ミサンガが切れたら薄く開いた窓から流れ込む冷ややかな風が、じんわりと汗の滲んだ背中を走り抜けてゆく火点し頃。
キッチンで夕飯の準備をしながら食卓を挟んだ向こうにあるリビングに目をやると、愛しのサイボーグが珍しく眼鏡をかけて何やら真剣そうに金属の指を動かしている。暇さえあれば文字を追いかける本の虫だった彼だが、最近はああしているところを見る機会が増えた気がする。彼の姿を視界に入れながらも手は動かしていたはずだが、ふと彼がどうしたんだ?というような微笑みをこちらに向けたことで己の手が止まっていたことに気が付いた。
「ごめんね、邪魔しちゃった」
そう言って途中だった盛り付けを終え、皿を食卓に運んだ足でファルガーの元へ向かえば、作業の手を止めて両手を広げてくれる愛しい彼。遠慮なくその胸に納まると、彼の冷たくて大きな手に優しく撫でられた。
「いつもありがとな。交代制でも良いんだぞ?」
「ううん、いいの。俺が食べてもらいたくて勝手に作ってるだけだし、それにふぅふぅちゃんはいつもお皿洗ってくれるじゃん」
「当たり前だ。 全部浮奇にやらせるわけにはいかないからな」
「分かってるよ」
「最初の頃は全部自分がやると言って聞かなかったくせに」
だって...と頬を膨らませて唇を尖らせると、はははっと柔らかい笑い声が降ってくる。
「もっと俺を頼ってくれ。それに...正直お前と一緒に住んでいると駄目になりそうで怖いんだ」
幸せそうにこちらを覗き込んで笑いかける彼には聞こえないよう、そうなっちゃえばいいのに...とぼそっと呟いたが Excuse meと頬をつままれてしまった。
「いひゃい...へへ。それ、何してるの?」
ふにゃっと笑いながら話題を逸らし、先程まで彼が熱心にいじっていたものが置いてある机上へと視線を向ける。ああ、これか...と彼が拾い上げたのは少し歪に途中まで編まれたミサンガだった。
「珍しいね、ふぅふぅちゃんってこういうの好きだっけ?」
「いや、暇つぶしにいじってただけだったんだが...意外と難しいな。器用な浮奇ならきっとすいすい編めてしまうだろう」
編んでは解いてを繰り返しているのか、少し拠れた薄い紫と黒の糸。自分のことには驚くほど無頓着な彼だから、こんなに苦戦してまで作っているということは恐らく自分にプレゼントしてくれようとしているのだろう。そう察しながらも
「これ...完成したら欲しいな」
と上目遣いで頭を胸に擦り付けると、いや、もっと上手く出来たやつを渡そうと...ともごもご言っているので可愛くて仕方がない。首元に軽くキスをしながら「これがいいの。ご飯食べよ」と立ち上がって彼の手を引いた。
数日後に全て編み終わって1本になったミサンガを「お前がこれでいいと言ったんだからな」とそっぽを向いて照れくさそうに渡してくれた。そのまま手首に付けようかと思ったがふと左足首のアンクレットの意味を思い出し、そこに巻き付けてキュッと結んだ。アクセサリーの意味など知らなさそうな彼がその様子をじっと見つめていたので、耳元で
「これはね、俺がふぅふぅちゃんのものって印だよ」
と囁くと、きょとんとしていた顔がみるみる赤くなった。お前ってやつは全く...と片手で顔全体を隠した彼の指の隙間からは少し嬉しそうな瞳が覗いていた。
そんなやり取りも忘れてしまうほど長い間ずっと付けっぱなしにしていた。
雪のチラつき始めたある日
ファルガーが
交通事故で
死んだ
その日世間は聖なる夜に浮かれていて、浮奇も張り切って少し豪華な食事やケーキ、酒などを用意しながら彼の帰りをそわそわと待っていた。ちょっと遅いなと心配していた矢先、スマホに知らない番号から電話があった。市外局番だったのでなんだろうと思いながら電話を取り、helloと出ると、『浮奇ヴィオレタさんでお間違いないですか』と事務口調で男性の声が返ってきた。少し離れたところにある大きな病院からだ。嫌な予感がしてスマホを握る手に力が入る。そうですが...と答えて聞いていると、「飲酒運転をしていた大型車が歩道に突っ込み重軽傷者が数人出たこと」、「重傷者は直ぐに救急車で運ばれたが一人だけ助からなかったこと」、少し申し訳なさそうに淡々と話す相手の声が段々遠くなってゆく。何でそんなことを俺に話すの。最悪な想像が頭をよぎるが、考えないように一生懸命思考を逸らした。息が荒くなり、脂汗は止まらないし、心臓の音が煩い。
『...を尽くしましたが残念ながら助けることが出来ず、先程息を引き取られました。』
...は?誰が?息を?この人は何を言ってるの?口から出てしまいそうな心臓を押さえつけ、必死に考えるが相手の言葉が理解できない。そんなはずない。絶対にありえない。
「ふぅふぅちゃんが...死んだ...?」
その後のことは何も覚えていない。次の日目が覚めると家中が荒れていて、目は真っ赤に腫れているし声も枯れていて出ない。頭もズキズキと割れそうなほど痛んだ。キッチンにはアルコールの入っていた瓶たちが壁に叩きつけられてそこら中に破片が散らばっていた。冷静になった頭で考えてみるが、霧がかかっているようで何も思い出せない。とりあえず片付けようかと破片を拾い上げると、彼が好きでよく二人で飲んだお酒のラベルが目に入った。...あぁ、そうだった。目頭が熱くなり、記憶の無い間に枯らしたはずの涙がまた取り留めなく零れ落ちる。彼を俺から奪った液体なのに、頭に流れ出てくるのは彼からもらった大切な思い出ばかりだ。その場に崩れ落ち、破片を握り締めてまた長い時間泣いた。
手が切れて血が出ていたが、感覚が麻痺していて気づかなかった。破片を踏んでしまったのか足も切れていたようなので見ると、ずっと大切に付けていたミサンガがない。焦ってリビングの方に戻ると切れたミサンガが落ちていた。昨日暴れたせいかな。泣き尽くしてぼーっとした頭でそんなことを考えながらミサンガを手に取り見つめる。こんなに泣いたのにまだ彼がいなくなったという実感が無かった。サイボーグなんだからきっと壊れた部品を取り替えれば戻ってくるはず。帰ってきたらもう一本編んでもらおう。俺も彼のために編んでお揃いにしよう。きっと恥ずかしがるだろうけど、彼は俺に甘いからお願いすれば付けてくれるはず。そんなことを思いながらまた、泣き疲れて意識を手放した。
─ミサンガが切れた時、願いが叶うというのなら、他には何も要らない。だからどうか。どうか彼にもう一度─
ピンポーン。眠っていた頭の中に、インターホンが響いた。
バッと飛び起きて何度も躓きそうになりながら足早に玄関へ向かう。焦りながらなんとか鍵を開けて、ガチャッと乱暴にドアを開けた。
「おかえり!!ふぅふぅちゃ...」
あ...と声が漏れる。
そうだよ、ふぅふぅちゃんはインターホンなんて押さない。同棲前に俺があげた合鍵を嬉しそうに受け取ってくれて、俺と色違いのペアストラップを付けていつも持ち歩いてた。
肩を落としてそこに立っていたのはサニーだった。帽子を深く被っていたので表情が読み取れなかったが、「浮奇、ファルガーを迎えに行こう」と言った彼の声は震えていた。
病院に着き、案内された部屋へ向かうと先に着いていたらしいアルバーンが部屋の端にある椅子に座って俯いている。真ん中にあるベッドには首の下あたりまで布のかけられたファルガーが眠っていたので、近寄って膝をついた。暫くの間、その綺麗な寝顔をじっと見つめていた。
「ふぅふぅちゃん...ねぇ、いつまで寝てるの?もう夕方だよ。クリスマスはデートに行きたいって言ってたのはふぅふぅちゃんでしょ?今日は一緒に映画を見て服を買いに行く約束だったよね」
「昨日の夜だって俺、君の好物をたくさん作って待ってたんだよ」
アルバーンは相変わらず俯いたまま、サニーは心配そうに浮奇...と声をかけている。
「ねぇ、そろそろ起きてくれないとほんとに拗ねちゃうよ」
そう言っていつも起こすときのように頬に優しくキスを落としてから掛け布団を剥ぐように布を捲ると、右腕には大きくヒビが入り、左腕は関節のところでバキバキに折れてそこから下は無くなっていた。そのまま動かなくなった浮奇を見て、アルバーンが漸く口を開いた。
「これ、昨日ファルガーが持ってたものだって。病院の人が」
浮奇が振り向くと、目を真っ赤にしたアルバーンが紙袋と少し萎れて潰れた花束を差し出してきた。袋の中を見ると小さな箱と一枚の紙が入っていて、それは綺麗な文字で端的に綴られたメッセージカードだった。
「浮奇へ
Merry Christmas 本当は直接伝えるのが格好良いと思うんだが、意気地の無い俺を許してくれ。
その...愛してるぞ。いつも本当にありがとう。俺の全てを懸けて絶対にお前を幸せにすると誓おう。だから、ずっと君の隣に居させてくれ。
文字でも中々恥ずかしいな...この先は口で伝えるよ。
─Fulgur Ovid」
箱を開けてみると、そこには小さなアメジストが埋め込まれた指輪が入っていた。角度を変えると時折赤やピンクに反射するそれは、きっと彼が悩んで悩んで俺に似合うものを選んでくれたんだろうということが感じて取れた。内側には文字が刻まれているようだが、何故だか視界が滲んで上手く読めなかった。震える手でぎゅっと握り締め、ベッドに顔をうずめる。
「......早く、伝えてよ。俺だって用意してたのに。君の左手に通したかったのに」
腹に乗せられていた右手を手に取る。彼の、冷たいのに温かい腕に包まれるのが好きだった。抱き締めてもらった時に生身の部分から感じる熱に安心した。少しづつ早まっていくお互いの心臓の音にドキドキしていた。本当に眠っているだけのような顔に対し、今は胸に耳を当てても腕と同じように冷たくて、鼓動も聴こえない。本当に、抜け殻になってしまった。
後ろでサニーとアルバーンが鼻をすする音が聞こえる。振り返って言った。
「...帰ろうか。ふぅふぅちゃんはもうここには居ないみたい」
ベッドの近くにはガーゼと筆が置いてあったが、無視してキスで彼の抜け殻の唇を濡らした。
それからは先輩らも手続きなどを手伝ってくれて何とか進めることが出来た。彼はしんみりしたのは好きじゃないだろうという浮奇の希望で葬式はせず、各々でファルガーの眠る場所に赴いた。
特にLuxiemの先輩達は気にかけてくれて、連絡をくれたり家へ遊びに来てくれたりもした。
その日はシュウがオフコラボをしに来てくれたので珈琲を入れて、普段自分は使わない砂糖とミルクを探していた。同棲中、彼も牛乳しか使わなかったから家にあったかな...と棚をごそごそ漁っていると、リビングに座っているシュウからブラックで大丈夫だよ〜と声が飛んでくる。
自分を元気づけようとしてくれているんだろうと少し申し訳なく思いつつも、他愛ない話をしながら温かさを感じていた。ふとシュウが、リビングの棚に置いてあったミサンガに気が付いた。話題にするか少し躊躇ってから、
「あれって、ふーちゃんが作ったやつだよね」
と浮奇の様子を伺っている。
「そうだよ。切れちゃって、直そうと思ってたんだ」
なんで知ってるんだろうと思いながらそれを持ってきて座り直した。シュウは気を遣ってくれてるみたいだけど俺だって大人だし、あの日からもう半年程経っている。普段彼を心にしまっておく方法は分かってるつもりだ。何より彼の話題がタブーになるのが嫌だった。そんな俺を見てシュウは少し安心したのか、ゆっくりと話し出した。
「だいぶ前に何人かでコラボ配信してる時、ふーちゃんから相談されたんだ。浮奇の誕生日に何を渡そうかって。せっかくだし何か手作りのものとか良いんじゃないかって話になって、それで僕がおまじないを込めたいならミサンガなんてどう?って勧めたんだよね」
誕生日?たしかあのやり取りをしたのはまだ暑くなりだして間もない、ちょうどこれくらいの時期だったはず。…そんなに前から練習してたんだ。なのに俺が欲しいなんて言ったから、結局誕生日にはネックレスとピアスをもらったっけ。俺に隠し事ができないせいでサプライズが下手だった彼。本当に君はどこまでも俺に甘いね。そう思い出しながら自分の耳に付いたピアスを撫でた。
「あの時は暇つぶしって言ってたんだよ」
クスッと笑ってそう言うと、シュウもその後またすぐに何か別のものはないか!?って相談されたよ、と笑った。
「切れたせいで長さが足りなくて、結べなくなっちゃってさ」
「あ〜それなら、何か繋ぎに金具でも付けてみたらどうかな?」
「そっか。良いかもしれない」
何かちょうどいいものあったかな…明日買ってこようか。と思考を巡らしていると、ふと思いついた。
ちょっと待っててとシュウに声をかけ、かつて彼が使っていた部屋へ向かった。みんなの前では割り切った振りをしているけど、どうしてもこの部屋を片付けることは出来なくて放置していた。以前と同じ頻度で掃除もしていたから半年前の状態と全く同じで、この部屋だけ時間が止まっているようだ。ずっと同じページで端が折られて進んでいない彼の愛読書の近くには、ペンや紙が乱雑に置かれている。机の中に二人で撮ったツーショットが隠してあるのを知ったのは彼がいなくなってからだった。
この部屋だけじゃない。一緒に使った家具に、もらった服やアクセサリー。一度だけ喧嘩した時に付いた小さな壁の傷。恥ずかしがり屋な彼がくれた山盛りの手紙。そして浮奇の部屋には数え切れないほどのプレゼントがあった。そのどれもが温かくて、彼に守られているような気になれた。周りからは思い出して辛くならないかと引越しも勧められたが、彼のことを忘れる気なんてさらさらない。
…っといけない、シュウが来てるんだった。この部屋に入るといつも時間を忘れてしまう。ゆっくりとベッドの上に置いてある箱に手を伸ばし、蓋を開けた。中には彼の腕の一部がしまってある。
「…あった」
入っていた部品の一つに、丸いリングのようなものを見つけた。…彼の腕をずっと支えていた部品なら、ちょうどいいよね。きっと俺のことも守ってくれるはず。そっと掬いあげてまた箱に蓋をした。
リビングに戻り、小さなリングを使ってミサンガを取り付け、また左足に巻いた。
今度切れる時には、願いが叶うといいな。早く君に会いたいよ。あんまり早いと君は怒るかもしれないけど、俺は知ってるよ。君のくれた指輪に刻まれた文字。
─Even if death separates us─
たとえ死がふたりを分かつとも