おにごっこ2 過剰な薬剤投与はされなくなったしアルコールへの渇望もとうに消えた、それでも朝拘束を解かれ上半身を起こされると嘔吐してしまう程度にサボは弱っていた。
弱りすぎて口から食事できる日は少ない、噛む力も無いのでどろどろにミキサーをかけ冷めたものをルッチせんせがスプーンで口に運ぶがどうやったって飲み込めないのだ、舌が動かない、一口ごとに咳が止まらず、食事中に疲れて気絶することも多いので点滴が食事だ。
体が毎日死にたがっていてもサボはルッチせんせを睨み続ける。
こんなに甲斐甲斐しく清拭され着替えさせられやさしく撫でられるのになんで睨んでるんだろう、おれルッチせんせがいなかったら死ぬのに。
そもそもなんで自分はここに縛られているのか、ここに来る前は何をしていたのかもわからない、わからないことばかりで、わからないのに苦しくて痛くて縛られ続けても死にたいとは一度も思わなくて、サボはそれがおそろしかった。
こんなになってまでおれはどうして生きていたいんだろう、答えが出ないまま1日がはじまっておわる、今日が終わって今日が来て、繰り返して、オムツを取り替えられてる時に自分の毛から全て色が抜け落ちていることに気づいた。
「キミ革命軍のサボくんでしょ」
壁と自販機の隙間に挟まって笑ってる女の子に話しかけられサボはせん妄から醒めた。
「あいつサボくんのこと置いてったよ。作戦なんだ、大部屋のみんなの点滴とかペグとかぜんぶぶっこ抜いてきたの。しばらく帰ってこないよ」
サボは病棟1番の大広間にいた。
廊下の奥から数人の雄叫びと介護員たちの悲鳴とくるっぽーが聞こえるのもかまわず、広間で患者たちが好き勝手遊びまわっている。
それを若い介護員がたったひとりで振り回されて泣きそうになっていて、その端っこの自販機のそば、車椅子にくくりつけられてるサボのもとに女の子がにこにこ歩み寄ってきた。
栗色の髪はボサボサで、ほっぺにおひさまのシールを貼ってる。
くしゃくしゃのタコのパジャマを着ていてあどけない笑顔の女の子、近づいて来るにつれ、顔の全部を使って必死に笑う顔はどう見ても成人した女性でサボはぎょっとした、中身が子どものやばいやつ。
目を動かしてルッチせんせを探しても見当たらない、サボは女の子に首を傾げると女の子も首を傾げた、まばたきをするとまばたきしかえされ、あーって言ったらがーって言い返された。
「やっと捕まえた。おててリボン縫われてるの?にあってないね!」
「何おまえ、おれに言ってんの?なんで?」
「潜入捜査員のコアラだよ。参謀総長なのにメンバーの名前もわかってないの?」
がうがう、あーあー、げろげろ。
前かけに絶えずよだれを垂れているコアラが何を言っているのか誰にもわからなかったが、サボにははっきり言葉がわかったし、コアラにしゃべったことが通じた、久しぶりの会話にサボは少し緊張するがコアラはかまわずサメのリュックから自由帳を広げ、カラフルな四角とシールがたくさん並んでるページを開き指をさす。
ねっ!と笑顔を向けられたがこの自由帳に描かれてるぐちゃぐちゃの四角がサボはわからなかった。
「おまえピカソ?」
「そうだよ生まれ変わったの。そんなことより地図見てよ、ここがね、トイレ。ここはごはんのとこ。でしょ、でね、おっきいドアのとなりの、ここがいーじすゼロの本部なの。悪いやつがいるとこ。昨日忍び込んだんだ」
「ルッチせんせの仮眠室?」
「仮眠室じゃなくて悪いヒョウの根城。で、ここの窓はとってもおっきくて、しかも鉄格子がないの。つまりね、ひょっとしたらもしかするんだけど、私が今、そのすっごく頑丈なキミのいすを動かしてね、そこにつっこんで、窓を開けて飛び出したらいいと思うんだ。ふたりでいすにくっついたまんま落ちてみたら、もしかしたら落ちてもね」
興奮気味の自称ピカソの生まれ変わりが何言ってるかはあんまりわからなかったがサボは仮眠室が好きだった。
最近毎日窓のない部屋で偽物の月と星を見上げるのは嫌だと2億回くらいルッチせんせに訴え続けてたらなんとなく伝わったらしく、昼の3時にそこに連れていかれるようになった。
狭いベッドに寝かせられ、関節人形の手入れをするみたいに手足にマッサージとストレッチをされ、左の火傷痕を撫でられながら窓の向こうのおひさまを見るのだ。
UVフィルムが貼られていてもよかった、褪せた光に包まれるとなぜか心の底から安堵した、おれの太陽は沈んじゃいない、そうだ、そこに行くためにおれは車椅子に乗せられてたはず。
「今日サボくんは私とそこに行くんだよ。あいつがいないうちに窓の向こう側。もう戻らない」
「向こう側に?おれとおまえが?」
「そうだよ革命なの!自由になるの。キミも私も狂ってなんかないんだからね」
コアラが車椅子のストッパーを外した。
介護員はこちらに気づいてない、コアラが後ろにまわりハンドルを握り歩き出す。
車椅子のうしろから響く革命の足音、サボの死にたがっていた体が少し熱をもちはじめるとすぐに仮眠室についた。
「もしかして、サボっておれの名前?」
「そうだよ知らないの?サボくんでしょ」
「違う、いやあれ?そうかも…?」
「そうだよ!いつも隠れてるけどこの顔は絶対そう、男の子でしょ?ラーメンも好きだよね?忘れちゃった?昔ニュースで写真使われてたよ!」
髪を耳にかけられ左のほっぺをつつかれた。
おれがニュース?なんで?
床から天井まで張られた窓が開かれる。
眼下に広がる木蓮の頭から甘い匂いがする、UVカットを通さないおひさまはあったかい、そよ風になびく長い長い白髪が自分のものだと気づいてサボは泣いた。
こんなに伸びるまでなにしてたんだろう。
なんにもしてない、こんななんにもできねえ状態で外に出ていいのか?いやいい、いいに決まってる、落ちて死ぬも生きのびるもどっちでもいいじゃねえか、ここにいなきゃいけない理由が今日もわからない、だから最悪明日が来なくたって。
「私悪くなかったんだよ、悪くないのにここにいたの。きっとなにかしたかったはずなのに」
「おれも。悪くないのにずっと辛かった」
「ルッチが悪いんだ」
「ルッチというか」
「全部!私のこといっぱいいじめた全部!」
「そう全部!おれが狂ってんじゃなくて世界がまるごと全部!」
「いっぱい喋ったのにぜ、全然通じなくて!」
「なんもわかんなくなって、だから!全部!」
「終わっちまえって!」
サボとコアラの演説合戦はがうがうあーあーとよく響いたが2人以外誰も聴いていない、聴こえてたって通じなくて当然だった、革命はいつだって理解されない。
コアラは車椅子のリクライニングをゆっくりゆっくり倒してフットサポートを上げ、サボの上に乗っかった、笑顔が引き攣ってる。
ぼやけた頭がほんの少し晴れて喉がなった。
おれも顔引き攣ってるしちょっと漏れて恥ずかしい、漏らして恥ずかしいって感覚もずっと忘れてた。
「でけえカラスに乗ってるって思おう」
「そうだね、黒いし。サボくんこれは革命なの、意味があるんだ、いーじすゼロと天竜人たちの悪事を知らしめて、みんなに立ち上がってもらうの、それが私たちの使命なんだよ、だからたとえ失敗したって、意味が」
「こんなことに意味があってたまるか素直に怖いって言えよ…!」
「怖いよおちびっちゃったぁ!うう、いい?進むよ?サボくんをクッションにしちゃうよ!」
「いいよ。足置きだったこともあるんだクッションくらい。怖いけど多分何も痛くねえ。足も手もいいよ行こう」
自然と出た言葉がよくわからなかった、いやちがう、わからないわけがない、けどなんだ足置きって。
思い出すまもなくコアラが車椅子のハンドリムを思いっきり動かしてタイヤが宙に浮いた。
久しぶりに高く打つ鼓動がおそろしいくらい嬉しい、何も痛くねえなんて嘘だ、だって動く、縛られたベルトの下で爪がない拳を何度も握って開いた。
生きていたんだ。
おれの体は毎日毎時間、毎分、毎秒真っ白の部屋の中で指折り数えて確かに生きて闘っていた、呼吸して抗った、絶対に諦めちゃいなかった。
「ありがとう本当に。た、すからなくてもっ!生きててよかった!そうでしょ、ありがとう…!」
助かるに決まってる!
海で船沈められたって生きてたんだ、ちょっと高いとこから落ちたくらいで死ぬわけねえ、もう2度と絶対にふたりの胸に傷なんか、死んだりなんか!ああでもごめんコアラ、おまえがここまでしてくれたのにおれ、下水道で…!
ここにくる前のことはなにも思い出せないのに、この世にないはずの記憶の解凍が再びはじまった瞬間車椅子のタイヤが弾け飛んだ。