クロディ最終話③ 水音で目が覚めた。屋根を水滴が跳ねる音だ。傾いた視界に映る窓を、雨垂れが伝って流れ落ちていく。豪雨と言うには控えめで、小雨と言うには存在を主張する、中途半端な雨足だ。
空はまだ薄暗く、雨のせいで時間の感覚がない。深夜ではないが、夜明けにはまだ少し早いくらいだろうと当たりを付けて、上体を起こす。身体が軋む。頬にも、ささくれだった堅い木目の跡が付いている。
久しぶりの我が家とはいえ床で眠るものではないな、とディアスは手近な壁にもたれ掛かりながら思った。
レナの家で夕食を取り、思い出話に適当な相槌を打っていたのは数時間前のことだ。久しぶりの団欒は懐かしさと共に言い知れない喪失感をディアスにもたらした。だが、レナが嬉しそうに思い出話をするので悪い気はしなかった。それに、クロードもレナやその母親の話に楽しそうに聞いているように見える。出会った頃の彼なら疎外感を感じて拗ね出しそうな話題も、興味深げに耳を傾けていた。まるでこの一家の一員だ。ぼろぼろと崩れるブラウニーを頬張りながらディアスは思った。
レナの家を出ると夜はすっかり更けていた。空に瞬く星は疎らで、甘い花の香りの溶けた空気に湿った土のにおいが混じる。一雨来そうだな、空を見上げていると、隣にいたクロードがディアスを上目遣いに覗き込んで口を開いた。
「今日はもうアーリアに泊まってくだろ」
質問の意図を測りかねて閉口するディアスを置き去りに、クロードは言葉を続けた。
「一応、泊まるとこがないなら村長がおいで、って言ってくれてるけど」
「好きにしたらいい。おまえが何処に泊まろうと、オレには関係のない話だ」
「え。でも一緒に発つなら、打ち合わせは必要だろ」
「は?」
「え?」
微妙に噛み合わない会話に疑問符が飛ぶ。それから、一つの仮定に行き付き、ディアスは問いを口にした。
「……まさかとは思うがおまえ、オレについて来る気か」
すると、クロードの端正な顔が驚愕に固まる。それから、夜目にも明らかなほどその頬がみるみる内に赤く染まった。
「当たり前だろ!つい数時間前、ディアスと生きたいって宣言したばっかだと思うんだけど!」
クロードは叫ぶような大きさの抗議の声を上げた。幼馴染みの家の前でやめて欲しい。静かに焦ったディアスは顔面を半ば鷲掴みにするようにしてクロードの口を塞いだ。
「黙れ」
「いいや黙らない。こっちは一世一代の大告白を軽くいなされたんだぞ。家族の墓前で誓いのキスをしたようなものなのに」
もがくクロードはディアスの手を逃れ、なおも不満を言い連ねる。
「ディアスってばいつもそうだ。人の話を聞いてるようで聞いてないよな。だからレナにも怒られるんだ。どうせぼくとのことも遊びだと思ってるんだろ。だけどぼくは本気だからな。地球に戻っても絶対ディアスを迎えに——」
「黙れと言っているだろう」
面倒くさくなったディアスは、取り敢えずクロードの鳩尾に一撃入れてみることにした。意識を手放したクロードがやっと沈黙する。安堵の息を吐いたところに、流石に騒ぎを聞き付けたレナが何事かと家の外に出て来た。危なかった。
「……食べ過ぎたらしい」
完全に意識を失っているクロードを肩に担ぎ上げながらディアスは言った。苦しい言い訳だ。だが、レナは特にディアスに言及することなく、「お母さんったら本当にいつもクロードにごはんを作り過ぎるのよね」と妙に納得して家の中へと戻って行った。レナが素直な良い子で本当に良かったな、とディアスは思った。
それから、村長の家に行きクロードを今夜はディアスの家で預かる旨を伝えた。意識のないクロードを善意の第三者に預けることが憚られたからだ。
二年ぶりの生家は想像していたより片付いていた。埃も少なく、恐らくはディアスがいつ帰って来ても良いように、村人たちが定期的に掃除の手を入れてくれていたのだろうということが知れる。村人たちの温かい厚意に感謝しながら、ディアスは肩に担いだ荷物の置き場所を考えあぐねる。その辺に転がしても良かったが、遺品の整理などにも少し手を付けたかったので足元に転がっていられるのは邪魔だ。だからと言って両親の部屋にクロードを寝かせるのは気が引ける。妹の部屋など以ての外だった。結局、消去法でディアスはかつて自分の使っていた部屋にクロードを寝かせることにした。
寝台の上で眠るクロードは安らかな顔をしていて、平時より幼く見える。寝顔は天使、とはよく言ったものだと納得しながら、ディアスは部屋を後にして階下へと戻って行った。
二階の様子を探る。クロードが起きて来る気配はない。花腐しの雨音だけが、部屋の中を支配していた。寝直しても良かったが、奇妙に目は冴えてしまっている。夜明けが近いのかも知れない。
整理を再開するか、何か飲むか、考えあぐねながらディアスは立ち上がった。
人気のない暗い部屋を見渡す。夜目の利くディアスに、夜の闇は視野を狭める理由にはならなかった。壁掛けの時計は的外れな時間を指したまま動かない。ディアスがアーリアを発ってすぐ、時を止めただろうことは想像に難くない。家族の笑い声の絶えなかった居間は、寂寞とした空気が充ちている。
まだ、この家には確かな悲しみがあり、痛みがある。それでも、二年前に故郷を飛び出したときの激情は程遠い。血を吐くような慟哭が堰を切ったように溢れ出すこともない。穏やかな静けさに包まれている。
窓に近寄ると、大きく伸びた枝に房のように垂れ下がった白い花が雨に打たれているのが見えた。妹が生まれた頃に芽吹いた甘い香りのする花を付けるその樹は、レナの家の近くに生えている樹と同じ種類だった。恐らく零れ種で増えたのだろう。そういえば、家族を埋葬した森にもよく似た花が落ちていた。
窓を開ける。温くしけった春の空気と共に、甘ったるい花の香りが室内になだれ込んできた。硝子戸を取り去ると、より鮮明に花の形が判る。クロードの髪から摘み取った花と矢張り同じ形だった。
東の空の地平線は、うっすらと白んでいる。厚い雨雲に隔てられて尚、夜明けが近いことが知れた。
窓辺から離れる。風もない穏やかな雨だったので、ついでに換気しようと窓は開けたままにした。
湿度が高いせいか、頭上から家鳴りが聞こえた。或いは、雨を避けて猫か鳥が迷い込んだのかも知れない。どうせなら両親でも妹でも化けて出てこれば良いのに、と考え掛けて、この家にいてもそんな風に思考出来るようになっていた自分がおかしくなり、ディアスは少し笑った。
日に焼けたキャビネットに近付く。ディアスは荷物の整理を再開することにした。
父が買って満足したまま読まれることのなかった本や、母がよく花を活けていた空の花瓶を手に取っては、一つ一つ丁寧に埃を拭き掃ってしまう。妹の誕生日にディアスが贈った組子細工の小箱も出て来た。行商人から買った珍しい小箱が余程気に入ったのか、居間にずっと出しっぱなしにしていたところを見かねた母が、キャビネットに片付けていたことを思い出した。
そんな風に、家族と過ごした何気ない日々を思い浮かべながら、一つずつ遺された物を整理していく内に、いつの間にか外は朝の気配が濃くなっている。キャビネットにも、もう写真立てくらいしか残っていなかった。
家族で撮った写真が納まっている写真立ては、フレームが欠けて硝子にも薄く罅が走っている。少しの衝撃で割れてしまいそうに見えた。
写真の中の父は、母の肩を抱いて少し照れたように笑っている。寄り添う母も幸せそうだ。最後の記憶より幼い妹は、拗ねたようにそっぽを向いてしまっている。確か、気に入っていたスカートを汚してしまい、その染みが取れないことで駄々をこねていたからだ。そして、赤い眼をした青年はそんな少女を抱き上げて、少し困ったように微笑んでいる。
かけがえのない日々が当たり前のように明日も続いていく——無知で愚直な間抜け面に反吐が出る。そうだ。二年前も同じことを思って、写真立てを壁に投げ付けたのだった。恐らく、家の掃除をしてくれた誰かが、写真立てをキャビネットに戻してくれたのだろうな、とディアスは思った。
流石にもう一度投げたら、今度こそ写真立ては壊れるだろうな、とディアスが考えていると階段が軋む音がした。次いで、廊下を踏み締める控えめな足音が聞こえてくる。
ディアスは写真立てをキャビネットに戻すと、居間の出入り口の方へと向き直った。
扉が開いて、クロードが姿を現す。バンダナやジャケットは部屋に置いてきたのか、日中より砕けた印象をディアスに与えた。
「ここは、ディアスが家族と住んでいた家?」
物珍しそうに部屋を見渡しながら、クロードは言った。
「そうだ」
隠す理由もなかったので、端的に肯定する。ふぅん、と気のない返事を一つ寄越して、クロードが居間に入って来た。異星からやってきた青年が家族と過ごした空間に踏み込んでくる。その事実は、何故かひどくディアスを落ち着かない気持ちにさせた。気取られないよう、平静を装って隣にやって来た青年を見下ろすと、彼は形の良い眉を寄せてディアスをねめつけて来た。
「おなか、まだ痛いんだけど」
「ああ」
そういえば殴って気絶させてから持ち帰ったのだった。忘れていた。
「鍛え方が甘いんじゃないのか」
鼻を鳴らしながらディアスは言った。間一髪クロードの足が向う脛に飛んでくる。痛い。
「……それで?ずっと起きてたの」
訊ねられて、ディアスは緩く首を横に振った。遠浅の海に似た明るい青い瞳は、今は黎明の空のような深い色を宿してディアスを見上げている。
「いや。目が覚めて、また片付け始めたところだ」
「そっか」
雨音にかき消されそうなほどか細い声でクロードは言った。白み始めた外の蒼い光を受けた色素の薄い彼の産毛が淡く輝いて見えた。
「……戻るにせよ、出て行くにせよ、いずれは向き合わなければならないと思っていた。何せ、着の身着のままここを飛び出したからな」
「うん」
返事をしてから、視線を逸らしたクロードはキャビネットに置かれた写真立てに目を留めたようだった。
「ディアスの家族?」
「ああ」
「仲が良さそうだ」
「そうだな。とても」
仲の良い家族だった。言い掛けて喉が詰まる。過去形にしたくなかったからだ。
「エルリアタワーでぼくがいなくなったときのこと、覚えてる?」
不意に、クロードに訊ねられて記憶の底を浚う。
十賢者の配下の魔物の襲撃を受けて流れ着いたエル大陸の変わり果てた首都で、クロードは一度姿を消した。そうでなくても魔物の襲撃に遭ったとき一度はぐれているので、随分とレナが心配していたことはよく覚えている。
「あのとき、ぼくは父さんに会っていたんだ」
クロードの視線は写真立てに向かったままだ。瞬きを忘れたように、凝視している。
「あれが、父さんと話をした最後だった」
このままでは目が乾くのではないかと思い、目尻にそっと指を這わせるとクロードは思い出したように瞬きをした。それから、少し照れ臭そうに笑う。
「おかしいよな。父さんからエクスペルがネーデにぶつかるって教えられて、それを何とかしたくて、みんなと離れたくなくて、その為なら命だって惜しくないって、決死の覚悟で心配する父さんを騙して振り切って戻ったのにさ」
目尻から頬に滑り落ちたディアスの手に、クロードは手を重ねた。
「父さんの方が、いなくなるなんて」
茫洋とした呟きが、静謐とした部屋に溶けていく。ややあって、蒼い瞳から一筋の涙が溢れるように零れた。すぐに我に返ったのか、慌てた様子でクロードはディアスから離れた。
「……ごめん。泣くつもり、なかったんだけど」
「気にするな……父親を亡くして、まだ日も浅い」
抱き締めてしまえば楽だろうか。いつかの夜のような不遜な考えが脳裏を過ぎったが、やめた。そうやって有耶無耶にされることをクロードが望んでいないように思ったからだ。
暫くの間、涙を拭うことに専心していたクロードは、やがて諦めたのか不機嫌そうに鼻を一つ啜った。
「今でも考えるんだ。父さんの言う通りにして、カルナスに残ってたら、きっとぼくも一緒に死んでいた。エクスペルに戻ったお陰で、ぼくは助かったんだ」
クロードの声は震えていた。けれど、強く断定する口調だった。仄蒼い双眸が、ディアスを射抜く。夜明けの先触れを宿して、彼の頬を濡らす涙が控え目に煌めいた。それまで抜け落ちたかのようにただ涙を流すだけだったクロードの顔に、感情が宿る。
薄く口角を上げて、クロードは言った。
「でも、それってさ、ぼくが父さんたちを見捨てたみたいじゃないか」
自嘲めいた笑みではなかった。自暴自棄になったわけでもなさそうだった。端的に事実を口にしただけのような、そんな気安さだった。けれど、気が付つくとディアスは、クロードの肩に掴み掛っていた。
「違う」
怒りにも似た焦燥が、口を突いて出た。クロードの表情が歪む。力を籠め過ぎた。けれど指先はクロードの肩に食い込んで離れない。離す気になれない。
「結果論で、自分を責めるな」
低く、唸るような声が腹の底からこみ上げる。すると、クロードは痛みに顔を歪めながら、それでも一層深い笑みを浮かべた。
「ぼくにはそう言えるのに、どうしてディアスは自分のことは許してやれないんだ」
「オレとおまえは——」
「何が違うんだよ」
連なる問いに、言葉を詰まらせる。
お前が父親を見殺しにしたわけではない。おまえが生き残ったことは罪ではない。クロードにかけるべき言葉の全てが、鏡のように自分に返る。
「ぼくにだって、自分だけ生き残ってしまったことへの罪の意識はある。でも、自分が死ねば良かったなんて思わない」
いつの間にか、肩を掴むディアスの手首をクロードが握りしめていた。
「……本当に、強くなったな」
「強くもなるさ。まだぼくは、ディアスと生きたいんだから」
泣き濡れた顔で、満面の笑みを形作ってクロードは言った。
「だから、あなたにも自分を許して貰わないと困る」
そう言って、クロードは凭れ掛かるようにしてディアスの肩を押した。近い、と後退りしようとしたところでキャビネットの木枠が背中を掠める。手首を掴む手はそのままに、空いている方の手がディアスの髪を絡めて引いた。
「傷の舐め合いなんぞ碌でもない、と言ったばかりだと思うんだがな」
「それだけじゃないだろ」
ディアスの溜め息ごと呑み込むように、クロードが噛み付いてくる。涙の味がする。
「試してみようか」
囁く吐息が唇を擽った。
今度こそ明確な意図を持って、クロードが身体を預けてくる。支えることは勿論、その肩を押し返すことも出来たが、何故かそのどちらをもディアスは選択する気になれなかった。幼馴染みの家の前で彼を気絶させた負い目が何処かにあったのかも知れない。
キャビネットに強かに背中を打ち付ける。そのまま床に引きずり倒された。衝撃で何かが落ちる音がしたが覆い被さるクロードが視界を遮り、確かめることは叶わなかった。