はなんともなかったのに」
「無知だった自分を殴りたい……」
「愛らしい幼子に手をあげるのは感心せん」
「自分だから示談成立。てか、愛らしいとか言わないで」
当然のごとく少年を抱き締めて眠ろうとしていたのだが、広いベッドで距離をとられ拗ねたように背中を向けられてしまった。
「ほんとに、もう……。なんで一緒に寝るの」
「眠れないと云っていただろう」
「言ってない」
「云っていた」
「どこの俺が言ってたの」
「……」
妙に押し黙られたので、心配になって振り返った。
「もしかして、仕事で疲れてる? ストレスいっぱい? ギュってする?」
ハグはストレスの三分の一を緩和すると、いつかのテレビで見たような気がした。
「疲れてはいないが、ハグならば是非とも」
「疲れてないならギュってしません」
「残酷なことだ」
しかし、チークキスは恥ずかしくてハグは恥ずかしくないのか。眉尻にキスをしたのも恥ずかしがらなかったな。少年の羞恥の境界を掴みあぐねる。
再び薄情にも向けられてしまった背中に手を伸ばす。健康的でしなやかな身体。びくりと一度震えたが、かまわず長い指が肩甲骨を辿り、形のいい爪の先が肩をくすぐる。
「っ、あのっ、イタズラはちょっと」
静止を求めたが、指は止まらなかった。首筋を掻き、耳の一番柔らかい場所を摘み、髪を撫でる。
「エド、」
「お前が」
名を呼ぼうとして、強い口調で遮られた。
「お前が、泣くから」
眠れないんだ、と、泣いたから。
全く記憶にないことを主張され困惑する。それとも記憶があやふやな幼い頃にでも告げたのだろうか。
この男に、泣きながら眠れないと。
「弱音を吐くことを善しとせず、零して当然の愚痴すらも噤み、恐怖して然るべき現状への不安さえも呑み込んで。他者を支えることを優先し、他者を励ますことを率先し、他者が救われることに尽力した。しかして一方で、己が誰かに寄りかかることを厳しく律し、重くのしかかる現実を容易く受け入れ、救いを求めず、見返りを求めず、それが当然なのだと装った」
誰の話をしているの。そう問う前に、お前の話だと返される。
「そんなお前が、泣いた。眠れないと。初めて零した弱音だった」
あちらこちらに跳ねた髪に指を絡める。男よりも小さい頭、細い首、狭い肩。そんな身体で世界を背負った少年。
世界を背負っていた、かつての少年。
「……それは、いつの、どこの俺が言ってたの」
先程は返答のなかった質問に、男は微かに魅力的な薄い唇を歪める。
「何時も、何処もない。お前が云って、お前の話だけをしている」
最期に頭を覆うように撫で、男の手は離れていった。名残惜しいような、ほっとするような。
「お前は今、眠れているか」
もう、泣いてはいないか。
「……寝れてはいるけど、現在進行形で安眠妨害されてる」
「それは失礼」
クハっと独特な笑い声のあと、おやすみと穏やかに呟く。
「良い夢を」
「……おやすみ」
男に背中を向けたまま少年は眠りに落ちた。なんとなく振り返るのはこわかった。振り返った先、本当に己が知っている男がいたのだろうか。もしかしたら美しい男の姿をした、別の何かがいたのではないか。その小さな不安は、規則的に呼吸を続けると次第に落ち着いた。
男を象徴する煙草と蠱惑的な匂いが、少年を温かく包む布団から香っていたからだ。
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土曜日の朝。いつもより少し遅く起きた少年は絶叫した。
男の部屋で就寝したのを忘れていて、更にいつも早く仕事で出掛ける男がまだいたことにも驚いた。が、何より。その男に深く抱き締められ眠っていたことに叫びをあげたのだ。
「お前から求めて抱きついてきたが?」
「寒さから温かいものを求める自分の生存本能がこわい」
「善い傾向だ。この先もそうして危機管理を大切に、健全な精神で生きてくれ」
「同性に抱きついて寝るのは健全なの? 健全てなんだっけ?」
辞書アプリを起動しそうになった指を掴まれる。その指先に口づけられ。
「おはよう」
「……、おはよ」
それもフランス式の挨拶なの。と問えば、お前にだけの特別な挨拶だと返される。ああ言えばこう言う。男に口で勝てた試しはない。
そうして、少し奇妙で、難解で、しかし平和で平凡な日常が始まった。