《綾人蛍》 はい、いいえ、どちらでもない ぴたりと動かない蛍は四角の木枠に切り取られ、まるで絵画のようにそこにあった。障子戸を開けたそのまま、眩いばかりの光景をたっぷりと目に焼き付ける。
平時なら「綺麗なのは綾人さんのほうだよ」と目を細めるはずのその人は、今は流行りの小説に夢中らしい。
布団の上に投げ出された脚の柔らかさ。まろい頬にはらりと落ちる金糸。浮かぶ唇は淡く色づき、その煌めきは朝露を伴った花と見紛うようだった。
それも、よくよく見れば、少しずつ形を変えていく。そっと伏せられたまつ毛に蜂蜜色の大きな瞳は忙しなく震えて、文字を追いかけてくるくると踊る。華奢な指が紙を擦れば、ぴんと伸びたはずの背筋はどんどんと物語に吸い込まれて、次第に小さく丸く。
ああ、この光景の美しさを前にすれば、どんな美術館の目玉の品さえも霞んでしまうに違いない。
などとでも記せば、稲妻中に広まる大人気の娯楽小説にも勝てるだろうか。ひとまず、綾人には小説の執筆は向かないことだけはわかった。
綾人の存在に気づかない程に興味深いらしい紙の束に小さな羨望を抱きながら、ぴたりと障子戸を閉じる。わざと強く畳を踏みしめ、思ったよりも大きく鳴った軋みと共に蛍へと歩み寄った。
ぴく、と跳ねた肩を認め、思わず眦が下がる。びっくりしたと怒るだろうか、声をかけてくれたらよかったのにと呆れるだろうか。
蛍の隣に座り込もうと布団に乗り上げたところで、ふと小さな違和感。なんだか蛍が遠い。その理由は簡単だ、布団が何寸か離して置かれている。ぴったりと並べておくように言いつけてあり、昨日までも確かにそのように敷いてあったのだが。はて、どうして、と浮かんだ疑問は、しかし愛しい笑顔を前にすぐに散っていった。
「綾人さん! おかえりなさい」
「ええ、ただいま」
蛍は緋櫻を押した栞を挟み、本を閉じた。いくら他に没頭していても、彼女の関心はすぐに綾人に向く。自分が一番であるらしい、そのどうしようもない優越感に浸りながら桃色の唇に吸い付いた。分厚い本を取り上げれば、行き場をなくした手は綾人に縋る。風呂上がりのまま未だ湯気の立つ肌にひんやりと寄り添う手。温度差に背中を震わせながら、欲望に誘われて小さな体に被さった。頬を撫でれば、また小さく跳ねた蛍が口を開く。
「あ、の……」
耳まで赤く染め、綾人の名を呼ぶ。返事の代わりにもう一度寄せた唇。しかし、ふに、と触れたのは柔らかく受け入れてくれるいつもの温もりではなく、ざらざらとした温度のない何かだった。
「……これは?」
「イ、イエスノー、枕……」
二人の間に割り込んだそれは、枕というよりクッションのようだが。どこから取り出したのか、蛍がぐいぐい押し付けてくる面いっぱいには、はっきり「NO」と刺繍されている。
「これは?」
細い腰を撫でて再び問う。枕の向こうの表情こそ見えないが、綾人の下でばたばたと暴れる脚が動揺を示していた。
もちろん、綾人とてこの枕の意味を知らないわけではない。わからないのは、この雰囲気の中でまで交合を拒否されている理由のほうだった。
「回数が、ね、多すぎると思うの」
「……負担でしたか」
「負担、っていうか」
おずおずと枕を降ろした蛍は、変わらず茹で上がった蛸のように真っ赤だ。
「……き、もち良すぎて……変になっちゃうから」
はあ。
とんだ殺し文句だ。これで抱くなと言う方が無理があるだろう。あまりに可愛らしい姿にいっそ腹が立ってきた。口をついて出そうな文句はどうにか押し込めながら、枕を取り上げ、裏返して持たせる。
がしかし、示されたYESに満足する間もなく、それはあっけなく反転してすぐにNOを突きつけてきた。
「いいでしょう、おかしくなれば」
「おかしっ……! だめだよ、綾人さんの前では可愛くいたいの!」
「毎度十二分に可愛らしいですが」
それは幾度も伝えてきたはずだが、ぷりぷりと怒る蛍に自覚はないらしい。所詮は閨での戯言、とでも思っているのだろうか。やはり言って聞かせるしかないらしいとその枕をまた裏返す。一方の蛍も簡単に負けることなく、持ち前の反射神経で抵抗する。裏返しては戻され、裏返しては戻され。何度もくるくると回された枕ははずみでぽーんと遠くに飛んでいった。
守るものを失った蛍はすっかり混乱して、何を思ったのか綾人に縋り付く。だから、どうしてそういうことを。綾人から逃れたいのではなかったのか、それもいざ困ってしまえばこの様だ。やはり彼女の中での一番は綾人であるようだ。ほら、たまらなく可愛らしいだろう。
もじもじと膝を擦り合わせる蛍にひとつ、しかしじっとりと口づける。
「明日からは我慢しますから。今、したいです」
「……うぅ」
「だめですか」
小動物のように震える蛍にはそれ以上触れることなく、揺れるその瞳に訴えかける。
「できるだけ優しくします。約束しましょう」
立てた小指を見せつける。蛍は綾人に甘い。同じだけ綾人も蛍に弱いのだが。しおらしく「お願い」されてしまえば、結局頷くしかない。それは互いに変わらぬことだった。
小指と綾人の顔とを何度も見比べた蛍は、しばし悩んだ様子を見せたものの、綾人の着流しをきゅっと握って小指を絡めた。
待てを解かれた綾人は、勢いを殺すこともなくやわい唇に吸い付く。鼻をぶつけながら甘い唾液を貪り、じゅるじゅると掻き回した。触れる間もなく耳を打つあえかな声のせいで、優しくするなどという約束はすっかり忘れてしまいそうだ。
部屋の隅にぽつんと落ちた枕は、綾人にYESを向けていた。