馨香 例えば人と擦れ違うときの香水であるとか、柔軟剤であるとか。はたまた体育の授業の後の制汗剤であるとか。特別に意識していなくても何となくこの香りはこの人の香りだなと感じることがある。
所謂体臭、臭いといっても良いのだが、臭いという表現はまるで臭いかのように思えてしまうので、好ましい厭わしいにかかわらず、ここではあえて香りとしたい。閑話休題。
嗅覚が死んでいない限り、その香りからは逃れられない。
水上は五体満足健康体であるので、別に優れてもいないが十分に機能する嗅覚は備わっている。であるので、先に述べたように香りというものから逃れる術はない。
水上には、つい最近までは意識していなかったのに、気になって仕方のない香りがある。
ふとした時に香ってくるチョコレートのようなほろ苦く甘い香りだ。チョコレートが好きなわけでは決してない。けれど嗅覚を刺激しては、水上の心を惑わせる。
ーー諏訪の纏う煙草の香りだ。
煙草の香りなんて、奨励会にいた頃は特段珍しくもなかった。禁煙ブームの昨今では少なくなったものの、それでも煙草を嗜む人間は多かった。
焦げたような鼻につく香りは不快で、とある時、喫煙者であった対戦相手のその香りに思考が邪魔されるのが嫌だったことを覚えている。おそらくその対戦相手は煙草を吸うのがそれ程上手くはなかった。そのせいで、煙草の香りへの印象は良くないし、あまり好ましく思わない。通学時にすれ違えば、眉を顰めてしまう程度には。
ボーダーはトリオンの関係から若者が多く、上層部や開発など非戦闘員は別として戦闘員に喫煙者は少ない。喫煙者でもトリオン体になってしまえばその気配もなく、喫煙所に近づかなければそうそうに嗅ぐこともない。だから水上が諏訪の香りを知ったのも、たまたま喫煙所近くを通ったときに出会したからだ。
あの時はそれなりに急いでいて、喫煙所のある廊下は人気も少なく近道だった。できるだけ息を潜めて通り過ぎようとした喫煙所から、諏訪が出てきて。流石に挨拶せんのはあかんやろ、と足を止めた。水上がどうもと頭を下げると、諏訪は手を挙げてそれから、悪いなと苦笑した。
締め切っていた喫煙所の扉から焦げ臭い煙草の香りが漏れ、少しだけ眉を顰めてしまったのは仕方がなかった。目敏く諏訪に気づかれてしまうのは少し不本意な程度の微々たる変化であったのだけれど。
もっと粗雑なヒトかと、なんて水上は内心少し意外に思った。ただ、水上自身とはそれほど関わりがないものの、諏訪の為人はそれなりに耳に入る。豪胆な人柄の中にある繊細な気配りは、実際に体験するとさり気なくて好印象だ。それを天然でこなす自身の隊長とはまた違うタイプである。
それに諏訪を慕う人間を思い返してみれば、それなりに癖のある面々が思い起こされてストンと腑に落ちるものがある。
諏訪はそのまま、水上の歩いてきた方へ足を向ける。長話をする気はないようだ、と煙草の香りから逃れられることにホッとして諏訪と反対の方向へと歩き出そうとした、その時。
ふわり。甘くほろ苦い香りがした。妙に惹きつけて止まなくて後ろ髪を引かれた。水上の足が止まる。
「この香り…」
口からほろりと溢れる。スン、と鼻が鳴った。
諏訪が足を止め、振り返った。
「ん?」
「あ、いえ、甘い、チョコレートみたいな香りがしたんで、思わず」
いつもならスルスルと出てくる言葉が少し詰まる。
水上は自分の行動に混乱しながら、すんません、と必要もなく謝罪の言葉を述べた。
諏訪は合点がいったような表情で、あぁ、ぽつりと溢し、尻のポケットから潰れた煙草の箱を取り出した。
「これだな」
「はぁ、煙草ですね」
「そ、これの香りだろうな」
「はぁ、これの」
頭の片隅にいる冷静な自分が、何自分から尋ねた癖に馬鹿みたいな返事してんねんと突っ込んでくるのに、鼻腔にこびり着いたチョコレートのような香りが気になって仕方がなく、ぼんやりと口を動かす。香りに囚われていた。
「…洒落たもん、吸ってはるんですね」
「似合わねぇって?うっせ、ほっとけ!」
諏訪は気まずそうにそっぽを向いて、やっぱそろそろ変えるか、と呟いた。そのわけを聞こうとしたけれど、水上の意志に反して動いたのは口ではなく足であった。
諏訪にふらりと近づく。無意識だった。スンスンと嗅ぐと、諏訪は少し目を張ったものの煙草を渡してくれた。けれど思っていた香りではなくて、少し眉を顰めてしまう。
もっと、こう、安心するような。
残念な気持ちと、そんな気持ちになってしまう戸惑いを抱えて首を振る。
「なんか…んー。…ちゃいますけど」
「ほー?……じゃあ、こっちは?」
諏訪が意味ありげに笑って、そっと袖口を水上に近づけた。ふわり、擽る香りに、これだと心のうちが囁いた。何故かとても好ましかった。安心した。顔を近づけて鼻から息を吸う。ええ香り、と呟く。
どれくらいの時間嗅いでいたのか思い出せないけれど、諏訪が吹き出して笑ってしまうくらいには嗅いでいたらしい。それにハッとして飛び退いた。手のひらで鼻を覆って諏訪を見ると、尚もクツクツと笑っている。
鏡で見なくとも分かるくらいには顔が赤くなっているだろう。諏訪の笑い声が人気のない廊下に響く。
人が居なくて良かったという安堵と、香りを嗅いだ気まずさに感情がぐちゃりとして、水上の思い通りになってはくれない。腹が立って思わず睨んだ。
「ふ、クッ…はは、悪ぃ悪ぃ」
「な、ん、悪いなんて、微塵も思っておらへんでしょう!」
「いや、まぁ、お前も歳の割には大人びてるけどよ」
可愛いとこあるじゃねーか、と伸ばした手にハッと気づいて避けようとしたけれどそれは少し遅くて、頭をぐしゃぐしゃと撫でられた。温かくて大きな手によって、水上の髪は乱れた。諏訪が柔らかいなと呟く。
水上は髪の状態などどうでもよかった。それよりもその手が近いものだから、またふわり、心地よい香りが鼻腔をくすぐって、そればかりが意識を割いた。
やっぱええ香りやな…やない、あかん。
ぼうっとされるがままになりそうな体を無理矢理動かして、諏訪を押し返そうとした。
「まぁまぁ、照れんなって」
「ちょ、やめ」
それなのに諏訪は面白がったように水上の肩を引き寄せた。
さっきまで人の機微に敏感やったやろ察しろや!と怒鳴りたくなったものの、今度はさらに近くなって香りが強くなってしまったために、上手く抗えない。
甘くほろ苦いチョコレートのような煙草の香り…。いや、その奥にじんわりと潜む諏訪の、…。
あかん、やばい、おかしなる。
どうにか理性をかき集めて諏訪の手を払い距離を取る。香りが遠くなって薄くなって、それが寂しいなんてそんな気持ちは、絶対に認められなかった。
「用事が!……ありますんで、失礼します」
「おーおー」
それなりに強く振り解いたけれど、諏訪はちっとも気にしていないようで、意地の悪い笑みを浮かべたままだ。掌で転がされているようで悔しく、このまま逃げるようで歯痒く、けれどいつものように頭は働いてくれない。打開策は見つからず、なけなしのプライドでゆっくりと歩いてその場を離れた。
その日はずっと、鼻の奥にこびりついたかのように諏訪の香りが離れなくて、調子は散々だった。
いつもなら少しの不調くらい簡単に隠せるけれど、てんで話にならない。会う人会う人に心配されて、しまいには生駒から帰宅命令が出るほどであった。
それからだ。
急ぎでもないのに喫煙所近くの廊下をわざわざ通ってしまう。
その香りを探しては、諏訪の姿を探す。
不本意で仕方がないのに、理性がとんと働いてくれなくてほとほと困っていた。
煙草の香りは相も変わらず嫌いであるというのに。
諏訪さんの煙草だけがえぇなんて。
何故、なんて自問するまでもない。
理由は分かりきっていた。
けれど、その現実から水上はあえて目を逸らしていた。
本能が焦がれる香りに、水上は今日も振り回されている。