「……どうしてこうなるんだ」
「うーん、どうしてだろうね」
傷だらけになった己の両手を持て余しながら水心子と睨み合っているのは、清麿が抱えている小さな塊。
その塊──本丸に迷い込んだ子猫は、つい先ほどまで手当をする水心子に抵抗して散々暴れまわり、それがようやく落ち着いたところだ。
手当が終わった途端に清麿の懐に潜り込み、そのまま引っ付いて離れなくなったのだが、清麿と共に散々手を焼いて慎重に手当をしたはずだというのに水心子に対しては全く懐く様子がなく、俗に言う塩対応というものを食らっている状態だった。
「……随分と懐かれているな」
「そうだね」
清麿の方にばかり明確な好意を示して文字通りの猫撫で声をあげる小さな来客は、先程から見せつけるかのように清麿の周りを駆け回り、今はその膝に収まって大人しく撫でられている。
猫に対してこんな気持ちを抱くのもどうかしていると思いはしても、無遠慮にその腕の中に擦り寄って甘えた声を上げながら撫でられている様子を見て、水心子は己の胸の内に生じた微妙な感情に眉を顰める。
別にその立場に成り代わりたいとは思わないのだから、羨んでいるわけではない。自分は清麿の親友であり、戦場でも一番信頼されている相手だという自負がある。だから、この程度の距離を羨むなんてことは有り得ない。そう思えるだけの自信はあるつもりだったのだが、それはそれとして我が物顔でその膝を陣取る様子に少しばかり思うところがないわけでもない。その距離は、まだ水心子には届かない距離だからだ。
(……馬鹿なことを考えているな)
必死に言い訳を考えれば考えるほど本音の方が顔に出てしまう気がして、水心子は意識して表情を引き締める。どれだけ否定したところで、自分の気持ちなのだからこれが子供じみた我儘だということも本当は分かっている。だからこそ、こんな考えを外に漏らすわけにはいかない。
「……可愛いね」
「まあ、確かにそうだが……」
清麿が不意に零した言葉には同意する。確かに猫は可愛らしいし、良くしてくれた相手に甘えるのだって普通のことだ。ただ、それを見て妙な気持ちを抱いている自分が解せなくて、返事に小さな棘が出てしまった。
それを自覚した水心子が眉間に皺を寄せてため息を吐くと、清麿が「あれ?」と首を傾げる。
「……今の、声に出てた?」
「ああ。……どうかしたのか」
清麿にしては随分と甘ったるい顔をして笑っていたじゃないかと、水心子は自分の目に映ったままの事実を伝える。すると、清麿は何故かばつの悪そうな顔をして「なんでもないよ」と言いながら、それを誤魔化すように笑って水心子に手招きをした。
どんな意図があるのかは分からなかったが、呼ばれたならと水心子が一人分空いていた距離を素直に縮めると、こちらに向かって清麿の手が伸ばされる。
「……あのな。私を撫でてどうする」
「駄目だったかな」
まるで猫にするような仕草で頭を撫でられて、水心子の口から咄嗟に出たのは拗ねたような言葉だけ。拗ねているのだから当たり前なのだが、本物の猫のように可愛げのある反応など出来るはずもなかった。
「…………別に、駄目ではないが」
言葉の通り、駄目だというわけではない。ただ、焦っているだけだ。
たとえ小動物との戯れのようなものであっても、好いた相手から食らうものとくれば話が違う。急なことに対応しきれず跳ねて飛び出しそうな心臓をどう誤魔化すかを考えるだけで精一杯で、人の身体というのは実に厄介なものだと水心子は努めて冷静な顔をしながらも大いに戸惑っていた。
「き、清麿」
「ん?」
水心子の反応をにこやかな笑みで観察している清麿は、特に悪びれることも意図を説明することもなく頭を撫で続けている。
「……私は猫ではないのだが」
「うん、勿論。水心子は水心子だよ」
じゃあ何故このような扱いを受けているのかと目だけで問うが、清麿は楽しそうに笑っているだけで何も答えない。ただ、その顔が恐ろしいほど綺麗で目を離せなかったのと、その手に触れられること自体は嫌ではなかったから、水心子も止めることが出来ずに固まるしかできなかった。
*
そんなやりとりを見つめる第三者──清麿に抱えられた猫の瞳に映る二振の様子は恋仲と言われても疑いようがない程度には距離が近く、それはもう仲睦まじく映っているのだが、当事者たち──少なくとも、固まったまま顔を赤く染めている方にその意識はないようだ。
適正な距離を測りながら少しでも近くに、という意図が透ける攻防は健気なように見えなくもないが、この距離を許しておいて自分達の特異な関係性に自覚がないとは言うのは何とも罪深いことだ。現に、綺麗な顔でにこやかに笑っている方はどう見ても相手の反応を分かった上で仕掛けている。気付いていないのは多分、仕掛けられた側だけだ。
猫の目から見ても明らかな様子に、呆れた鳴き声をひとつ響かせる。それに気付いた悪い顔をしている方は「内緒だよ」とでも言うように目配せをしてくる。何に対してかなど察することも億劫だなと、己の存在を戯れの口実にされたと察した猫はそのまま動けずにいる方の膝上に当てつけるように擦り寄ってから、その大きな目を閉じた。