無題。とろとろと溢れていく意識を集めて目を開けると、うっすらと白んだ空がサイドテーブルを照らしていた。
視界に入った水差しが喉の渇きを思い出させてくれる。
酷使してしまった喉を潤すべく身体を起こそうとしたが、隣の温もりがそれを阻止している。両腕でがっちりと俺を包み込んでいる男はすっかり夢の世界にいるらしい。
すう、すうと幼子のような寝息を立てている姿は普段の仏頂面との落差もあって愛らしく感じる。
作りものめいた彼の髪をくしゃりと撫でれば、見た目よりも柔らかい触感が心地よかった。無意識なのだろう、撫でる手に吸い付くように顔を動かしている。
かわいい。
でも、格好いい。
そんな男が俺のものだなんてそんな贅沢、許されていいのだろうか。
自分の肩に回されている右手をそっとなぞれば、しっかり長さが整えられた指先。
何も傷つけないよう長さだけではなくヤスリで磨かれたそれらは彼の美しさをいっそう引き立たせている。
愛されているのだと、思う。
大事にされているのだと、思う。
少し気だるさの残る体は不快感は意識が飛ぶ直前のべたついた不快感は感じられず、むしろ彼に掛けられたしっとりとした布のおかげもあって家を訪れる前よりも肌が生き生きとしている。
幸せだと、思う。
この時間が長く続けばいいと、思う。
けれども同時にこのままでいいのかと考えることもある。
彼は自分と違って未来がある。
平穏な人生がある。
命を繋ぐことだってできる。
そんな彼の全てを俺が奪ってしまってよいのかと思う。
だって自分は彼の愛を返すことができない。
その事実が酷く悔しい。
生の結末が決まってしまっている自分は彼を幸せになんてしてやれない。
そもそもこんな役職だ、その前に命を落とすことになる可能性だってある。
遺された彼は何を思うだろう。きっと自分がいなくなっても元の平穏な生活に戻るだけだ。いや、そんなことはないかもしれない。ああ見えて感情には不器用な男だ。仕事は平常にこなすくせに、俺の遺品を眺めて物思いに耽るかもしれない。
ああ、やはり遺品なんてものは残すものじゃない。
せめて子供を残すことができればよかったのに。そうすれば彼は俺を忘れることはないだろう。子を育て慈しむことで悲しみを紛らわすことだって出来るだろう。子の成長を見守ることで人生の安寧を得ることだって出来るに違いない。
でもそんなことは不可能だ。
自然の摂理に反している。
教令を犯せば可能かもしれない。
でもそんなことは彼は望んでいないし、俺の信念に反する。
何故今日はこんなに机上の空論ばかりを並べ立てているのだろう。
わからない。
なぜ?
この温もりを手放したくない。
あの甘く耳にじんわりと溶ける声色を知っているのは自分だけでいい。
見えぬ古傷まみれの身体を優しく触れるあの感触を忘れたくない。
彼の全てを知るのは自分だけであればいい。
嗚呼、何という醜い独占欲!
傲慢だ、我儘だ、独りよがりにも程がある!
先ほどより更に溶けた脳内は一つ一つの思考を組み立てかけては崩してを繰り返して形を保たせてくれはしない。
ほんの少しできた腕の隙間から抜け出して、ベッド脇のくずかごに捨てられた口のきっちり縛られたゴムを取り出して、思い切り噛みちぎる。
どろり、
白濁が口内を侵す。
「ふふっ、ふっ……ははは、っ、……ぅ、あぁ、ゔァ、………ひっ、」
ただ、生命が死んだだけだった。