《トマ蛍》明日も天気になあれ「眠れない?」
「うん……どきどきする」
月明かりをきらりと反射した蜂蜜色の瞳がトーマを捉える。ずいぶん夜は更けたものの未だぱっちりと開かれて、眠気の気配はこれっぽっちもなさそうだった。
「トーマも、眠れないの」
「そうだね」
今日はしっかり休息を取らなければならないのは、お互いわかっている。それでも、うきうき浮かれた気分がそうはさせてくれなかった。
明日は、トーマと蛍の結婚式。わくわくふわふわ、心臓はばくばく。落ち着いている方が無理な話だろう。いっそこのままのんびりお喋りを繰り返して、眠らずに朝を迎えるのもありだろうか。これだけはしゃいだ気持ちなら、それくらいやったって明日も元気に乗り切れるだろう。
「それはだめ。ちゃんと寝なくちゃ」
ぷく、と頬を膨らませた蛍がトーマの頬をつねる。しかしその怒った顔も一瞬で、すぐに笑顔が弾けた。ああ、今からこんなにも楽しいなんて、どうしようか。
トーマの、お嫁さん。窓から差し込む淡い光を受けた髪はきらきらと反射して、それに包まれた蛍はまるでベールを纏っているようだった。そのベールを掬い上げて耳にかけたけれど、人生で一度きりのおめかしのために一本一本丁寧に手入れされた髪は、すぐにさらりと滑り落ちる。誓いのキスはまだまだお預けらしい。
「みんな来てくれるかなあ」
「出席してくれるって言ってただろう」
「そうだけど、やっぱり緊張しちゃうね。……明日、晴れる?」
「きっとね。夕焼けが綺麗だったから」
頬を撫でたトーマの手にすり寄って、独り言のようにほろほろと零す蛍。ゆったりとした瞬きの合間に、瞳が不安げに揺れた。式の準備に追われる生活も終わりが見え、ふと緩んだ気持ちに一気に不安が押し寄せてきたのかもしれない。
「ほたる」
「うん?」
「怖い?」
「……ちょっとだけ」
安心して、とか、大丈夫、とか。きっと何を言っても、今の蛍はぐるぐると考えてしまうだろう。その不安を知っても、すぐ隣にいても、抱きしめてやるしか出来ないことがもどかしい。
だけど、ずっと寄り添って蛍を抱きしめられるのはトーマだけ。トーマだけに許されたことだから、そんなことしか出来ないかもしれないけれど、何があったって離してやらない。
ひとつだけ、ぱっと胸にすり寄ってくる姿を可愛いと思ってしまうことは、どうか許してほしい。不安な気持ちごと蛍をぺろりと食べてしまいたくなる程の、どうしようもない愛しい気持ちが溢れてくる。
「オレはここにいる」
「ん」
「蛍もここにいる」
「ふふ、それはそう」
どんな姿も可愛いけれど、やはり笑ったところが一番良い。今は胸元に埋められて見えないけれど、きっと、朝の太陽みたいに眩しくて、花が綻ぶように優しい顔をしているんだろう。トーマが大好きな、守りたい笑顔。
「眠れそうかい?」
「ううん、まだ。トーマとぎゅってするのに忙しくて」
「……そういう台詞、どこで覚えてくるの」
「……教えてほしい?」
「うん」
トーマの腕を抜け出した蛍が、耳元に口を寄せる。ちらりと見えた表情はいっとう好きなあの笑顔ではなかったけれど、もうすっかり晴れ晴れとしていた。そう、それがいい。
聞こえてくるであろう内緒話を今か今かと待つ。幼い子ども同士のような仕草に思わず漏れたらしい笑いは、隠されることなくそのままトーマの耳を打った。くすぐったい。堪えるように蛍の腰を抱き寄せる。
「あのねえ」
「うん」
「ちゃんと聞いてね?」
「うん」
ずいぶん焦らすな、と油断したところで、ちゅ、と耳朶に唇が寄せられた。
「へへ、ないしょだよ」
悪戯が成功したらしい蛍は、にっこりと笑みを浮かべながら再び枕に沈む。
「だ、から……そういうの……」
緩む頬を見られたくなくて、小さな体をぎゅうぎゅうと抱き締める。そんな技、誰に教わったんだ、オレのお嫁さんは。腕の中からくふくふと笑う声に怒ってやろうと思ったけれど、可愛いお嫁さんをでれでれと甘やかしたい気持ちがそれを上回る。
幸せだ。
落ち着くどころかさらに高鳴る心臓は、まだトーマを眠らせてくれるつもりはないようだった。