思考思考を放棄したいと思った。
何も考えず兄上の言う通りにしたらどれだけ楽か。そんな誘惑が浮かんだ。
それでも私は思考を止める事は出来なかった。
悪魔学校の教師
悪魔学校の番犬
幼い頃から目標としてきた生き方。私はこの立場で生きると決めたその日から、ただひたすらに前を向いて歩いてきたのだ。この心の中にある信念を簡単に曲げ、歪ませる訳にはいかない。
だからこそ考える事を止めてはいけないのだ。
兄上の言葉を思い出す。
『あのイルマという子供には、もうこれ以上近づくんじゃない』
『あれは危険だ。これからの魔界に不要かつ害をなす存在になる』
『我々が最も忌むべき存在』
実際のイルマを見ていれば危険でも何でもない存在であることは解る。私を使い魔にしていることは腹立たしいが。
だが『忌むべき存在』とは――
幼い頃の思い出を遡る。
兄上と魔生物学の図鑑を見ていた時の事だ。兄上に一度だけ質問をした事があった。
「兄上は、どの魔生物が好きですか?」
いつも表情を変えることが無い兄上の眉がほんの僅かに動き、細められた目は怒りや恨みなんかでは現せない程暗く冷たかった。
「私はお前のように利口な悪魔なら好きだ」
撫でてきた手は優しく、もう一度見上げた顔はいつもの兄上と同じだった。
しかしあの目が忘れられなかった子供の頃の俺は、その日から兄上の前で魔生物について話す事は無くなった。
兄上は悪魔以外の存在を嫌っているのだろう。子供ながらに感じた事だ。
そう
悪魔以外の存在を
だ
悪魔らしくない行動をとり。
魔界の知識が恐ろしい程に無く。
初めて聞くような言葉を口にし。
初めて目にする物を作り出し。
血縁者の居ない筈のあの悪魔が連れてきた存在。
それはあまりにも――悪魔らしくなかった。
そしてまた考えたくもない事が頭に浮かぶ。
人間は、悪魔を呼び出す力がある。
噂程度の事だと思いたかった。人間は悪魔より遥かに欲が深い存在だ。そんな人間は我々悪魔にとって充分すぎる程の糧。呼び出されれば、その命を対価に願いを聞いてやる事をした。そんな昔の記述がある程の存在。
もう一つ気付いた事がある。
シチロウがところ構わず口にしていた空想生物学の話しが、何時からか鳴りを潜めていた事だ。あいつは優しすぎるところがある。人間に会ってみたいと常日頃から口にしていたし、研究も色んな観点からしていた。
それが昨年度のある時から俺にすらその話をしなくなった。そしてその時からシチロウはイルマとよく話すようになっていた。
あいつの欲が満たされる程の話が出来るのだとすれば合点がいくのは当然だ。
バラバラだったパズルのピースがはまっていく。
思考が纏まらない時間が長引けば長引く程、鬱々とした感情は暗い沼のように俺を沈めていく。俺の意志と関係なく姿を現したケルベロスが唸り、壁に爪を立てた前足を振り下ろした。好きに暴れてくれて構わないと思ってしまった俺はそのまま布団の中に身を丸めた。
俺の発散しきれない感情を吐き出すように、ケルベロスの体が室内のありとあらゆる物に当たり散らしていく。それでも俺の気分は晴れる事は無い。
悪周期で休むと連絡を入れた後、シチロウに時間が出来た時に薬を持ってきてくれとだけメールを送りス魔ホの電源を落とした。
私は何をどうしたら良いのか。今はそれだけを考え尽くそう。
イルマの可能性はシチロウに投げ掛けるとしても、私は答えが欲しいわけではない。私がすべき事を考えなくてはならない。
悪魔学校に害を成すものならば排除する。それが私の役目だ。だが、今の私は可能性しか抱いていない。だからこそ何も動かずに生徒として見守っているのだ。
だったら可能性のまま心に秘めておけば良いのではないか?
真実を知れば、私は何かしらの行動を起こさねばならない。しかし今イルマは様々な渦中に置かれている。そしてイルマが居ることで、問題児クラスは纏まり高みを目指そうと動いている。自分勝手で好きに動き回って、欲に忠実すぎるあの子供達がだ。
生徒の成長を喜ばない教師は居ない――私もその一人だ。
私が真実を知らないと言い切れば、悪魔学校に居る事を黙認しても何の問題もない筈。もし知られても私が一人責任を負えば終わる話しだ。まぁその時は勿論あの悪魔も責任を問われるだろうが当然の事だ。
それならば俺がすべき事はひとつだけ。
確証だけを得た上で、何も語らせなければ良い。そうすれば私は何も聞いていないとシラを切りと押せるのだから。
悪魔学校の敵となる兄上に、私が気付いていると思われてはいけない。気付いていると知られたらきっと排除するようにと命じられるだろうから。
あぁ本当に何故こんな事になっているのか…………考えたくもない
布を引き裂く音と共に灯りが揺れた。
「火は落とすな。アレは傷付けるな」
窓辺に置いておいたサボテンをさして伝えれば、ケルベロスは唸りながらも壁や床を主に傷付けていく。
今は少し眠ろう――