将棋盤の神様 家の蔵は父の隠れ家であった。
広い敷地の片隅にあるその蔵は、年季の入った見かけの割に中は綺麗で、婿養子であった父が望んだ唯一の我儘でリフォームされていた。例えば目隠しでもされて入れば蔵だとは分からないくらい立派に。水上も小さな頃からそこに入り浸り、父と一緒に将棋を指したものだった。
けれど、それを似た物同士ねと笑う母も、水上に負けて参りましたと悔しがる父も、もういない。交通事故に巻き込まれて亡くなってしまった。水上が大学を機に家を出て就職が決まった報告をしたばかりの出来事であった。
結局、会社へ辞退の旨を伝えて実家へ戻ってきた。両親の遺した遺産はしばらく生活することに困らないほどで、ありがたくそれを使いながら過ごしたいと思っていた。祖父母は水上が小さな頃には既に鬼籍に入っていたし、もう恩を返したい親はいない。必要最低限の生活ができれば、それでよかった。
水上は門扉の鍵を開け、ゆっくりと敷居を跨ぐ。庭はシンとしていて、今までなら聞こえていた母のおかえりがないことに、鼻の奥がツンとして慌てて空を仰いだ。
この家に1人でいることがどうにも辛く、葬式や諸々の手続きが終わるまでホテルで過ごしていたことが、逆にアダになってしまったように思う。水上はスンと鼻を鳴らして袖で涙を拭った。まずは、父と母に挨拶をしなければ。
水上は一つ息を吐いて、ゆっくりと歩を進めた。
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空気を入れ替えるため、縁側を開け広げた。天気も良く空気も澄んでいる。
うんと伸びをして庭を眺めると、蔵が自然と目に入る。家を出ていたこともあり、もうしばらく入っていない。あちらも空気の入れ替えが必要だろうと縁側の下に転がっていたサンダルに足を通す。これは父のものだ。玄関や勝手口を使うよりも縁側の方が蔵に近く、母からの小言にめげる事なく利用していたのを思い出す。まだ色濃く残る父と母の気配に涙腺がまた緩みそうで、慌てて蔵に向かった。
少し重たい扉を開けると、隙間から差し込んだ光で埃がキラキラと舞った。
どうせ1人だ、と開け放って部屋の照明と換気のスイッチをONにする。パチリと音がして、見慣れた部屋の様子が目に入った。簡易キッチンと炬燵、小説の詰まった本棚、それから、ーー部屋の隅に鎮座した将棋盤。
水上は吸い寄せられるようにフラフラと、その将棋盤の前へ歩み寄った。正座の形で側に座し、表をするりと撫でる。
年季が入った立派な将棋盤は、水上の家に代々伝わるものだという。丁寧に手入れされながら使われているとはいえ、それにしては真新しい見目をしている。水上の家は古い家系だが、本当に古いものなのかは疑わしく思っていた。けれど大事なものには変わりない。父との思い出の詰まった将棋盤。先程我慢していた涙がこぼれ落ちて、ぽたりと盤上を濡らした、その時。
「うわ、久しぶりに来たと思えば泣きやがった。なんだなんだ何があった」
突然、頭上から声がして水上はガバリと顔を上げた。
まるで平安時代の直衣のような装いに、それと似つかわしくない金髪ツーブロックの髪型、さらに煙草まで咥えている男が、目の前に居た。顎に手を当て、しげしげとこちらを眺めている。ーー宙に浮いて。
「……は?」
「あ?お前俺が見えてんのか?っつーことは敏之はどうした。死んだか」
「いや、え、は?」
水上が何も言えずにハクハクと口を動かすのを見て、目の前の男は眉を顰めた。混乱した思考の中で、辛うじて耳にした「敏之」の言葉を咀嚼する。
それは、父の名前だ。
「…何も聞いてねぇのか」
「と、としゆき…」
「あ?お前の父ちゃんだろ」
「父さん…」
ぶっきらぼうだけれど優しい声色に、ゆっくりと水上の思考もクリアになっていく。口に手を当ててじっと考えこむ水上を見守るように、男は宙に浮いたまま胡座をかいた。
そういえば、父はこの将棋盤を撫でながら、何か言っていなかっただろうか。小さな頃の記憶を掘り起こしていく。
『敏志、この将棋盤にはな、神さんがおるんや』
『神さん?』
『そや。うちのじいさんのじいさんの…もっともっと前の代から大事に大事にしてたからな、神さんが宿ったんよ』
『父ちゃんはそういうん信じてるんや』
『なんや信じてくれへんのか』
『ぼくは自分の見たもんしか信じんもん』
『そーかそーか、敏志はそうか。まぁええよ、それでも。お前さんが大きなっても大事にしてくれたらえぇなって思ってな』
『うちの大事なもんなんやろ?しゃーないから手入れしたるわ!ぼくも将棋好きやし』
『ありがとうな敏志。敏志が優しい子ぉで嬉しいなぁ』
『うわ!頭ぐしゃぐしゃするの辞めて言うてるやん!!』
父との会話が思い起こされて、水上はハッと男を見た。
「…もしかして、神さん?」
「おー。ま、正しくは付喪神かな」
「付喪神…」
にっかりと笑う男に思わず「嘘やん」と声が漏れる。
「こんなけったいな神さんがおるかい。金髪ツーブロて…」
「あー?かっけぇだろうがよ!敏之にも好評だったんだぜ?」
男はそう言うと水上の頭をぐしゃぐしゃとかき混ぜた。
「うわ!!何すんねん!」
「なんだよこれ好きだろお前」
「っ、……好きやないわ」
一瞬息を呑んで、それでも否定した。別にその行為が好きだったわけではないのは事実だ。父にそうされることが嫌いではなかっただけで。神だか何だか知らないが、得体の知れない男に撫でられたってちっとも嬉しくなんてない。それだというのに、そのかき混ぜ方が父と重なって、再び涙が溢れた。
水上の涙腺は両親が亡くなって壊れてしまったように思う。どんなに感動する映画を見ても悲しいシーンを見ても、こんなに泣いたことはなかったのに。
好きではないと言いながらも男の手を振り払うことはできず、そして男も撫でることを辞めず、水上が泣き止んで落ち着くまで、その髪はぐしゃぐしゃとかき混ぜられた。
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「落ち着いたか」
「……はい。ご迷惑を、お掛けして…」
「気にすんな」
水上は男の言葉にスッと視線を逸らして返事をした。泣いてスッキリして冷静になってしまえば居た堪れず、正座で少し痺れてきた足をもぞりと動かした。
「楽にしろよ。お前の家だろ」
「……はい」
言われた通り、けれどそろりと足を崩す。
男は水上と反してリラックスした様子だ。宙に浮いたままごろりと横になり、肘をついた手のひらに頭を乗せてこちらを見ている。咥えた煙草が揺れる。そういえば、と思う。火をつけていないな、と。
「その煙草は吸えるんですか」
「あ?まぁ、吸おうと思えばな。ってか最初聞くのがそれなんだな」
男が笑う。そんな姿に少しムッとして「これでもいっぱいいっぱいなんですよ」と告げた。
「そりゃそうだろォけどよ、なんかあんだろ他に」
男は尚も笑う。確かに、男が何者なのかとか……そもそも人ではないのだけれど。疑いもなく宙に浮いている。ただ、笑う男になんだか気が抜けて、水上は「アンタ…貴方は」とだけ返事を溢す。
「俺のことが知りたかったらその本棚に敏之の日記があるはずだ。アイツは自分にもしものことがあれば、それを読ませてくれっつってたから、書いてるだろ」
男の指さす方へ視線を向ける。「その青い背表紙のやつ」と男が言う。
普段の水上なら「アンタが教えてくれるんとちゃうんかい」くらいは言うところだが、仮にも神だというので距離を測りかねている。
「わかりました。えっと…神さま」
諏訪の瞳がきらりと瞬く。その不思議な虹彩に人でないものを感じて、あぁやはり神なのだなとぼんやりと思った。
「あぁ、スワでいーよ、スワ。言偏二つの諏訪」
「諏訪、さま」
「うわ、様付け辞めろ鳥肌が立つ」
「えっと、諏訪さん」
「……まぁそれでいいか」
男、もとい「諏訪」は頷いて目を瞑った。そしてそのまま寝息を立て始めた。
神さんも寝るんやなとか、自由すぎんか?とか色々思うことはあったが、何にせよ父の遺した日記を確認する必要があったので、水上は諏訪から視線を外して本棚に近寄った。
後に諏訪の行動が彼の気遣いによる狸寝入りだったことに気づくのだけれど、その時にはもう諏訪という男の性質を水上も把握していたので、礼を言う機会は終ぞ得られなかった。
彼はいつも知らぬうちに優しさで包んできて、水上がそれに気づいた時には惚けて素直に受け取ってくれやしないのだ。
これが、父のような母ような兄のような、恋人のような最愛のーー付喪神との出会いであった。