クロディ5話目だと思う 小刻みに震える手を見下ろしていた。世界の全ての音は遠く、自身の発する荒い息遣いだけが鼓膜を震わせていた。
クロードはディアスに勝った。
宇宙の命運を賭けた最後の戦いに挑む前に、クロードはディアスに手合わせを頼んだ。誰一人として欠けず戦い抜く為に、皆を守り抜ける実力が今の自分に備わっているのか、それを確かめたかった。
片膝を突いたディアスは薄く微笑みながら、強くなったと言ってクロードを見上げた。鮮やかで穏やかな赤い眼差しだった。
どれくらいその場で立ち尽くしていたのかは分からない。徐々にクロードの耳は周囲の喧騒を拾い始め、そこが闘技場の片隅であることを思い出す。クロードの脇を駆けて行った子供が、父親を呼ぶ声がする。頭上の吹き抜けから覗く空は雲一つない。何処からか飛ばされて来たらしい赤い風船がいやに目を引いた。
「クロード」
名前を呼ばれて、視線を落とす。傍らには、いつの間にか三日月に似た髪飾りを付けた少女が立っていた。レナだ。
「ディアスは」
訊ねながら辺りを見渡す。見知った長躯の姿はない。
「元気よ。プリシスとウェルチに捕まって、パフェを食べに行ったわ」
「……ほんとに元気だな」
胸がいっぱいで、とても食事など喉に通りそうにないクロードとは大違いだ。
「レナは行かなくて良かったの」
「せっかく二人がディアスと関わろうとしてくれてるのに、わたしがいたら邪魔じゃない」
「妹というか、お母さんみたいだね」
指摘すると、レナは可愛らしく頬を膨らませてクロードを肘で小突いてきた。
人の行き交う通路の真ん中での立ち話も邪魔かと思い、端に避けたところでアナウンスと共に歓声が上がる。エントリーされた挑戦者が闘技場に入場してくるところが見えた。
強そうな剣士だ。隙もない。けれどきっと、ディアスほどには強くない。出現した魔物のホログラムと対峙する剣士の構えを眺めながらぼんやりとクロードは思った。
「マーズで、ディアスがクロードのことを心配してた、って話をしたの、覚えてる?」
横目で隣に立つ少女の様子を覗う。レナは真っ直ぐ場内を見詰めていた。クロードも視線を剣士とホログラムの戦いに視線を戻す。
「うん。何を話してたのかまでは、教えて貰えなかったけど」
「そうね。言わなかった」
指先に何かが触れた。レナの手だ。小さくて柔らかい、華奢な指がクロードの手を握っている。それでもこの小さな手が、時として魔物を殴り付け、仲間を守る為に振るわれることをクロードは知っている。
そっとレナの手を握り返した。彼女はクロードを見上げて微笑み、視線を爪先に落とす。
「ディアスはね、クロードのこと弱い、って言ったの」
「……黙っていてくれてありがとう」
もう一発くらい殴っておけば良かった。ここにはいない男の顔をクロードは思い描いた。きっと今頃、女子二人に囲まれてそれはそれは楽しく美味しくパフェを頬張っているのだろうと思うと、無性に腹が立った。
「弱いけど、絶対にわたしを守り抜いてくれるとも言っていたわ。わたしがクロードの居場所だから、って」
レナの指先の力が微かに強くなる。クロードを決して離しはしないという意志を感じさせる力強さだ。
「でも、ディアスは今日あなたに強くなった、って言ったじゃない。それって、きっともうクロードの居場所は、わたしだけじゃないってことだと思う」
レナはクロードを見上げている。全てを包み込むような、夜の海を思わせる青い瞳だ。
闘技場内が歓声に包まれる。出場した剣士がホログラムに勝ったらしい。
「ぼく、フラレた?」
「クロードは自由よ、って言ったの。自由は孤独じゃないわ」
浅い吐息と共に、レナは小さく笑うとクロードの手を放した。
「ねぇ、クロード」
「何だい、レナ」
「クロードにも、ディアスのこと見ていて欲しいの」
お願い。レナは念を押すように付け加えて言った。
「わたしには分からなかったあなたをディアスが見付けたように、クロードにもきっとわたしには見えない彼が見えると思うから」
「……ぼくでいいのかな」
独り言ちた唇に、自ずと手が伸びて指先で触れる。ディアスに口付けられた唇だ。
歓声は潮騒に似ている。波の音を聞きながら、彼と向かい合った夜を思い出す。
あの夜の苦しそうなディアスが、レナの言うところの見えない彼なのか、確信はない。ただ、そうであれば良いと思う。誰も知らなければ良いのに、と思う。ただ一人、クロードだけが知る姿であれば良いと思う。
「最後に選ぶのはディアスよ。でも、ディアスはもう選んでるような気もする」
クロードの独白を拾い上げて、レナは言った。
「ディアスのこと、見失わないで。放さないでね、クロード」
レナのような綺麗な目で彼を見ることは、クロードにはもう出来ない。彼女のように優しさだけで見守ることも出来ない。独占欲に似た執着ばかりが先立って、一度手を伸ばしたら最後だと思った。それでも良いか、問うべき相手はここにいない。許しを請うべき男はいない。
だから、もう一度唇を合わせて、あの頑なな口を抉じ開けなければならない。その口から、確かな答えを聞き出したい。クロードは強く思った。