クロディだよ 紅い空を背にした球形の亡びが、不気味な鳴動を響かせながら明滅を繰り返す。男の形をした兵器は、宇宙を崩壊させる紋章を庇うように立ち塞がっていた。
三十六億年前の亡霊に、クロードの声は届かない。当たり前だ。愛する娘の声すら聞き入れることが出来ないほどに、妄執を宿した兵器は壊れていた。面識などないに等しい、何の思い入れもない第三者の声が届く筈もない。
それでも、声を上げられずにはいられなかった。
長く赤い前髪の間から覗く、まるで温度を感じさせない無機質な翠の双眸が、煩わしげに細められる。兵器の放った紋章術で激しく震える床が、距離を縮めようとしたクロードの行く手を阻んだ。すぐに剣を構えて跳躍したものの、動きを読まれていたのか切っ先が届く前に逃げられる。その上、兵器が指揮者のように腕を振り上げただけで、着地したクロードを衝撃波が襲った。
吹き飛ばされ、受け身も取れないまま背中を強かに床に打ち付ける。痛みと衝撃に息が詰まり、呼吸を忘れる。駄目だ。早く、追撃がくる前に体制を立て直さなければ。逸る思考に身体が追い付かない。焦点の合わない視界が、再び高らかに腕を掲げる兵器の姿を捉えた。動けと念じ、床に手を突いて身体を起こす。だが、二の腕を伝いグローブの中にまで染みた血で手が滑った。姿勢を崩したクロードに、兵器から繰り出された攻撃を避ける術はない。致命傷を覚悟して身体が強張る。だが、攻撃が届くより先に、別の方向から突如として鳩尾付近に衝撃が走った。
反転する視界の端に、翻る蒼を見留める。ディアスだ。床に倒れ伏し、咽て咳き込みながら窮地を救ってくれた男を見上げる。その傍ら——先ほどまでクロードがいた場所が衝撃波で抉れた。彼に蹴り飛ばされていなければ、深い傷を負っていたに違いない。
癒しの力が降り注いだ身体は軽くなり、呼吸もすぐに整った。レナの紋章術だ。立ち上がったクロードの隣に後衛を守っていたアシュトンが並ぶ。
「危なかったね。すぐにセリーヌさんの補助も来るよ」
まだいけるだろ。そう言ってアシュトンは蒼い背中に目配せをした。顎を引いて肯定の意を返すと、すぐさまクロードは兵器と対峙するディアスを追って走り出す。遠く離れて見えた背中に、思ったより早く追い付いた。
「さっきはどうも」
肩を並べた男に礼を言う。
「足元に転がっていて邪魔だったからな」
鼻を鳴らしてディアスは言った。息一つ乱さず、彼は宇宙を亡ぼす最終破壊兵器を見据えたままだ。
クロードも改めて兵器と——ガブリエルと対峙する。三十六億年前という途方もない星霜を経て、現代に甦った亡霊の依り代だ。父の仇だ。そして、娘を喪った悲しみに狂う、一人の父親だ。
剣の柄を握り直し、詠唱の隙を突いて再度距離を詰める。ディアスも考えていることは同じだったようで、殆んど同時に走り出した。
災害に見舞われる前のクリクで、悲痛な声で災いを予言した少女の姿を思い出す。
「どうして分からないんだっ」
振りかぶった剣を叩きつけると、無防備に見えた手の平が軽々とクロードの一撃を受け止める。紋章術で特殊な強化をしているのかも知れない。
「どうして」
セントラルシティで、死を乞いすすり泣く少女の願いを思い出す。
そうしている間にも紋章術は練り上げられていく。逃げなければ。剣を引き戻そうとするが、ガブリエルに握り込まれて動けない。一度剣を手放すべきか逡巡するクロードが決断するより早く、ディアスがガブリエルの背後に回り込んだ。
逆手に握り込んだ剣を、クロードに向かって伸びるガブリエルの腕目掛けてディアスが振り下ろす。力が緩んだ隙に、クロードは剣を引いて距離を取った。間一髪を入れず、強力な紋章術が完成して発動し、神々しいほどの眩い光を放ちながら一帯を薙ぎ払った。直撃は免れたが、一瞬、平衡感覚が失われ世界の全ての音が遠ざかる。
「この程度か」
戻り始めた聴覚が最初に拾ったのは、酷く冷ややかな男の声だった。
「肉親の仇を前に、随分と手ぬるい」
クロードの剣を受け止め、ディアスに貫かれた傷口から溢れる、人間の血液に似た色の体液を無感動に眺めながらガブリエルは言った。滴る液体が、彼の白い手袋を徐々に赤く染めていく。
「わたしは足りなかった。誰を殺しても、何人殺しても、怒りと憎しみが鎮まることはなかった」
小首を傾げると、ガブリエルはうっそりと微笑んだ。
肉眼で見た、最後の父の姿が脳裏を過ぎる。眉尻を下げて、酷く不安そうな顔をしていた。エクスペルが消滅したとき、父の中でクロードも死んだ。そのときの父の絶望がどれほどのものだったか、今のクロードには痛いほどよく解かる。クロードもまた、父を失ったからだ。ただ失われただけではない。本当は息子が生きているという真実すら知らないまま、絶望の中で父は死んでいった。目の前で微笑む、男の形をした兵器に殺された。
「……手ぬるい?」
鸚鵡返しに、ガブリエルに問う。
「手ぬるいって?」
唇が戦慄いて、声が震える。
殺してやる——あの日叫んだ呪詛が鼓膜の奥でこだました。宥めた筈の殺意が全身を駆け巡り、憎悪がクロードを突き動かす。
「父さんを殺したおまえが、ぼくにそれを言うのかっ!」
怒りに身を任せて床を蹴ったクロードを嘲るように、ガブリエルが腕を掲げた。無詠唱で放たれる衝撃波の初動だ。だが、クロードは足を止めなかった。
攻撃を受けてでも、刺し違えてでも殺してやる。激情がクロードの思考を塗り潰し、全身を支配していた。
けれど、クロードの剣がガブリエルに届くことはなかった。ガブリエルの腕が振り下ろされることもなかった。ディアスの剣が誰よりも速く、ガブリエルを斬り裂いたからだ。
噴水のように吹き上がった体液を頭から被りながら、ディアスは手首を返して追撃を繰り出す。踏み止まったガブリエルは、破損していない方の手で攻撃を防ごうと試みたが、クロードの剣を受け止めたときとは違い、術の展開が僅かに間に合わない。
ガブリエルの眉根が微かに歪む。クロードが初めて見た、敵の苦悶の表情だった。
「クロードがどんな想いで、おまえに娘の想いを伝えようとしたか解かるか」
ガブリエルの手の平に、深く刃を押し当てながらディアスが問う。背中を向ける彼の表情は分からない。けれど確かな怒気を孕んだ、獣の唸るような声だった。
堅い何かが砕けるような音がする。一層深く、ディアスの剣が手に食い込んだ。兵器にしては人間くさく舌を打ったガブリエルが、自由になる手で無詠唱の衝撃波を放つ。後方のレナが、ディアスの名前を悲鳴のような声で呼んだ。だが、無防備な脇腹に攻撃が直撃してもディアスは倒れない。
視界の端に詠唱の光を纏うレナの姿を捉えて、クロードは走り出した。
「おまえらに、肉親を殺されたあいつがっ」
血の滲む食いしばった歯の隙間から、呪詛のような、怨嗟のようなディアスの声が零れ落ちる。
解りたくもない。酷薄な笑みを浮かべてガブリエルは答えると、ディアスとの間に割り入るように放ったクロードの一撃を躱して後ずさる。
「貴様らの言い分は、復讐を成し得る能も力もない弱者の詭弁だ」
距離を取ったガブリエルが詠唱を始めると、周囲の空気が熱を帯び始めた。炎の呪紋の前触れだ。
クロードはディアスに視線を送った。口に溜まった血を吐き捨てながら彼が頷く。
発動と同時に走り出す。背後で轟音が鳴り響き、熱風で髪が焼け焦げるにおいが鼻腔を突いた。
「それは違う」
ガブリエルに向けて剣を一閃しながらディアスが言った。切っ先が腕を掠めて体液が散った。
「今やクロードは、おまえを倒すだけの力を手にしている。だが、その力が他者に向かうことは決してない」
接近戦は分が悪いと判断したのかディアスから距離を取ろうと更に下がりかけたガブリエルを、クロードは咄嗟に斬撃を飛ばして足止めする。後退を諦めたガブリエルは瞬時に紋章術を練り上げ、星の光で一帯を灼き払った。だが、ディアスは紋章術発動後の硬直を見逃さない。
「娘の死に耐え切れず復讐に逃げ、娘の声を拒絶して消し去ったのはおまえの弱さだ」
「貴様らなどにはわかるまい。フィリアはわたしの全てだった」
「復讐の大義がそれか。死して尚、利用されるとはおまえの娘も浮かばれない」
弱者はおまえだ。かつて、無惨に家族を殺されてただ一人残された男が嗤う。そして、刃の切っ先が弧を描くと、白いローブを斬り裂いた。
黙れ、と父を殺した男は言った。黙れ、黙れ、と娘を殺され世界に復讐を誓った父親は叫んだ。
剣を握り直して走り出す。クロードの動きに気が付いたガブリエルが、ディアスの攻撃を往なしながら応戦の動きを見せた。
派生の速い衝撃波が、ディアスの肩口を引き裂く。決して浅くはない傷を負いながら、それでもディアスは退かなかった。
「今、おまえは自分がどんな顔をしているか分かるか」
それどころか、一層笑みを深めてガブリエルへと迫る。
「家族の死に思考を止めて、周りの声にも耳を貸さず、この世の全ての不幸を一身に背負ったかのような、身勝手な被害者面だ」
十賢者に——彼らを生み出した男に、クロードが共感しない気持ちがないと言えば、嘘になる。
父を殺した男に対して全く以ておかしな話だが、それでも、肉親を突如として奪われる痛みと喪失感は、クロードにとってあまりにも身近で、彼を狂気に走らせるにはあまりにもありふれた理由だった。
けれど、ディアスは違った。クロードの悲しみに寄り添ってくれた男は、ガブリエルの——ランティスの大義を否定している。クロードの強さを認めてくれた男は今、ランティスの弱さを糾弾している。
奪われる者の痛みはディアスにも分かる筈だ。或いはクロード以上に、ランティスに近しい喪失感を抱えている筈だ。それでも、彼はその弱さを許さなかった。クロードの強さを認めて、きっと彼も前に進もうとしている。そう固く信じることが出来る。
それまでガブリエルを引き付けていたディアスが退いた。背後のクロードの気配を察してのことだ。それまで目の前のディアスに気取られていたガブリエルは、長身の影に隠れて迫っていたクロードの存在に気付かない。閃く刃を目視したのと、その切っ先が突き刺さる感触を認識したのとは、殆ど同時だったに違いない。
ディアスの認めてくれた強さに見合うぼくでありたい。彼の信頼に応えたい。彼に恥じない生き方をしたい。
祈るような心地で、クロードは亡霊の胸に深々と剣を埋めた。