lie like「あはは、どうでしたかね」
それが彼女の口癖だった。へらへらと笑顔を浮かべて、少し気まずそうに軽く頭を掻く。本人は気付いているのか分からないが、エムは嘘をつく時に目を瞑ったり、斜め下に視線を逃がしたりする癖がある。あぁ、また目線が下に向いた。そんな事を思いながら、皆に囲まれて談笑する彼女を少し離れて見ていた。
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重い身体を動かして、箒に乗る。朝から付きまとわれた堅苦しいインタビューや報道から逃げる様に、空に向かって地を蹴った。ふわりと身体が浮かんで、あっという間に木々の上。もうすっかり太陽は傾いており、夕方を知らせる。空は橙色と薄ら青のミルクたっぷりのカフェオレの様に混ざっていて、雲とのコントラストが綺麗だった。『彗星の魔導師』としての仕事が終わる。こんな日は早く帰って大好きな甘いものでも食べてしまおう。そう思って飛ぶ速度を上げた時だった。ふと下を見れば異世界から飛んできた彼女が1人歩いていた。特に何も用事は無かったものの、少し彼女に声を掛けたくなって、高度を下ろす。彼女の後ろに回り、音を立てないように箒を降りたつもりだったが、彼女は此方を振り返った。
「...レムレスさんですか、あぁ吃驚しました」
「ごめんね、驚かそうとした訳じゃ無いんだ」
吃驚したと言う割には顔色一つ変えずに笑顔を見せたエム。どちらからともなく歩みを寄せて、挨拶を交わした。吃驚させちゃったお詫びにキャンディなんてどうかな、と差し出せばすんなりと受け取ってくれる。エムは飴の包装を剥がす事無く、家に帰ったら食べます。と両手で大事そうにキャンディを抱えた。プリンプではアヤシイ人、などと呼ばれあまり素直に受け取って貰えないが、彼女はいつも何をあげても受け取ってくれる。エムは何か言いたげに暫し手の中のキャンディを見つめた後、レムレスに目線を戻した。
「...それで、何かご用でしたか?」
「ああ、特にと言った用事は無いんだけれど...少しお話したいなって思ったんだ。エム、此処最近ずっと引っ張りだこで話す機会が無かったでしょう?」
エムはそれを聞いて若干構えた...と、言っても内心なので外には出さなかったが。態々世間話をするだけの為に箒で飛んでくるのだろうか?という疑問が彼女の中にはあった。が、そんな彼女の疑いとは裏腹に、レムレスは本当に話がしたくて飛んできただけである。
「特に構いませんが...もう遅いですし、私から出来る様な話は無いんです。後日時間を取るのは如何ですか?」
申し訳ないです、と言いたげに眉を八の字にして苦笑いする。そこまで大した話をするつもりは無かったが、折角ならという事でレムレスは時間を合わせる事にした。
「時間を取ってくれるのかい?じゃあ...今週の土曜日なんてどうかな。最近見つけたカフェがあるから、午前10時にふれあい広場で待ち合わせとか」
「はい、分かりました。今週の土曜、午前10時にふれあい広場で」
「うん、楽しみにしてるね」
レムレスの言葉ににこりとして、それじゃあ、もう遅いので。とエムは別れを告げる。レムレスも手を振り、気を付けてね。とその場を去った。
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さて、今日は金曜日。レムレスとの約束は明日にまで迫っていた。正直、あの日に約束をしたのは失敗したと思った。手帳に書いている、『土曜 午後10時 ふれあい広場 レムレスさん』という文字を見て静かに1人溜息を着く。生憎、このヘンテコな世界に飛ばされてきたばかりで何も話すことが無い。人見知りでコミュニケーションに難アリな自分には一対一の談笑なんてハードルが高すぎるのだ。挙句、レムレスさんの事も未だよく知らない。腕が良い優秀な魔導師、『彗星の魔導師』とやららしいが、甘い物好きな飴配りのお兄さんというイメージしか無い。これは参ったと手帳を睨んでフラフラ歩き回る。
「エムー!!」
「わぁっっ!!!!」
背中に衝撃があったかと思えば自分の名を呼ぶ甲高い声。エムは思わず叫び声を上げた。当のアミティはごめんね!と言いながら笑っていた。が、体に巻きついた腕は解かれる様子は無く、そのままアミティは甘える様に抱きしめてきた。それを受け止める様に振り返ってはハイハイ、と抱き返す。飛び付いてきたアミティから目を離し、周りを見れば魔導学校の前だった。考え事をしていた為に、よく見ていなかったが、丁度学校前の道を通り掛かったようだ。
「今日はもう学校の方は終わりですか?」
「うんっ!今日はテストだったんだー!」
成程、と合点が行く。こんな昼間から帰宅するなんてそうそう無いなと思ったのだ。エムはお疲れ様でした、とだけ返して手に持っていた手帳をしまう。
「あ、そうだ!何だか悩んでたみたいだけど、大丈夫?」
「あー...いや、大丈夫っちゃ大丈夫なんですけど」
溜息ついていたのを見られたか、とエムは苦笑いした。悩みといえば悩みだが、大したものでは無かった。勿論悩みというのはレムレスの事。面倒になるといけない...とも思ったが、エムは明日への不安が大きくなりつつあったので、アミティにこっそり耳打ちする。
「その、レムレスさんと明日お話する事になったのだけれど、私は彼をあまり知らなくてですね...。何を話していいのかよく分からず」
「えーーっっ!レムレスと!2人きりで!?」
残念ながら耳打ちした意味は無かった様だ。仕方が無いが気にせずエムは話を続ける事にする。
「多分、2人で」
「そ、そ、それってデート!?」
「じゃ、無いですね」
キャー!!と頬を抑えて妄想に耽るアミティと、それに困るエム。元気が良いのは勿論良い事だが、こうなると手が付けられない。流石思春期の女子と言うべきだろうか。恋に敏感な彼女には敵わないと苦笑いした。まぁ確かに“男女二人”での会話となるとそう行き着くのも無理は無いのかもしれないが。
「えーっと...アミティさん?」
「はっ!ごめんね、つい... 」
エムが肩を叩きながら声をかければやっと落ち着きを取り戻したアミティ。やはりこうなったかと予想はついていたものの、彼女のパワフルさにはいつも驚かされる。純粋とはこういう子を言うんだろうと内心思った。
「それで...レムレスの事だよね!とは言っても、私もあんまり知らないんだ」
「...成程、秘密主義なのでしょうか」
「どうだろう?あんまり気にした事無かったからなぁ...。うーん...あっ、レムレスはパフェが好きだよ!」
「パフェ...」
聞きたかったのはそうじゃないんだけど、とは言えず気の抜けた声が出てしまった。何方にせよ、彼はあまり自分の話をしないのかアミティからはあまり有意なものは聞けなかった。パフェが好きで、強くて頼れるけどアヤシイ...なんて。兎にも角にも、明日までには話題と情報が必要だ。必要なのだが、この有様。殆どプロフィールで明かす様な簡単なものだ。絶対感想聞かせてね!と若干ウキウキそうなアミティと別れた。彼女の願う様な感想にはならなそうだが、分かりましたとだけ返しておいた。さて、彼について幾ら考えても、一人では何も浮かばない。他にも魔導学校の生徒達に会ったので、色々と聞き込みをしてみたものの、『レムレスは僕の憧れなんだ!』とか『箒で何処からともなく飛んで来てお菓子を配り歩くアヤシイ人ですわ!』とか『アヤシイけど、とっても優しい人ですぅ』だとか『ムシ...逃がされた』など。話を聞いていて、エムは誰も彼の事を知らないじゃないか!と驚いた。有名で学生で天才的で異名すら持ち大活躍している魔導師の事を誰も気にしないなんて!彼の情報の少なさにエムは増々頭を抱えた。聞き込みを続けていれば、街の街灯がぽつぽつと光り始めた。時間切れか、とエムはナーエの森へと向かう。
暗がりの森の中、慣れた様に足を進めれば、見えてくるのは簡易的な隠し部屋。生憎此方の世界に来てから住まう場所を用意出来ず常に野営...の様な感じで過ごしている。此処にはそんなに悪そうな人も居らず、深い森の中なら誰にも見つからないだろう...とか勝手に思っている。食事も睡眠もさほど取らないエムは森の中で静かに過ごしているだけで十分だった。適当に森の中の木々に寄りかかり、手帳を開く。そこには大した情報が載っている訳もなく、また溜息を大きくついた。参った。今のエムの心持ちは特大スターにインタビューする様な、そんな。知らない場所で知らない人と話す事はエムにとってかなりの難題である。上手く話せない自分にとって、情報とは命綱だった。アミティの様にコミュニケーションが上手だったら良かったのになぁとエムはまた頭を悩ませた。
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午前9時30分。ふれあい広場の分かりやすい位置でソワソワしながら立っているエム。約束の時間までまだ30分もあるのだが、緊張と不安から早めに着いてしまった。キョロキョロとしても、レムレスが来る様子はない。ずっと周りを見ていても不審に思われるだろうと、視線の行き場を無くし、俯いた。視界には着慣れないシースルーのシャツ。別にいつものTシャツで来れば良かったが、大天才の〜...等と言われてしまえば、それなりの格好をしなければいけない様な気がして、少しだけ洒落こんできた━━━...はいいが、やはり似合わないなと苦笑いした。此処プリンプには素敵なお嬢様や可愛らしい方が多い。勿論男性も例外では無い。アミティが熱愛報道の記者並に食いつくのも分からなくもないとふと思った。そして、自分がこの街に合わない事も。
「お・ま・た・せ、随分待たせちゃったかな?」
「...!いえ、全然問題ないです。私が少し早く来てしまったので」
思い耽っていれば、ニコニコとしたレムレスが手を振りながら声をかけてきた。広場の時計を見れば9時50分。約束の時間までまだ少し時間があったが、こうして早めに来てくれる辺りしっかりとした人なんだなとエムは思う。
「それじゃあ、少し早いけど行こうか」
「はい」
レムレスは此方だよ、と街中を指を指し歩き出した。エムはレムレスの左隣、少し後ろを着いていくように歩いていった。流石に隣をいきなり歩くのはどうだろうと、彼のヒラヒラ揺れるローブを見つつ歩く。カフェに行く途中でも、やはりエムの頭の中は今日をどうやり過ごすかで沢山だった。彼はこんな見ず知らずの女と街を歩いていて大丈夫なのだろうか、有名人と歩くのは苦痛だと頭の隅で考える。
「ごめんね、歩くの早かったかも」
「えっ、あ、いえ、大丈夫です」
黙って後ろを歩いていたからか、レムレスは足の速度を緩め、エムの隣に合わせた。確かに、身長差や足の長さから歩幅が違う事は分かっていたが、エムは考え事をしていただけだし、何より自分からそうしたのに。と少し申し訳なく思った。
そこからエムとレムレスは隣を歩き、談笑した。朝ご飯は何を食べたとか、今日は天気がいいとか。本当に他愛の無い、お手本の様な世間話をしていた。彼は本当に甘いものが好きらしく、朝食にチョコレートケーキをワンホール食べてきたんだとか。自分で作るお菓子が自慢で、偶に配り歩くらしい。暫く菓子の話になり、アレコレと熱烈に語るレムレスの話を聞いていれば、ピタッと会話が止まる。レムレスの顔から視線を外すと目の前には目指していたカフェらしきものが見えた。
「彼処だよ、ちゃんと予約してあるんだ」
「流石です、任せてしまってすみません」
「僕が来たかっただけだから、エムは謝らなくていいよ。そして、此処のパンケーキがとっても美味しいんだ」
有難う御座います、とエムが伝えればレムレスはニッコリと笑った。扉を開け、レムレスの後に続いてカフェの中に入れば、直ぐに店員が案内してくれる。珈琲の香りが鼻腔を擽った。やはりカフェは落ち着く。案内された席は小さな個室の様になっていて、仕切りがあるお陰で少し肩の力を抜く事が出来る。
「好きなもの頼んでね。僕が奢るから」
「いえ、そういう訳には……」
「いいから!今日のお礼として、受け取って」
ね!とレムレスは半ば強引にメニューを手渡してきた。そこまで言われては断りきる事が出来ず、エムは有難う御座いますと一言礼を言ってメニューを開く。甘ったるくて無駄にキラキラとしたスイーツが並んでいる。若干顰め面を見せるも、いつものつまらない無表情に戻す。実はエムは甘いものが苦手であり、こうしたカフェの甘いスイーツが食べれ無かったりする。...が、今日はあの有名(とされている)魔導師との同伴なのだ。エムは不安を抱えながらもレムレスにおすすめされたパンケーキを選んだ。これが一番無難だろうと踏んだのだ。お供には珈琲...いや、紅茶も良いなぁと悩む。そんな時レムレスはと言うと、幸せそうな顔を浮かべてメニューを眺めていた。暫くエムがその様子を見ていると、決まった?と微笑みかけるレムレス。コクコクと頷くエムを見て、レムレスが店員を呼ぶとお互いに選んだ物を言い合っていく。
「御注文、お伺い致します」
「このパンケーキと、アイスティーを1つ」
「僕は...、期間限定特盛いちごパフェに生クリームとチョコレートソース追加で、ドリンクはアイスココアで」
「かしこまりました。少々お待ち下さいませ」
店員は注文をメモし終えると、厨房へと向かった。エムはレムレスの頼んだ内容に目を見開いて彼を見る。生クリームとチョコレートソース?苺?それに特盛?頭に疑問符を浮かべるエムだったが、レムレスはニコニコしながら『甘いの、好きなんだ』と笑った。
「凄いですね、カスタマイズもしちゃうなんて」
「本当は練乳もかけたいくらいだけれどね、いちごの甘酸っぱさが引き立てられてとっても美味しいんだ」
その域まで来ると流石に甘い以外の味が機能しないのでは無いのか?と言いたかったが、かなりの甘党らしい彼が嬉しそうにしていたので、エムは黙る事にした。その後も、カフェのメニューや、美味しいパンケーキの作り方等を話続けるレムレス。好きなだけでなく、ちゃんとお菓子を愛している事も伝わってきた。ただ、手作りのお菓子を配り歩くのは中々ハードルが高いとは思ったが。それから暫くして、注文した品々が届いた。
レムレスは嬉しそうに『わぁ』と声を漏らし、運ばれた物を眺めた。凄く美味しそう、とニコニコしている。エムも、目の前に運ばれたパンケーキの生クリームに宝石かのように飾られたフルーツを目にして、綺麗だと思った。ナイフとフォークを手に取り、ゆっくりとパンケーキを切り分けていく。レムレスは既に食べ始めており、口内全てで堪能する様に噛み締めていた。美味しそうに食べるものだと、エムも釣られてパンケーキを口に運んだ。勿論、甘い。シロップが既にかかっているのだが、かけすぎない程度で美味しいのがまたなんとも憎らしいなとエムは思う。
「うん、凄く美味しいです」
「僕のオススメなんだ」
ふふんと自慢気にレムレスは胸を張った。その姿がなんだか可愛らしくて、思わずエムも小さく笑みを漏らす。上手く談笑出来ている、合わせられていると少しだけ安心した。そこで話題を出す為に、ふと思った事を呟いてみる。
「そういえば、レムレスさんは彗星の魔導師...なんですよね。とても有名だとお聞きしました」
そう尋ねればレムレスはキョトンとした顔を見せてきたが、直ぐに『そうだね』と呟き悩む素振りを見せた。
「彗星の魔導師って呼ばれる程、大層な事はしていないんだ。僕はただ、皆が幸せになって欲しいと思ってるだけだからね」
「...皆が、幸せに?」
そりゃあ、大層な事だろうと言いかけた口はキュッと閉じてしまう。何せそんな大きな綺麗事、今迄で幾度と無く聞いてきたもので、結局そう口に出した人々は有言実行しなかった。それを実現すれば褒め称えられるのは当たり前だろう。だが、エムはそう口に出来なかった。
「やっぱり、変かな」
レムレスは眉を下げて笑う。それを見たエムの心がチクリと痛む。自分は綺麗事は嫌いだ。だがそれを理由に彼の意見や意志を否定してはならない。確かに、大層な事だとは思うのだが、夢見る子供の様な幼さはなく、ただ現実を直視して考えている様だと、そこに立ち向かう強さは彼から感じていた。何も言えずに彼を見ていれば、『あぁでも!』と両手をパチンと叩いた。先程の寂しそうな表情はもう無くなっており、明るい声色で話を続ける。
「でも僕はね?皆が幸せになれば、僕も幸せになれると思うんだ。皆が笑っていると、僕も笑えてくるでしょう?逆に悲しんでいる人がいたら……その人も幸せにしてあげたいって思うんだ」
真剣な眼差しで話すレムレスにエムは少しだけ興味が湧いた。確かにその考えは良いと思うし、とても素敵な事だと思う。だが自分には出来ないなとすぐに思ったのだ。エムだって夢や希望を抱いてはいるが、所詮はただの他人。人の幸せを心の底から願えるほど、優しい人間では無いのだ。なんなら私以外、消えて地獄に落ちてしまえとも思うちっぽけな人間。レムレスの様に誰かを幸せにしてやろうだなんて大それた考えは持てなかった。エムには、やろうとしても出来なかったのだ。
「凄い。凄いですね。周りをそうして支えたり、幸せを願えたりするのはそう簡単では無いと思います。応援していますね」
「あはは、そうかなぁ。有難う、頑張るよ」
レムレスは褒められて満更でも無いのか口元を緩ませた。彼は一体どんな夢を抱いているのだろうとエムは思ったが、深入りし過ぎるのもどうかと思い踏みとどまる事にした。私のような穢れた人間は、彼に関わらない方が良いんだと、心のどこかで理解した。
「エムは…今大丈夫?何か悩み事とかあるかい?」
エムのパンケーキが残り半分になった時、レムレスがそう問いかけた。悩み事なんて沢山あるが、生憎あまり知らない他人に悩みを話す程、信頼を置くことは出来ない。挙句、私の悩みは彼にとっての邪魔のなってしまうだろう。エムはパンケーキを一口頬張って、若干氷の水で薄まったアイスティーで流し込む。
「何も無いです、大丈夫ですよ。お気遣い有難う御座います」
ニコリと手本の様な笑顔を見せれば、レムレスはそっか、と呟いてパフェの大きな苺を頬張った。エムはこれ以上踏み込まれたくなくて、誤魔化すようにまたアイスティーを飲む。微妙な沈黙をぼやかす様にカラン、と底にある氷が小さく鳴った。
「何かあったら遠慮なく言ってね、力になるよ」
「はい。頼りにしています」
よくこんな人を裏切る様な嘘をしゃあしゃあとつけるものだと自分で嘲笑する。彼の善意が自分には合わなかった。こんな事を思うなんてごめんなさい、と心の中でレムレスに謝った。
そこからは、昨日手帳にメモしておいた話題を思い出しながら話を進めていく。レムレスは楽しげに話してくれたようで、今日を無事に乗り越えられて良かったとエムは胸を撫で下ろす。焦りと緊張で甘いものを味わう暇すら無かったが、逆に良かったのかもしれない。
「もうこんな時間だね。この後はどうする?」
レムレスは時計を見るとそう言った。大体午前11時に入店して、現在午後2時。テーブルの上のスイーツも無くなってしまった。中々話し込んだと思ったが、まさかこの後何処かに行くつもりだろうか。
「この後、ですか。えっと……」
「あぁ、無理に予定を合わせなくても良いからね。ただ、もう帰ってしまうのかなと思ったんだ」
エムの焦る様子を見て、レムレスは慌てて弁解する様に言う。完全に善意で聞いてくれていたのに申し訳なく感じたが、帰りたいのも事実だった。しかしこのままだと相手の好意を踏み躙る事になってしまう...と答えあぐねていれば、レムレスはエムが迷っていると勘違いしたのか『じゃあ今日の所は切り上げようか?』とだけ言ってきた。
「あ、いえ……その、特に予定はありませんので」
「本当?良かったら、もう少しだけ付き合って欲しいんだ」
何にでしょう?と問えばレムレスは嬉しそうに口角を上げた。あまり面倒なものじゃなければいいが。
「僕ね、よくこうやって自由に散歩したりするんだ」
「散歩、ですか」
「うん。今迄は一人で回っていたんだけれど、折角だし飛んできたばかりの君と歩きたいんだ。駄目かな?」
レムレスは少し申し訳無さそうに言う。エムは『良いんですか』と答えれば彼は『勿論だよ』と言って立ち上がった。会計を済ませたあと、カフェを後にして歩き始めた。先程よりも口数の少ないレムレスだったが、変わらずエムの歩幅に合わせて歩いてくれていた。なんだか優しすぎてこの人も甘ったるい気がするのはきっと自分だけじゃないだろうなとエムは彼をそっと見ながら思った。暫く歩いた頃、レムレスがエムの方を向いて言った。
「街が一望できる丘があるんだ、そこまで少し頑張って」
「はい」
景色を楽しみながら歩いていたせいか、結構遠くまで歩いてしまった様だ。若干の坂に少し息を乱しながらもレムレスに着いていけば、彼が言っていた丘に着くことが出来た。街を見下ろせる程の高台で、こんなにも良い場所なのに人はあまり居なかった。きっと穴場なんだろうなぁとエムは感嘆の息を零した。
「疲れた?チョコレート、要る?」
「少しだけ。チョコは...頂きます」
エムがニコリと微笑みかけると、レムレスも釣られて笑顔になった。二人して丘の上に腰掛ける。何処からとも無く出された一口用のチョコレートを貰い、口に放り込む。ああ、口の中がどろどろとして甘い。思わず吐きそうになるのを堪えてさっさと食べてしまう。彼は暫く街を眺めていたが、エムに向き直るとまた微笑みながら話し出した。
「エム、君って優しいよね」
「...優しい、とは?」
「他人の為に真実を隠せる、優しい人」
膝を抱えて座る彼はエムに向かってへにゃっと笑いかける。その笑顔と裏腹にエムはぎこちなく苦笑いしていた。バレていたとは。何処までバレていたのかは分からないが、これ以上取り乱さない様に冷静さを取り戻そうとした。
「...世間一般的に、それは嘘つきと呼ぶんですよ」
「僕は、それも一種の優しさだと思うんだ。誰かの幸せを願っているからこそ……そうやって嘘をついてしまうものなんだよ」
「そうですね、有難う御座います。でも嘘は悪い事ですし」
エムがそう言えばレムレスは『あはは、そうかもしれないね』と笑う。それを言われたらもう何も言い返せなくなるじゃないかとエムは思ったが口にはしない事にした。これ以上踏み込まれたくないのだ。何でこんなに明るくて優しい人は私に構ってくるのだろう。悪い事をして庇われている気分になり、気まずくなって目を逸らした。正直逃げだしてしまいたいが、彼が悪意を持って言っているようにも聞こえないから困ったものだ。エムのそんな不安等知らないとでも言う様にレムレスは続ける。
「さっきもそうだったけど、僕がこうやって無理矢理散歩に誘った時も君は拒まなかった。嘘でも、それが優しさになるんだよ」
エムはレムレスを再び見る。彼は少しだけ眉を下げて笑っているように見えたが、それは気のせいだと片付けた。優しさなんて、自分が一番嫌いな言葉だ。それを認めてしまうと自分は汚い人間になってしまう気がしたからだ。そんなエムの思いすら見透かす様に彼は続けた。
「人をよく観察出来る人は配慮が出来るんだ。だからね、エム。君は優しい子だよ」
「そんな事を言われましても、私は別に何も変わりませんよ」
こういった話は大嫌いだ。優しい優しくないの押しつけと、君は悪くないという保護的な言葉。優しいという言葉は、彼の様な人間に使うものであり、私の様な偽善に対しては使わない方がいい。言葉が汚れてしまうから。エムは風で揺れる彼の長い前髪をぼやーっと見ていた。このままでは、怒りでも悲しみでもない何かが爆発してしまいそうだった。
「優しいって言われて嫌かな?ごめんね、でも君が思うより君はとっても優しいよ。勿論、僕が言っているからって訳じゃないからね?」
「そう、ですか」
優しさの正論で殴られて正直泣きそうだ。明るくて優しいのも大概にして欲しい。エムはまた目を逸らして俯くと両手で顔を隠した。褒められている筈なのに、どうしても責められているような気がして、じわっと目が潤むのが分かった。こんな散歩来るんじゃなかったと脳内で思った程だ。レムレスはそんなエムをジッと見つめていたが、ふぅと小さく息を吐いて口を開いた。
「嘘をつかない人間なんて居ないんだよ」
「...」
「だから、僕は嘘は悪い事だとは思わないな。時には必要な事だってある。人の為を思ってついた優しい嘘だと、僕はそう思うよ」
「そんな事は無いですよ。結局は自分が可愛くてついてしまうものなんですから。自分を守る為に嘘をつくんです」
エムは顔を隠しながら早口で捲し立てる様にそう言った。駄目だ、反抗せずにそうですかとだけ返せばよかった。相手は褒めてくれているんだぞ、と自分で戒める。冷静に流せば良かったのに、あぁ、何故か彼と話すと全てが見透かされているようで嫌になった。取り繕う自分さえ醜い気がして、エムうう、と小さく唸った。レムレスは少し黙ってから『エム』と名前だけ呼ぶ。何も聞きたくなくて耳を塞ごうとすると手を優しく掴まれた。今彼の顔を見たくなくて、彼の手から逃げる様に膝を抱えて丸くなる。ぎゅっと目を瞑ると、とうとう涙が溢れ出てしまった。
「僕は、君が悪いなんて思った事ないよ」
「...この短期間で何がわかるって言うんですか?もうお好きになさって下さい、」
「じゃあ君は人を傷つけまいとして嘘をつく。優しい子だ」
その言葉に、エムは何も答えられなかった。だって、自分の言う優しさは偽善に過ぎないのだ。物事が円滑に進むように、優しくあるふりをしているだけにすぎないのに。レムレスは蹲るエムの背中をそっと撫でて良い子だね、と小さく呟いた。何故この人はここまで踏み込んでくるのだろうか。エムのプライドや他人との壁がボロボロに崩されていった。レムレスに抵抗するようにエムは膝を抱える力を強くした。
「優しさなんて要らないです」
「どうして?」
「どうしても何も無いですよ。だって、その優しさで自分が汚れてしまうから」
震える声でそう言えば、レムレスはそっとエムの隣に座り直し、背中をトントン、と軽く叩いた。
「じゃあ、僕と一緒に綺麗にしていけばいいんじゃないかな」
「何を言って...?」
顔を上げて彼を見る。レムレスは優しい眼差しでエムを見つめていた。
「君がその優しさで汚れてしまうなら、僕が側で守ってあげる。そして、エムがもう苦しくならないようにサポートするよ」
「...余計なお世話です」
「お節介だよね、分かってる。でもさ、君が苦しいのを僕は放って置けないんだ。だってほら、その、君には幸せになって欲しい」
レムレスはエムの手をそっと握りながらそう言った。エムはぎょっとして彼を凝視する。今までで1番理解が出来なかったからだ。何故彼がこんなにも自分を気にかけてくれるのかが分からないのだ。理解できない人を前にした恐怖とはまた違い、人と分かり合えないもどかしさと悲しさの方が勝っていた。握られた手が気持ち悪い。優しさに酔いしれる自分が気持ち悪い。何より目の前の彼の優しさが気持ち悪い。善意や好意をストレートに伝えられたものの、叩き落とすことになってしまう。冷静になって、そう、適当に流せばいい。どうせ言葉だけだ。何を私はこんなに動揺しているんだ。エムは深く息を吐いて、レムレスを見やる。するとレムレスは何かを察したようにエムの手を離した。
「...あ、ごめん。馴れ馴れしくし過ぎたね」
「いえ、その、違くて、...」
「怖いよね、ごめんね」
レムレスは苦笑いしながらそう言ったが、エムはふるふると首を横に振った。違うのだ、別に貴方に対して恐怖感を抱いているのではないんですと否定したかったが上手く言葉が出なかった。駄目だなぁ、私はいつもそうだ。言葉を飲み込む癖がついてしまっているんだと自嘲する。暫く気まずい雰囲気になった後、エムは小さく呟いた。
「…や、優しいのは、貴方の方でしょう」
「え?」
レムレスは疑問の声を漏らした。が、エムはそのまま続ける。レムレスはてっきり怒らせてしまったかと思っていたのだが、そうでは無い様だった。
「貴方の優しさはとても心地よくて……つい縋りつきそうになります」
「……縋り付いてくれてもいいんだよ?僕で良ければ幾らでも使って欲しい。幸せになれるなら、どんな事でもお手伝いするよ」
「駄目です、私の中の何かがそれを拒んでいるんです。貴方と居ると、自分が自分で無くなってしまいそう」
そう言って俯く。なんて我儘な人なんだろうとエムは思った。結局ほら、自分は自分の事ばかりじゃないか、優しい言葉をかけてくれた人に対してまで失礼な事を言ってしまっている。自己嫌悪に陥ったエムは唇を噛んだ。レムレスはそんなエムをジッと見ていたが、少しして『じゃあさ』と口を開いた。
「僕が君を壊すよ」
「……え?」
「君のその自己肯定感の低さとか優しさとか、全部壊して……君を幸せにしたい」
何を言っているんだと思った。それと同時に彼からの優しさが本気なんだと察したのだ。エムは唖然としてレムレスを見つめる。彼はニコリと微笑み返し、エムの頬を両手で優しく包み込んだ。
「もっと自分を大事にしていいんだよ」
「や、やめてください……」
「だから、僕に縋っていいんだ。頼って欲しい」
甘くて蕩けそうなその声と瞳に見つめられれば動けなくなってしまった。何を馬鹿な事を。彼は知らない、私の依存性と嫉妬深い事を。私だけに注がれる優しさは、他者より特別でないと、また彼を、全てを拒んでしまう。考えが纏まらずに口を噤んでしまった。そして彼の手がゆっくりと伸びてきて私の頬を撫でるものだからぞくぞくとしたものが背筋を走り抜けた。駄目なのに、これは優しさなんかじゃないのに、もういっそ壊して欲しいとさえ思い始めてしまう程にこの彼の優しさに縋りつきたくて仕方なかった。でも、過去の二の舞にはなりたくない。どうせこの人も離れるだろう。そうだ、悲しかった過去が私を一気に冷やした。
「わ、私は誰にも頼りません。貴方は貴方で他の方に当たって下さい。私は別に構いませんから」
「優しいね」
「……」
また、優しくない事を言ってしまう。だのに彼はまた優しいと呟いた。彼は悪くないのに、とてつもなく腹が立つ。優しくしようとしているだけなのに、私ときたら。エムはギュッと目を瞑る。もういっそのこと突き飛ばしてでも離れてしまいたいが、それもそれで気が引けた。どうしようも出来ないんだと、エムは自分に言い聞かせて、レムレスから目を逸らした。もうこの人の事は考えたくない。早く離れたい。エムは顔を背けながら立ち上がる。レムレスはそんなエムを見上げるが、何も言わなかった。
「......今日は有難う御座いました」
「...帰るのかい?」
「そんな所です」
「そっか、今日は有難う。またね」
エムは彼の顔を見ずにそそくさとその場を去った。彼がどんな表情で私を見ているかなんて見なくてもわかる。きっと何か言いたげな、少し傷ついた顔をしているんだろうと予想するだけで心が痛んだが仕方ない。今は彼と居たくなかったのだ。これ以上優しくされたらきっと私は彼に依存してしまうし、彼はきっと自分から離れてしまうだろうから。そんな悲痛な事は耐えられない。幾ら人に嫌われ慣れた私でも。
「最っ悪だ...どうしよう...」
エムはレムレスから逃げるように歩き続ける。夕日が沈むのを背後に感じながら、小さく舌打ちをした。今まで感じた事のない程の苛立ちと焦りに心臓はバクバクと早鐘を打ち始めていた。エムはその鼓動に気づかない振りをして自分の弱さも見ない振りをして足を進めるしかないのだった。