馴れ初めのスナフキンは、いつもとは違う、少し遠くの川で釣りをしていた。ただの気まぐれだった。川辺に腰を下ろし、気の向くまま糸を垂らす。
日が傾く頃、ウグイを五匹釣り上げ、満足げに釣竿を肩にかける。そして、いつものように自分のテントへと帰ってきたその時だった。
入口の端から、棒のようなものがぴょろりと見えている。釣竿は手に持っているし、他に持ち物はほとんどない。ならば、その突き出た棒は自分のものではない。
近づいてよく見れば、それは虎の尻尾だった。毛並みは夕陽を受けて淡く光り、その節々には金や銀の輪がはめられている。まるで小さな指輪のようだ。
その尻尾の根元。つまり尻も、入り口の幕から少し覗いている。どうやら誰かが、半身を突っ込んでテントの中を物色しているらしい。
スナフキンはあまり他人を自分のテントに招かない。必要以上に客を呼ぶこともないし、谷の仲間ならこんな無遠慮な真似はしないはずだ。
足音を殺し、釣竿とバケツをそっと地面に置く。気配を消して背後に立ち塞がるが、侵入者はまだ気づかない。尻尾の先が、嬉しげに揺れている。
「……君、何をしてるんだい?」
低く穏やかな声が、背後から落ちた。
声をかけられた瞬間、タビィの肩がびくりと大きく揺れた。
ゆっくりと振り返ると、その両手には銀色のスプーンと、艶のある古いハーモニカが握られている。まるで宝物を見つけた子どものような、輝いた目。だが、その輝きは見つかったことで一瞬だけ陰った。
「……あっ、その……」
タビィは尻尾をぱたぱた揺らし、言い訳を探して口ごもる。
「き、キラキラしてたから……ちょっと、見てただけ!」
スナフキンは、ちらと彼女の手元に視線を落とす。スプーンはまだしも、ハーモニカは彼にとって大切な旅の相棒だった。その音色には、幾つもの旅の夜や、過ぎ去った思い出が詰まっている。
「……それは、僕の大事なものなんだ。返してくれると助かるよ」
声色は柔らかいが、そこにはいつもの緩やかさとは違う、譲れない響きがあった。
だが、タビィは唇を尖らせ、両手を背中に隠した。
「やだ! だってこれ、すごく綺麗だもん! 音も出るし、タビィはこういうの好きなの!」
「好きなのは分かる。でも、それは僕にとって……」
「じゃあちょっとだけ貸してよ! すぐ返すから! ……って、何でそんなに怒ってるの? ただ見てただけじゃん!」
尻尾の金銀の輪が、逆ギレしたように小刻みに揺れる。タビィの声はどんどん大きくなり、まるで自分が被害者かのように眉を吊り上げた。
一方、スナフキンは深く息を吐き、彼女の正面にしゃがみ込む。淡々とした目が、真正面からタビィをとらえて離さなかった。
「……タビィ。人のものを勝手に持っていくのは、谷ではやらない方がいい」
「でも……」
「“でも”じゃない。僕がお願いしてる」
タビィは、両手でぎゅっとハーモニカを握りしめたまま、唇を噛んでうつむいた。返すのは嫌。でも、怒られるのも嫌。胸の奥がきゅうっと縮まって、何か言おうとしても声が出ない。
目の縁がじわりと熱くなり、泣きそうなのに「ごめんなさい」の一言がどうしても出てこなかった。
スナフキンは、そんな彼女をじっと見ていた。怒るつもりなど毛頭なかった。
ただ、初対面の子どもにどう諭せばいいのか分からず、無意識に低く落ち着いた声で話してしまう。その落ち着きが、逆にタビィには“圧”としてのしかかっていた。
「……タビィ」
呼びかける声は穏やかだが、拒否できない強さがあった。タビィは肩をびくりと震わせ、尻尾の金銀の輪を小刻みに鳴らす。
「僕はね、怒っているわけじゃない。ただ――それは僕の大事な相棒だから、今は返してほしい」
しゃがみ込んだ彼の瞳は真っ直ぐで、逃げ道を与えてくれない。
「……やだ」
小さな声で、タビィは呟いた。涙がこぼれそうになり、慌てて顔を背ける。握る手はさらに強くなり、ハーモニカが小さくきしむほどだった。
スナフキンはひとつ溜め息をつき、頭をかいた。この子は、ただの盗人じゃない。ただ、宝物を見つけた子猫のように離したくないだけなんだ。そう分かっていても、大切なものは譲れない。
「……分かった。じゃあ、返してくれたら、他のキラキラしたものをあげる。夕飯も用意してあげる。それでどうだい?」
その言葉に、タビィの耳がぴくんと動く。尻尾の金銀の輪がかちゃりと鳴り、ほんの少しだけ握る力が緩んだ。
まだ名残惜しそうにハーモニカを見つめていたが、やがて小さくため息をつき、渋々スナフキンの手にそれを戻した。
「……ほんとに、きらきらくれる?」
「約束するよ」
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次の日から、タビィはまるで子猫のように、朝になるとスナフキンのテントに顔を出すようになった。小動物を捕まえては、得意げに差し出す。じたばたと小さな手の中で暴れているのが少し可哀想だ。
「ほら! 今日のご飯!」
「……ああ、ありがとう」
リスや野ウサギ、はい虫まで。その献上品は日に日に多彩になっていく。スナフキンは申し訳なさそうに微笑み、彼女が見ていない隙にそっと逃がしてやった。森の奥に小動物が駆けていくのを見送りながら、彼は胸の奥で小さく呟く。
ーータビィは悪い子じゃない。ただ、ちょっとばかり自由すぎるだけだ。
そんなふうに、奇妙で穏やかな二人の付き合いは始まったのだった。