FNFAU_TalerBF Week1-Ashen Dream-(前半) 私は痛み。私は獣。
グリムの悲鳴、イソップの嘲笑、アンデルセンの落涙。
選ばれ、捨てられ、忘れられたページの切れ端。
故にこそ私は呪おう。この世にのさばり、謳歌し、贅を尽くすお前たちを憎もう。
消えて逝ったモノの為に、変わって逝ったモノの為に、お前たちへの復讐を誓おう。
幼少期の忘却。
それを以て、我らは現在に返り咲かん。
Ⅰ
鈍色の空がただでさえ陰鬱な気分を更に落ち込ませる。二人で隣町に向かったのは、そんな秋口のことだった。
この街は大都市と言うほどの規模でもなく、かといって郊外と言うほど田舎な訳でもない。そんな半端さ故に交通の便がいまいち良くなかった。バスや電車の本数は少ないし、車で行くと何処かで大都市から流れてきた渋滞に捕まる。便利なようでいて煩わしさが勝つ、寂れた住宅街と言うのが正しい街だ。
それでもわざわざ車を走らせて隣町に向かったのは、BFが隣町の商業施設に行きたいとせがんだからだ。なんでも期間限定でドーナツフェアをやっているらしい。お金は自分が持つから一緒に来てくれ、と目で語る彼は、どう見ても荷物持ちを欲しているようにしか見えなかった。
ドーナツくらい、ネット通販で買えば良いだろうに。そう言えなかったのは彼が期待と不安で目を潤ませていたからだ。フェアの広告チラシを両手に持ちながらピルピルと震えて上目遣いで此方を見る。そんな様は自然と此方に庇護欲を掻き立てさせた。こういう時に叶えてあげるのが彼氏というものなのだろう。仕方がなく、特に思い入れのない隣町に行くために、車の鍵を手に取った。
その洋館を見付けたのは、車を走らせる道中だった。思った通り二つの町を横断する渋滞に捕まっていた時、黄色のテープが目を引いたのだ。洋館とは言っても、想像するような貴族の屋敷ではない。ただ、門の向こうに見える庭の広さや噴水の大きさから、相当なお金持ちである事が伺えた。
洒落た意匠があしらわれた門に、テープが張り巡らされている。警察官も見回りのために数人立っていた。紅葉で彩られる中そこだけが物々しく感じられる。通行人も珍しさに足を止めていた。
何か事件でもあったのか。そう思いながらぼんやりと眺めていると、不意に横から肩を叩かれた。振り向けば、BFがスマホを此方に差し出してくる。少しヒビが入った画面には、何処かのニュースサイトが映っていた。
「一家殺人事件、か」
二週間前、あの洋館に住んでいた一家が使用人諸共皆殺しにされたらしい。一人だけ生き残りがいたが、ショックで今の昏睡状態なのだという。
不思議なのは遺体に外傷が無かったことだ。何処か不全があるわけでもなく、刺されたり撃たれた傷もない。まるで魂だけが抜き取られているかのようだ、と死亡解剖した医者は証言した。更に言えば、事件当日誰も悲鳴やもみ合う音を聞かなかったらしい。お陰で巷では怪事件として噂され、野次馬気分で侵入を試みる若者が数人出ているようだ。
こんな近い所で事件があったとは。そういえば、テレビでそんなニュースをしていた気がする。ここ最近は裏での仕事が多くて、つい頭の中から消えていた。知っていたらこの道は通らなかったのだが。
スマホを返し、ハンドルを握る。門前では警察官が野次馬を追い払っていた。若者が何人か茶化しているのか逃げ出さずに話し合っている。こんな所で時間潰すぐらいならもっと有意義な事をすればいいのにと思わなくもない。そうして一向に進まない渋滞を待っていると、ふと、ちりりと左目に痛みが走った。
「いっ」
思わず出た声にBFがはっとこちらを見た。それを手で制しながら左目をおさえる。眼帯の上からでもはっきりと分かるほど目は熱を持っていて、じくじくと膿むような痛みを眼孔全体に響かせていた。まだ運転に支障をきたす程の物ではない。違和感に近い程度のものなのが幸いか。
しかし、このまま痛みに身を任せるのも不愉快だ。仕方がなくハンドルを切って近くの道から遠回りすることにした。どうせフェア自体は明後日までやっている。ゆっくり行っても怒られはしないだろう。そうして洋館から距離を取ると、分かりやすく痛みは引いていった。ふう、と息を吐く横で、BFは心配そうに自分を見ていた。
「心配すんな、そこまでのモノじゃないから」
片手を頭に置き、わしゃわしゃと撫でる。そうは言っても、目が反応した以上は放置する訳にもいかない。帰ったら電話しなければならないだろう。せっかくのちょっと楽しみにしていた外出なのに、こんな気分になるなんて。やはりこんな曇天の日は憂鬱になるものなのだろうか。
大分距離を取った所で渋滞を横断する。未だにBFは窓の外を見てぼんやりとしていた。先程の洋館の事が気になるらしい。それを振り払うようにフェアの話をすると、分かりやすく彼は顔を明るくしてチラシを出した。ズボンのポケットに突っ込まれていたそれは、何重にもついた折り目で今にも破れてしまいそうだった。
「買ったら明日の三時にでも出すか」
コクコクと人形のように首肯して、BFはチラシを見詰める。どれを買うか厳選しているのだろう。せっかくのやる気を削ぐような真似をする必要もない。それ以上声をかけずにハンドルを握り直し、先を進むのに集中することにした。隣町に着いてしまえば会場はすぐそこだ。ついでに夕飯の分でも買い物するか……そう考える頭からは、すっかり洋館の事はすっぽ抜けていた。
翌日、BFは三時になっても起きなかった。
Ⅱ
『で、僕に電話したというわけか。それは災難だったね』
ころころと鈴が鳴るような声で電話越しの者が言う。楽屋にでもいるのかスマホの向こうは酷く静かだった。耳鳴りどころか時計の針音さえも聞こえそうだ。
指先で机を叩く音が断続的に響く。自分の出している音だった。正直電話などかけたくなかったのだ。だが、こういった常識外の話は、この女に頼るのが一番だ。
「それで、どう思う」
『君の推測が正しいと思うよ。勿論偶然かもしれないけれど、その洋館の近くを通りかかってまもなく異変が起こった、となればね。偶然として片付けるには条件が整い過ぎている』
全く自分も思っていた通りの事を告げる相手に、少しだけ肩の力が抜けた。思い違いという可能性が少しでも薄れたことで気が楽になる。
『なにより、君の“目”が反応したんだろう?』
「ああ。痛いって程の物でも無かったけどな」
『ならまだ生まれたばかりだろうね。ひょっとしたら活動し始めて三日も経ってないかもしれない。
あの坊やのことだ。それくらいなら自分一人で片付けられると思って、真夜中に単独で行ってもおかしくないね』
淡々と述べられる推測に自然と眉根が寄ってくる。そうして無意識にベッドの方を見ては、深いため息がこぼれるのだった。
当の本人は、ダブルベッドを無遠慮に占拠したまま全く動かなかった。相変わらずの寝相の悪さで腹が出ているのも気付いていない。グースカグースカいびきをかいて、鼻提灯まで出ているのがまた腹が立った。こんな時でなければ顔に落書きしたり鼻をつまんだりして弄っているところだ。
どう見たってただ寝ているだけの姿。だが、BFが眠りについてからもう十八時間近くが経とうとしている。
『まあ、怒らないであげてよ。進んで巻き込まれに行くのもまた彼らしささ』
コロコロと鈴が鳴る。楽しむようなそれは、この状況というよりはそれを生み出したBFに感心しているようだった。
『坊やのことだ、彼として思うところがあって行動したんだろう。それでだた眠ってるだけ、というのは、ある意味幸運でもある。
坊やは、君含めてこういった手合いに好かれやすいからね』
「……」
『はは、電話越しの殺気は痛いなぁ』
ぐる、と喉が鳴りそうになるのを堪え、代わりに息を吐き出す。深く、細く、長く。肺に溜まったタールのような感情を深呼吸でおしながした。
そうだ。自分達はただあの洋館に近寄っただけなのだ。敵なんて見てないし知りもしない。自分達には関係のない、見知らぬ洋館。それだけで済むはずだったのだ。なのにBFが無理に関わった理由。そんなの、あの状況から思いつくのは一つしか無かった。
──嗚呼。本当に苛立つ。
『取り敢えず、僕達も明日にはそっちに帰る予定だ。だからその時に片付けよう……と、言いたいところなんだけど』
まあ、あと十時間も待ってられないよね。
直後、持っていたスマホが唐突にバイブレーションを起こした。画面の左上で便箋のマークがくるくると踊っている。思わず息を飲んだ自分に彼女は言葉を続けた。
『今、例の洋館周りの地理情報をPDFで送ったよ。生き残りの事も書いてあるから、一通り目を通すといい』
「……助かる」
『いいってことよ。……ああそうだ。最後に一つ』
「なんだ」
『殺しだけはやめておきな。坊やがまた泣くよ』
それじゃ明日、という声を最後に、電話は切れた。あとにはメール受信を伝える画面だけが取り残される。開けば言われた通りのファイルが添付されたタイトルの無いメールが届いていた。相変わらず彼女はこういう時に仕事が早い。ダウンロード中のマークが終わるのを待ちながら、もう一度BFを見やる。
一体どんな寝返りの仕方をしたらそうなるのか。枕を足マット代わりにしたBFは、眠り姫とは程遠い姿をしていた。こんな有様でも正常な様相ではあるのだ。胸は呼吸に合わせて上下し、首筋に手を当てると正常な速さの脈拍が指先を伝う。いつも通りの、変わらない平凡な寝姿だ。
でも、まだ起きない。
せっかくドーナツを一緒に食べようって約束したのに。買った本人が、ホクホクとした顔でそう約束した癖に。全然ちっとも起きやしない。それが尚更苛立ちを掻き立てていた。いっその事この苛立ちを犯人にぶつけてしまおうか。そこまで思って、手が止まる。
「……」
電話越しの相手の言葉を頭の中で繰り返す。毎回毎回、こういった事に手を出す度に彼女は口癖のように言っていた。
曰く、BFはともかく自分は間違える事に躊躇いがないから、と。その眼差しはいつも此方を心配していて、だからこそ余計煩わしかった。
「……殺すな、なんて」
それが出来たら苦労しないのだ。この苛立ちを抑えるのは、到底自分には無理な事なのだから。
ファイルを開き情報に目を通す。数多の文字が画面の上で踊り狂う中、斜陽がその端で断末魔のように赤く照り返っていた。
Ⅲ
自分が悪夢を見る時、それは何時だって恋人を殺す夢だった。銃殺だったり刺殺だったり、或いは絞殺だったりちょっと奇を衒って毒殺だったり。毎晩毎晩、愛する者をこの手で殺す夢をずっと見ていた。
最初こそ目覚めが悪かったし、夢に引き摺られて現実でも殺していないかと心配した。その度に彼は黙って自分を抱き締めてくれるのだ。子供体温な身体の温もりと柔らかさと弱さに、いつも安心して目を閉じたのを覚えている。
だが、連日連夜同じものを見続けたら飽きてくる訳で。今となってはまたあの夢かと考えて終わる程度になっている。今日は変な殺し方だったな、なんて思い返す日も出てきている。
きっと彼に言ったら前のように心配してくれるのだろう。小さな体で精一杯抱き締めて優しく頭を撫でてくれるのだろう。
だがもうその必要はない。それ程までに夢は娯楽に変わり、日常の一部として当たり前のように展開された。
あぁそれなら、もう。
そんな悪夢は最早、“普通の夢”に他ならないのだ。
夜半の月が昇る頃、例の洋館へ忍び込む。一家殺人事件が起きたにしては警察官の数が少ない。罠かと思ったが、窓から室内に入った瞬間、その理由を嫌でも思い知った。
粘度を思わせる異様な湿度。空気自体が重みを持った昏さ。まるで身体全体で固まりかけのゼリーの中を切っていくような感覚が、肌にひたりと纏い付く。冷めた空気とは裏腹に、眼帯の奥では相変わらず快感と鈍痛の間を行き交うような熱がこもっている。そんなアンバランスで不愉快な気配に眉を顰めた。
……生まれて間もないにしては、異界化が進みすぎている。
まだ現実との境界はあやふやだが、異界独特の雰囲気が洋館全体に満ち満ちていた。警察官の数が少ないのも、この異界の気に当てられたからだろう。それとなく思考を誘導して誰も中に近付かせないようにする。こういった手合いにはよくある手口だ。
部屋を出て廊下を進む。使用人の部屋だったらしく、等間隔に並べられた扉には銘々のネームプレートが掲げられていた。ざっと見て十人くらいだろう。灯りも無くなった広めの廊下を見渡し文字通り誰もいない事を確認して、右太もものホルダーにしまっていた物を取り出した。
時間はかけたくない。数分と此処に居るのさえ不快だ。
「さっさと案内しろ、《失せ物探し》」
そう言ってぽい、と乱雑に宙に放り投げたのは白い装丁の本だった。本は床に落ちる前に青い燐光を放ち、空中を浮遊し始める。そうしてしばしの間そこに留まっていると、やがて何処かへと進み始めた。自分も雪の結晶を振りまくそれを追い掛け出した。
『……て……なの……』
『それは……でしょう……が……』
『なんて……さぞかし……』
程無くして何者かの声が聴こえてくる。周囲を見れば薄く半透明な人間達が数人屯している所があった。使用人達が廊下の隅で井戸端会議しているのだ。切れかけのホログラムのようにノイズが走るそれらは、近くを通りかかっても全く此方に気付かない。
『また……様がしたそうよ。クレヨンであちこち落書きして、汚れたからお前が拭けって』
『またぁ?前はバケツひっくり返してなかったかしら?』
『その前は台所の小麦粉ぶち撒けてたわ。コックが怒るのを必死に堪えてたわ』
『奥様に言い付けられたらたまったものじゃないものねぇ……まったく、誰が片付けると思ってるのかしら』
ぐちくち、がやがや。人目を憚らない悪感情が廊下に響く。幾ら使用人用の場所とはいえ、聞かれたら大丈夫では済まないだろうに。視線を向ければつきりと左目が痛んだ。
『……様も、大人しく従ってないで放置すれば宜しいのに。そんなんだから妹様が付け上がるんだわ』
『しょうがないわよ、お父様を亡くされて間もないもの。まだ自分が置かれた状況も分かっていないのよ』
『あんなに雑用を押し付けられて、服もボロボロで……噂じゃ、屋根裏に追いやられたっていうんでしょう?肌も髪も荒れて惨めったらありゃしない』
『ええ。本当に──可哀想だわ』
……早足で廊下を駆けた。ただでさえ腹の奥でどぐろを巻いている苛立ちが更に増すのを感じた。彼らの姿は既に崩れ始め、声も雑音に変わっていく。所詮は場所に焼き付いた過去の残影だ。それ以上の意味など何もない。
感傷に浸る間もなく先を急ぐ。本は緩やかな速度ながらも迷わずに一点だけを目指していた。歩いていく度に調度品が豪華になり、カーペットや灯りもその華美さを増していく。より多くの人を収納出来るように廊下の幅も広くなり、客室と思しき扉が幾重にも連なって見えてくる。
ともすれば、最早その終着点は分かったも同然だった。
「ここか」
大扉の前で止まった本がくるりと振り向くように回った。それを尻目に取っ手に手を当て、流れるようにもう一方の手で眼帯を抑える。最早痛みは熱を伴って眼孔を灼く程に増していた。冷却剤を持ってこなかった自分に舌打ちしながら取っ手を回す。
果たして、そこに“それ”はいた。
元は大広間だったのだろう。無数の幽霊達が銘々に二人一組になって踊っていた。だが、くるりくるりと傘のように回るその姿は、ノイズを帯び実体を持っていない。一人入ってきた自分にも気付かずに廻るそれらに魂は宿っていないようだった。
使用人達と同じ幻影か。或いは、“やつら”に食い散らかされた残骸か。何れにせよ、
「参ったな。これじゃあ殺し甲斐がない」
喜色も落胆も無く、Picoは呟いた。
声に気付いて“それ”が振り向いた。長い銀髪が絹の織物のように広がって靡く。他の者は皆綺羅びやかな衣装を纏っているのに、“それ”だけが白の病院服だけを身に纏っていた。まるで異界その物から隔絶されたような姿が、それこそ幽霊のように昴と暗闇に浮かび上がる。
「……へぇ」
ぱちりと、緑色の双眸と目が合った。
「なるほど──これは確かに、夢みたいだ」
そのあどけない顔は、惨めなほど美しかった。
二週間前、この洋館で凄惨な殺人事件が起こった。家族使用人諸共皆殺し、生き残ったのは子女の一人だけ。しかも昏睡状態で証言も聞けず、その子女は今も町外れの病院で眠りについている。
だからこそ、ここに子女本人がいる事は有り得ないのだ。
一歩前に出る。銃を手にしようとして、やめた。まだこの空間は異界として完全に独立していない。変に音を立てて警察官を呼ぶのも面倒だ。仕方がなく、コートの裏側からナイフを数振り掴んだ。
“それ”はゆっくりとした動作で此方に身体を向けた。じっと目の前の侵入者を観察し、徐ろに右腕をあげる。ぴとり、と音が出そうな緩慢な仕草で指差すと、辺りの幽霊達の空気が剣呑な物へと変わっていった。ぽっかりと空いた虚のような口から何かが聞こえ出す。
『……が……』
『……しゃだ……い……』
視神経ごと抉られるような痛みへ熱が変わる。それにつれ、ノイズ混じりの聲がクリアになっていく。
『お前が、我慢さえしていれば』
『何も起こらなかったのに。何も狂わなかったのに』
『私達は被害者だ、悪くない』
身勝手な恨み。理不尽な怒り。自分越しの誰かにかけられる詰りは、獣のような唸り声を伴ってその勢いを増していく。
『可哀想、可哀想、なんて惨めなの』
『誰かが助ければいいのに。誰かが叱ればいいのに』
『まあ、私は何もしないけど』
「……」
くすくす、けらけら。陰湿な悪意に幽霊達がさざめいた。それに合わせ眼帯を抑える手にいっそう力を込める。
人の心を見抜く目は、こういった場所では返ってハンデにしかならない。頭の中で木霊す嘲笑が余りにも煩わしい。また一歩と進める足は少しふらついていた。
それに気付いたのだろう。幽霊達の声は、段々と声高なものに変わっていった。
『大体バツイチが生意気なのよ。どうせお金目当ての結婚の癖に』
『見て、また……様に虐められてる。庶民如きがいい気味だわ』
『奥様も……様に媚びちゃって。見捨てられちゃったのね、可哀想』
ほらまた掃除してるいっそ使用人になればいいんじゃないのあははいい気味あんなのにこんなきらびやかな服なんて勿体無いよすいませんねぇ奥様からメシはあの方と一緒にするなって言われてるんでねぇ庶民が子女だなんて外聞が悪い今からでも反対にすればいいのではなんでそういう事を言うの貴方が我慢すれば全て丸く収まるのよ煩いな庶民如きが歯向かわないでくれるいっそのこと死んでくれればいいのに死んで消えて消えろ消えろ消えろ……
「っ、ぐ」
息が上がる。足元がふらつく。頭の中で無数の悪意が渦巻いて反響する。まるでグワングワンと鐘が鳴っているかのようだ。そんな状態で彼は背を丸めて俯いて──
「……ハッ。寝言言え」
艶やかに嗤った。
「投射か、肩代わりか?まぁなんだっていいが」
何事も無かったかのように顔を上げる。“それ”と幽霊達は皆一様にあちこちへと視線を泳がせていた。一歩確りとした足取りで踏み出せば、ゆらりと“それ”が後退して距離を取った。
「あいにく、それを抱くのも受けるのも慣れてるんでね。そういうのは俺には効かないんだ」
眼帯から手を離し近くを揺蕩っていた本の上に翳す。瞬間、ロープのような物が本のページから飛び出して“それ”に巻き付いた。ぎちりと金色のそれが音を鳴らす。余りにも締め付けすぎて“それ”が潰れてしまいそうだったが知ったことではない。
「正直、俺はお前らの事なんてどうでもいいんだ。何もなければ、あの女に全部放り投げてた」
一瞥した顔は焦燥に満ちていた。拘束から抜け出そうと藻掻くのを、一際強く引っ張ることで抑える。ぎちり、ぎちり、と縄が耳障りな悲鳴を上げていた。その音にも、絶えず藻掻く姿にも、全てに舌打つ。
ああ本当に。これだから厭なんだ。相手にも、彼にも、自分にも、全てに嫌気が差す。
「でも、アイツを連れて行かれるのなら話は別だ」
苛立ちが収まらない。この異界の何もかもが煩わしくて仕方がない。ぽっかりと空いた孔に煮えたぎるマグマを注ぐように、腹の奥底で左目以上の熱が渦巻いている。
「他のヤツなら兎も角、アイツはダメだ。一分一秒たりとも我慢できない」
そうだ我慢出来ないとも。この苛立ちは彼がいないと収まらないのだ。だから。
「だから、返してもらうぞ」
そう言い終わるや否や。本から出ている金髪を握りしめ、力いっぱい手前に引いた。
慣性に逆らわず“それ”は引っ張られる。浮遊していた筈の身体が地面に墜ちてくる。同時に飛び掛かる幽霊達を投擲で壁に縫い止めた。ぎん色のナイフに貫かれ、ノイズの塊は炎を吹き消すように消えた。
『──ッ────』
その場から疾走する。距離が詰まる。刹那にも思える時間の中、“それ”はただただ呻いていた。
『──ェろ──きえロ──』
呪詛のように。洗脳のように。暗示のように。或いは壊れた蓄音機か幼子への子守唄か。
『きえろ、きえろ、きえろきえろきえろ──』
頭にはそれしかない。最初からそれしか考えられていない。周囲の言葉を連呼するだけの死んだ鸚鵡。
だが、それでも“それ”にとっては存在意義に他ならなかった。
『きえろきえろきえろきえろ──消えろ──!』
「テメェが消えろ」
がくん、と身体が大きく揺れた。胸いっぱいに冷たい感触が広がっていく。頭の何処かでラジオの電源が切れるような音がして、痛いほどの耳鳴りが取って代わった。
『あ──』
胸に深く刺さったナイフを認識する。その瞬間、ぼろぼろと身体が端から綻んでいった。土の塊が崩れるように指先から形を無くしていく。同時に思考を侵食していく、強烈な赤と黒。
『き、え──』
突き飛ばされナイフが引き抜かれたのも気付かず宙を揺蕩う。そうして“それ”は地面に墜ちるよりも早く、花びらが風に攫われるように消えた。
癖でナイフを振りコートにしまう。その延長線で、自然と“それ”がいた場所を眺めた。
そこにはもう何もない。左目の痛みも既に収まっていた。間もなく異界化は解け、何事も無かったように明日がこの洋館に来ることだろう。
ここに何が在ったのか誰も知らないまま。
「…………まるで、灰だな」
眼帯を外して外気に晒し。ぽつりと、Picoはそう呟いた。
【続】