夜も尚喧騒に包まれ、煌々とした明かりに照らされた地は品も無く、好きになれそうにもない。
この地へ来る目的は、不肖の弟子であるドラルクに会うためか、ドラウスに呼び出されでもしなければ訪れることが無かった。
ノースディンが、新横浜にこの数ヶ月で訪れる頻度が劇的に上がってしまったことには当然理由がある。
騒がしい地に降り立ち、自販機であまりに安っぽい血液パックを購入するのも慣れたものだ。けたたましい音を立て落ちてきた血液パックを手に取り、慣れた道を歩いていく。
手軽に買えるという以外の利点は何一つない粗悪な品だが、それでもこれを購入するには理由がある。
痩せ干せた我が子のために、以前は血液ボトルを差し入れていたのだが、清貧さを尊ぶところのある元聖職者は、ノースディンの差し入れるボトルの価格をどこからか知り得たらしく、丁重に断るようになってしまったのだ。
少しは親心というものを尊重しても良いのではないだろか、と内心面白くはないが、それでも血液を摂取しないよりはましだと己に言い聞かせ、今宵もノースディンはせっせと子へと糧を運ぶ。
古びた集合住宅の扉の前に立ち、呼び鈴を押すとすぐさま扉を開かれた。
「イラッシャイマセ」
「ああ、お邪魔します」
まだカタコトの日本語で迎え入れられ、ノースディンもそれに応じて日本語で返す。
数週間ぶりに見た我が子は、相変わらず背丈ばかり大きく、ひょろりとしていた。癖の強いブルネットの髪から覗く尖った耳は、彼がもう人ならざるものだと証明しているというのに、まだ血液を摂ることには抵抗があるらしく、なかなか肉が付いていかない。
血液パックを差し出すと、眉尻を下げながらもクラージィは礼の言葉と共に受け取る。
狭い玄関で靴を脱ぎ、ウサギ小屋の方がまだ広いのではないか、と心の中でだけ悪態を吐きながらノースディンは狭い家屋を見渡す。
統一感の無い家具は、貰い物やリサイクル品なのだと言う。
狭い部屋の真ん中に鎮座するこたつも、ノースディンは好きにはなれなかったが、他に座るところの無い屋内ではそこに座るしかない。
一口コンロしかないキッチンで湯を沸かすクラージィの背は、出会った頃と変わらずぴんと背筋が伸びていて好ましい。
だが、この部屋には相応かもしれないが、彼自身には不似合いな服装がどうしても気にかかってしまう。
「お前、なんだその服は」
「ん?半纏と言うそうだ。とても暖かい」
振り返り言う顔は嬉しそうで、ノースディンはそれ以上の言葉は継げなくなる。名称の話をしているのではない。高等吸血鬼ともあろうものが、量販店のセーターに半纏を着込むんじゃない。
いや、セーターは良いとしよう。人間の頃に着込んでいた黒いカソックが一番似合ってはいたが、白いハイネックセーターも悪くは無い。だが、半纏はだめだ。彼の彫りの深い顔や、痩せてはいるが美しい体躯を覆う、良く言えばレトロな柄の半纏は全く似合っていない。
「ノースディン?どうかしたか?」
「いや、暖かいのならば良かった」
内心頭を抱えたくなるが、下手なことは言えない。本音を言うならば、彼の衣食住全てを己の手で調えたい。だが、今のところそれは全てすげ無く断られている。
クラージィのために仕立てた衣服は、以前丁重に断られた。お前のために作ったのだから、お前が受け取らないのならば捨てるしかない、と言えばその時限りで渋々受け取ってはくれたが、二度としないで欲しい、と言われてしまった。
血液ボトルも値段を知られてからは受け取らない。
一緒に住もう、と表情を取り繕いながら何気無い風を装って慎重に告げた時など、あまりにあっさりと、二年契約なので無理だ、と言われてしまい、その場で泣き崩れなかった自分を褒めたくなる。子の前で情けない姿を見せられるかというプライドが、ノースディンを踏みとどまらせたのだ。
諦めきれず言い募ったが、頑固なところのあるクラージィは首を縦に振ることはなく、ノースディンは引くしか出来なかった。下手に食い下がり、家に招いてもくれなくなった場合を想像すると、比喩でもなくこの地を氷漬けにしてしまい、クラージィを攫ってしまうところだ。
つい数か月の間で起きたクラージィとの苦い記憶を回想していると、ことん、と音を立て目の前に安物のカップが置かれる。ひとつは紅茶でひとつはミルクだった。
「ありがとう」
「どういたしまして。ドラルクから貰った焼き菓子もあるんだ、持ってくる」
「クラージィ」
「なんだろうか?」
踵を返そうとした子を見上げ、そしてミルクへと視線を落とす。そして、もう一度クラージィを見るとノースディンの言わんとしていることを察したのか、スっと視線を逸らされる。悪戯がばれて叱られる前の子供のような佇まいに、少しだけ可哀想になり気付かなかったことにしようかとも思ってしまう。
だが、ここで彼を甘やかすのは良いことではない、と親として、そしてそれ以上の執着心を持つノースディンは見逃すことは出来なかった。
「私が持ってきた血液パックはどうした?」
「……後で飲むことにする」
「だめだ、今ここで飲みなさい」
クラージィの吸血鬼特有の尖った耳が、感情をそのまま反映して力なく下がり、小さく呻く。
可愛い顔をしてもだめだからな、とあまりに威厳も何も無い言葉は飲み込み、出来る限りノースディンは表情を顔に乗せないようにする。
暫しの無言の後、クラージィはテーブルに置いたホットミルクを持ちとぼとぼとキッチンへと持って引き返した。
ほんの少しだけピンク色に染まったミルクにノースディンは眉を顰めるが、あまり口喧しく言うのも良くないだろう、とドラウスの言葉や育児書の文面を思い出し、眉を顰めながらも懸命にホットミルクを飲む我が子を見守る。
ちびちびとミルクを飲んでは、ドラルク手製のクッキーを口直しとばかりに食べるのを黙って見守り、彼が時間をかけて最後の一滴まで飲み干すのを見届けてノースディンは帰り支度を始めた。
「もう帰ってしまうのか?」
「ああ、また近いうちに来る」
クラージィの言葉に、出来ることならばもっと長居してしまいたいという誘惑に負けそうになるが、ノースディンはコートを羽織り玄関へと向かう。
ドアを開けるとまだ夜明けは遠く、冷たい空気が流れ込んできて、クラージィが身震いをする。名残惜しいが、早々に暇の挨拶を告げドアを閉じなければ。
「あっ、待ってくれ君に渡すものがあるんだ」
「渡すもの?」
玄関先まで見送りに出ていたクラージィが慌てて部屋へと引き返し、何かを掴み取るとすぐさま引き返してくる。
クラージィに手を差し出され、ノースディンは見当のつかないまま手の平を出す。
何の音もなく、大した重みもないものが手の平に置かれた。見るとそれは変哲もないありふれた鍵だった。
「君はよくここに来るから、渡していた方が便利かと思って」
「……これは、ここの鍵なのか」
「ああ、もし私が不在でも入ってくれてかまわない」
なんと言葉を返せばスマートか、表情を取り繕えているのか。ノースディンは混乱の境地に陥りながら、鍵を内ポケットへとしまい込む。これはもう、己の物でたとえ返せと言われても絶対に返さない。
「あ。寒いと思ったら、雪が降ってきたな。ノースディン、本当に帰るのか?狭いが泊まっていっても…」
「いや、結構だ。このくらいの雪ならば問題ない。すぐ止むだろうが、体を冷やさないように。ではな、クラージィ」
矢継ぎ早に言い、ノースディンは早々と飛び立った。クラージィの目の届かない上空まで来て、手の平で顔を覆う。顔が熱く、そして油断するとにやけそうになる。
雪は未だにぱらぱらと降っているが、この地を去ればじきに止むだろう。