「サヨナラ」ダケガ人生ダ 2 微かな呻き声が聞こえて、足を止める。不規則な明滅を繰り返す蛍光灯に照らされた廊下には、アークしかいない。それでも、物々しいシルバーノアの駆動音にかき消されてもおかしくないほどのか細く小さなその声を、確かにアークの耳は拾った。拾ってしまった。タイミングの悪さにうんざりする。
アークは、あまり意識しないようにしていた傍らの扉へと視線を遣った。鉄製の自動扉だ。ロックのかかった扉の向こうの部屋は、最近行動を共にするようになったハンターの少年に与えたものだ。呻き声はこの中から聞こえた。間違いない。
少年の——エルクの境遇は、大まかにだが知っている。彼から直接聞いたわけではない。だからと言ってアークから積極的に訊ねるわけにもいかない。エルクの過去はそれほどまでにデリケートで過酷だった。そんな彼が、扉一枚隔てたその向こう側で悪夢にうなされている様子は想像に難くない。だからと言って、そう多くの言葉を交わしたことのないアークが、容易に踏み込んで良い領域でもないように思えた。だから、うんざりしたし面倒だった。
それでもこのまま何も聞かなかったことにして素通りするのは、自分があまりにも冷たい人間になってしまったように思えて後味が悪い。
結局、アークは自分が善良な人間でいる為に、スペアのカードキーを取り出してロックを解除することにした。少し様子を見るだけだ。エルクが起きず、アークの侵入に気が付かなければ問題ない。自分に言い聞かせた。
結論から言うと、エルクのうなされようはそれは酷いものだった。叫び声、と言い換えても良い。彼のこれが続くようなら、シルバーノアの防音をチョンガラに提案してみても良いかも知れない。資金繰りはどうだったかな。頭の中でそろばんを弾きながら横たわるエルクに近付く。
トレードマークのターバンを外し、露わになった額に汗で前髪が貼り付いていた。そのいつもより幾分幼く見える顔が苦悶の表情を浮かべている姿は、彼をまだよく知らないアークの目にも痛ましく映る。
どうしたものか、と思案に暮れながら取り敢えずアークは床に落ちた上掛けを拾い上げて、うなされる少年にそっとかけ直した。
例えばこれが、エルクに助けられ、エルクと行動を共にし、エルクの目覚めを待っていた少女であれば、今も悪夢に喘ぎ胸をかきむしる手を解いて握るという選択もあったかも知れない。そうでなくても、例えばここにいるのが仲間のポコであったなら、穏やかな音色を奏でて彼の苦痛を和らげることも出来たかも知れない。
けれど、今ここにいるのは何故かアークだ。害意を持って襲い掛かってくる敵を蹴り飛ばし、頭をかち割るくらいしか能のない勇者だ。既に世界的に指名手配されている凶悪犯の分際で善良ぶらず、傷付いた子供の苦悶の声など聞かなかったことにして通り過ぎてしまえば良かった。
身勝手な後悔を持て余しながら、アークは水の精霊の癒しを悪夢にうなされる子供に施す。すると、きつく寄った眉間の皺が心なしか浅くなった。浅くなった気がするだけかも知れない。判らない。けれど、浅くなったということにしよう、とアークは思った。そして今度こそ本当に、彼が目を覚ます前に退散しようと寝台からそっと離れた。
だから、ここにいない誰かを引き留める声に足を止めてしまったのは失敗だった。逃げるタイミングを完全に逸した。それも、自分の名前を呼ばれたわけではないのに立ち止まってしまった。
——母さん
細く頼りない声が、部屋に響いた。行かないで。目尻から流れ落ちる一筋の涙を見た。そして、閉ざされていた目蓋が持ち上がり、熟れた葡萄のような濃い紫色の双眸が覗く。
宙をさ迷っていた視線は、やがて焦点を結びアークを捉えた。
「……何でいるんだよ」
全くもって申し開きようのない、尤もな疑問だ。正論過ぎる。不法侵入の言い訳を考えなくてはならない俺の身にもなってくれ。胡乱な視線に見上げられながらアークは思った。
「ここはこの艦で俺に宛がわれた部屋だろ」
先ほどまで悪夢にうなされていた少年が、再び正論で刺してきた。本当に。仰る通りです。心の中でアークは白旗を上げた。だが、それは心の中でだけの話だ。実際にアークがエルクに対し、掲げて見せたのはこの部屋のカードキーのスペアだった。もう開き直ることにした。何故なら、自分はアーク一味の首魁で、彼は新参者だからだ。所謂このシルバーノアという物件のオーナーだ。そして、彼はその一室を間借りする身だ。アークはオーナー様なので、異常事態があれば強制的に下手に立ち入る権利がある。苦しいが、もうこれで押し通そう。アークは決意を固めた。
「うなされる声が廊下まで聞こえた」
嘘は言っていない。
「だからって……プライバシーとかないのかよ」
矢張り、エルクからは不満の声が上がった。だが、責める口調ではなく、それ以上言及してくる様子もなかった。
よし。この話はこれで終わりだ。終わりにしよう。アークはエルクからの追撃を警戒しながら後ずさりする。熊と一緒だ。いきなり視線を外してはいけない。
「まぁ、目が覚めたなら良かった。これ以上うなされることもないだろ」
だから俺も必要以上に長居する必要はない。お邪魔しました。暗にそう伝えたつもりだった。踵を返す。そして足早に部屋の出入り口へと急いだ。だが、それでも遅いくらいだった。
「嫌な夢を見た」
まだ視線を逸らすべきではなかった。
「……だろうな」
熊め。アークは胸中毒づく。
「故郷の焼ける夢だ」
重い。いきなりそんな、不法侵入者に重い身の上話を聞かせないで欲しい。
「それから、白い家で一緒だった奴らが死んでくときのことも」
白い家は、解かる。エルクと初めて会った、キメラ研究のおぞましい実験施設のことだ。そのあとに死んだ彼の幼馴染みのことも、そのせいで彼が更に深い傷を負ったことも、解かる。
「みんな、俺を置いて死んでく。いつも、俺だけが残される」
その通りだ。まだエルクを深く知らないアークにも、まだ幼いと言っても過言ではない彼の歩んできた道が、その年齢には見合わないほどの多くの死に彩られて来たのだということが解かる。
エルクだけではない。アークが知らないだけで、彼のような想いをして、傷付けられた人々は数多く存在する。そうやって理不尽に傷付けられる人々が一刻も早く安心して暮らせる世界を取り戻したいと思う。
「そうだな」
アークにとって、エルクは傷付けられた世界の縮図のような存在だった。
「そんだけかよ」
不満そうな声音が背中に返る。背後を窺うと、エルクはまだ真っ直ぐアークを見詰めていた。居心地が悪い。
「大して言葉を交わしたこともない君に、俺が何を言える」
慰めて欲しいならリーザかポコでも呼ぼうか。うなされるエルクを見下ろし、自分の無力さを傍観する傍ら、脳裏に過った優しい二人の名前をアークは挙げた。そこへ、軽快な調子の少年の笑い声が返される。
「ひっでぇなぁ。何だよそれ。“俺はエルクを置いて行かない”くらい言えねぇのかよ」
まだ寝惚けているらしい。或いは夢見の悪さに脳みそがふやけているのかも知れない。
「……本当にそれ、俺に言って欲しいか?エルクの両親や幼馴染みと同列の扱いは無理があるだろ」
指摘すると、「まぁな」と小さく呻いてエルクは項垂れた。予想外の反応に、少し心配になって引き返す。これ以上墓穴を掘る前に立ち去りたいのに、本当に勘弁して欲しい。自ずと零れ落ちた溜め息が聞こえたのか、俯いていたエルクが顔を上げる。
酷い顔色だ。目の下にもうっすら隈が浮かんでいる。先ほどまで悪夢にうなされていたのだから仕方がない。それでも、エルクの表情は暗くはなかった。強い子供だと思う。
「それに、そういう無責任なことを俺は言えないし、言わない」
「……勇者だから?」
敏い子供はみなまで言わずともアークの意図を汲む。会話が楽だ。
頷いて寝台に腰を下ろすアークに、エルクは何も言わなかった。
「きっと、必要に迫られたら俺は、君との約束を真っ先に反故にして、世界を救うことを選ぶだろう。少しの迷いもなく」
あまり深く腰掛けてはいけない。距離感を見誤ってはいけない。無責任な物言いで、過度の希望と期待を与えてはいけない。少なくとも、それらはエルクだけを決して選べないアークの役目ではない。
「その結果、もう何度目になるかも分からない別れを突き付けられる君を、置き去りにすることになったとしても」
それでも、悪夢にうなされ、既に喪われた肉親を呼ぶ声を聞いてしまった。置いて行かないで、と縋る置き去りにされ続けた子供を残して、部屋を立ち去ることが出来なかった。それは、彼を突き放しきれないアークの甘さだ。
「ひっでぇ野郎だな」
爪先でアークを小突きながら、エルクが言った。その通りだ。本当に、無責任で酷い男だ。行儀の悪いその所作を甘んじて受け入れながらアークは笑う。
「だろ。だから、エルクもこんな酷い男に引っかかるなよ」
「誰が引っかかるかよ。自惚れんじゃねぇ」
強い口調の悪態に引き摺られるように、繰り出されたエルクの足を掴みながら、アークは考える。彼の力強さと、折れない意志の強さの由来を考える。
炎の精霊に愛された出自もあるのかも知れない。だが、それだけだ。多くの親しい誰かの死を見送りながら、それでも立ち上がる彼の強さの根拠としては、弱い。そうすると、過るのはアークがまだ故郷を焼いた両親の仇であると彼がまだ強く信じていた頃の、憎悪と殺意に塗れた鋭く暗い眼光だ。誤解が解けて、彼の憎しみの矛先はガルアーノへと向いた。そして、ガルアーノを打ち倒した今、エルクの敵はアークの敵と共通のものとなった。
ぁという
エルクを突き動かす原動力は強い憎しみで、その根源には愛する者を奪われた悲しみがある。
今はまだいい。憎むべき敵がいる。けれど、憎むべき敵を全て打ち倒した後、エルクに残るものは何だろう。彼の行き着く果てを見届ける保証のないアークが、どれだけ踏み込むことが許されるのだろう。
とめどなく溢れる思考とエルクから繰り出される攻撃をいなしながら、アークは無責任に、身勝手に笑った。