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    群青ニオ

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    群青ニオ

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    ヘラジャク事件ものの序章

    刑事はかく語りき1888年 イギリス

    「また、か……」
    男は口先に咥えたタバコから白い煙を吐き出しながら小さく呟く。空はスモッグに覆われ、その向こうからは灰色の光がうっすらと差し込み、辺りを照らしていた。もう一度、男は深く息を吸い込む。肺に充満する苦い煙が慰めのようにも感じた。
    80年代に入り、イギリスではヤードを悩ます事件が頻発していた。アイルランド独立派による爆弾騒ぎに、貧困による群衆騒動と毎年のように記事のネタに事欠かさずにいた。そして今回のこともまた、記者たちの格好のネタとなるのだろうとヤード、ひいてはそこに席を置く男にとって、ひどく悩ましい頭痛の種となっていた。
    「警部!」
    少し遠くで男を呼ぶ声がする。視線をやると先程まで押し掛けていた野次馬たちを相手にしていた若い男がこちらに向かってくるところだった。
    「とりあえず、現場に入っていた人々は中庭から追い出しました」
    「あぁ、ご苦労だった。……検死医は?」
    「もうすぐ到着すると思います」
    その答えに男は小さく頷くと、咥えていたタバコを揉み消して歩き出す。
    「検死医が到着する前にもう一度、現場を改めるぞ」
    「っ……分かり、ました」
    男のその言葉に若い男はやや苦虫を噛み潰したような顔でそう答え、男の後を追った。
    その時代、英国は混沌としていた。時代の流れがまるで大きな渦のようにありとあらゆるものを巻き込んで繁栄と衰退、貧困と富裕を生んでいた。
    英国は世界の中でも最先端の国として発展しながら、あらゆる国の侵略しては植民地とし、領土を拡大していった。植民地とした国からは原料が安く流通するようになり、国全体としては豊かにもなったものの国内における生産値はそれに比例するように下がり続け、安い流通によって仕事を失う者も多く出ていた。その結果として貧富の格差が生まれ、輝かしいはずの首都ロンドンのあちらこちらには貧困窟と呼ばれるものが生まれていた。
    貧困窟の住人の多くはその日、生活するのがギリギリな者が多く、その苦境のせいか安易に犯罪へと走る者もいた。窃盗、スリ、はては殺人と言ったものがその時代のロンドンには日常茶飯事のように飛び交っていた。

    男たちがいるのはロンドンの貧困窟の1つでもあるイースト・エンド地区。その一角にある3階建ての貸間長屋(テナントハウス)だった。男たちは中庭を横切って裏へと回る。そこには貸間長屋の裏口と隣家の仕切り用の垣根があり、ちょうどその境目に一人の女が倒れていた。酔っ払った女が寝ているのかとも思えたが、その顔は陶器のような白さを通り越して青白く、生命の温かみは感じられなかった。女は寝ているのではなく死んでいた。首筋には横に深く鋭い線が引かれ、その間からはピンク色をした筋肉質な中身が見えている。さらにその下、胴体はより凄惨とした状態であった。切り開かれ、内臓の一部は持ち去られているようにも見受けられる。言葉で言い表せないほどに残忍な光景が男たちの眼の前には広がっていた。
    「っ……ぅぅ……」
    隣で若い男が僅かにえずく。無理もない、と警部と呼ばれた男は眉を顰める。彼はまだ、このスコットランド・ヤードに配属されたばかりで、こういった現場の空気には慣れていないのだろう。
    「おいおい、しっかりしろ。こんな事、この世界じゃあ当たり前なんだからよぉ」
    「っ……はい、すみません……」
    それでもなお、若い男のお顔色は良くなかった。男がどうしたものかとため息を吐いていると、ちょうど、そこに別の警察官が男の下にやって来て検死医が到着を告げる。ただ、騒ぎを聞きつけた群衆が入口付近に集まっているせいで入るのが困難なようだ、とも話した。男はそこで若い男に声をかける。
    「よし、お前!ちょっと検死医を迎えに行ってこい」
    「っ!……はい、分かりました!」
    若い男はその言葉に勢い良く頷くと、さっと踵を返して走っていった。
    「……警部は相変わらず、若いもんに甘いですねぇ」
    検死医の到着を告げた警察官が肩を竦めながら揶揄するように言う。それに対して男は苦虫を噛み潰したように「うるせぇ」と小さく返すと
    「おら、お前も用事が済んだならさっさと持ち場に戻りやがれ!」
    とドヤしながら追い出すと草臥れたトレンチコートをただして、男は哀れな被害者を見つめる。その瞳にはこの事件の犯人に対する憤怒と憎悪で染められていた。男にとってこの事件がおそらく、生涯最後の事件となる為か、その思いも他の者よりも格段としてあった。
    「絶対に、捕まえてやる……」
    そう決意を滲ませて呟くも、その願いが叶うことはないのを、この時の男は知る由もなかった。

    かくして、後の世に伝説として語り継がれることになる殺人事件であり、容疑者は100人近く上り、しかして、真犯人となる人物はついぞ捕まらなかった。霧の殺人鬼、レザーエプロンと様々な名で呼ばれるが、最も人々の間で呼ばれたその名は

    『ジャック・ザ・リッパー』
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