原作雑土で連載してみる11 雑渡昆奈門が妻を娶る。
そのような噂を流す羽目になったのは、黄昏甚兵衛の命令が原因だった。
雑渡は頻繁に甚兵衛の元を訪れる。報告、命を受ける、もしくは甚兵衛の暇潰しのために。
訪れる時間は様々だが、その日は夜に呼ばれた。夜更けの呼び出しは、人の目と耳を遠ざけたい場合が多い。
主人の前に現れた雑渡は、まずいつも通りの報告から始めるよう言われた。雑渡はそれに応え、領内で起こった大小の出来事をすべて伝えた。甚兵衛は耳を傾け、追加の調査や対応を命じる。
「報告は以上です」
何事もなければ、雑渡のこの言葉に甚兵衛が承知の返答を寄越して終わりになる。
だが今、甚兵衛は黙ったままだ。別件があるのだろう。
薄暗い闇の中で、雑渡は次の言葉を待った。手元の扇子をいじりながら、少し間を置く主君の様子に、ぼんやりと嫌な予感がする。それは、長年仕えているがゆえの勘だった。
案の定、甚兵衛は前置きもなしに雑渡へ面倒事を告げた。
「おまえの妻を用意したから、娶る様に」
「はっ」
しばしの沈黙の後、甚兵衛が持っていた扇子で自分の手を軽く叩く。ぱちん、と軽い音が聞こえた。
「つまらん反応だな」
「さて。そう申されましても」
雑渡はもういい歳で、結婚と言われても特に何とも思わない。目の前の主人が、「独り身では不便であるし慰めも欲しいであろう」などという仏心で雑渡に嫁の世話をする事は、絶対にありえない。他の者への話ならいざ知らず、雑渡が相手では。
「では、娶るか?」
「殿の仰せでしたら」
雑渡を思い遣っての提案でないなら、それは戦略上、必要な事であろう。ならば、特に否はない。仕事の一環だ。歓迎はできないが。
「つまらん」
もう一度、甚兵衛は繰り返す。
三十も半ばを越えた男に、どんな反応を求めているのやら。呆れが顔に漏れている雑渡を見ながら、甚兵衛は続けた。
「良い相手がおるのだろう? 少しは困れ」
うわ。
声には出さず、内心で呟く。
誰から聞いたのか、どこまで知っているのか、などと雑渡は考えない。誤魔化す気もない。相手がいるとバレているなら、遅かれ早かれ全部バレる。黄昏甚兵衛は、耳が早いのだ。
「相手といっても、娶る訳にはいかぬ相手ですので」
「何故に?」
「まあとにかく、手がつけられない跳ね馬で。手は出る足は出る噛み癖はあるで、娶りたいと思うような相手ではないのです」
雑渡は少し話を盛った。実際に土井が乱暴だったのは最初だけで、今はもうそんな事はしない。もちろん、雑渡がやりすぎた時は別だ。
「ほぉ。苦労しておるのだな」
甚兵衛は扇子を広げる。それから何かを思い出す様な顔をしながら、雑渡に底意地の悪い目を向けた。
「忍術学園で見かけた時は、そこまで凶暴な男には見えなんだが」
「うわ」
今度は声を抑えるのに失敗した。甚兵衛がようやく笑う。面白そうに。
もう仕方がない。癪だが、話に乗るしかない。甚兵衛を楽しませるのが、話を早く切り上げさせるコツだ。
「そんな話を、どこから掴まれたのです?」
「調べごとが得意なのは、忍者だけではないぞ」
「それはそうですが、私の事をそうやすやすと調べられるのは問題ですな」
「安心するがいい。全部知っているのは、わしくらいよ」
甚兵衛の言い方からして、おそらく本当だろう。甚兵衛は、己の元へ集まる別々の情報を総合して、雑渡に良い相手がいると察知したのだ。
ただ、相手が土井であると、どうして分かったのか。
「あとは、学園長か」
理由がわかった。
土井が自ら学園長へ話したのか、他から漏れたのか。何にしろ、大川平次渦正が相手では、土井を責める気も起こらない。
「ところで、私が娶る女というのは、どういう方なので?」
無理矢理、話を元に戻す。ただ雑渡を揶揄うために出した話ではないはずだ。
「何だ、乗り気なのか」
「いえ全く。ただ、私の妻となれば、だいぶ苦労するでしょうからな」
雑渡には、その自覚があった。
組頭、という立場のせいもある。が、何よりも、雑渡に向かう感情が極端なのが原因だ。
忍者たちからの敬愛と献身、そのために二の次三の次にされる彼らの身内が表には出せずに溜まっていくばかりの不満と怨嗟。忍軍と武家たちとの軋轢。
この間を行き来して、上手くやってもらわねばならない。
夫の雑渡は多忙であるから、たいした手助けができない状況で、だ。
「生半の者では務まりますまい」
「ま、無理であろうな」
甚兵衛はあっさり言って、本題に入った。
「おまえたちに迷惑をかけた夫婦がおるだろう」
「はい」
「あの二人がな、離縁する事となった」
それは少し意外だった。若い妻に甘い男も、さすがに付き合いきれなかったという事か。
女の実家も、反対はしなかったらしい。何か理由をつけて女を実家へ戻し、別の娘を男の元へ代わりに嫁がせるという。
「だが、実家の方でも娘を持て余しておるようでな。次の嫁ぎ先を探しているらしい」
「…………あの、殿。まさかとは思いますが、その女を私に押し付けるおつもりですか?」
「そうしても良いのか?」
「御免被ります」
さすがに承諾できない。こんな縁談を進めたら、忍軍の士気に影響する。女の褒められたものではない素行をすべて調べたのは、雑渡たちなのだ。
「いくら何でも、本当に娶れとは言わぬわ」
「良かった。辞表を用意する所でした」
雑渡の言葉は、まんざら冗談でもなかった。「組頭」の妻が務まらぬ相手との縁談を強要されるなら、雑渡が「組頭」から降りるしかない。
「おまえも律儀よな」
甚兵衛はそう言って、女について話し始めた。実家に戻された女は、表向きは大人しくしていた。が、
「報告があった。娘の動きが怪しいとな」
忍軍はこの件に関わっていない。となると、報告は女の実家周りか来たか。
「また何か問題を起こしましたか?」
「誰ぞと忍び会っているらしい。相手はわからぬが、忍者の可能性が高い」
「逃がした男ですか」
「恐らくな。どうにも女の周りで、きな臭い動きがある」
どこにも味方のいない女一人、何ができる訳でもない。だが忍者が関わるならば別だ。
「私の妻にという話は、他の縁談を進めさせないためですか」
「うむ。今頃、どうやって断るか頭を悩ませておるだろうな」
甚兵衛は喉を鳴らして笑う。
先方は乗り気ではないようだ。当然だろう。雑渡は名高い忍びだが、娘を嫁がせたい相手ではない。
甚兵衛は命じた。
「まとめて調べよ。おまえの『妻』と、その周辺をな」
「はっ」
「それから、おまえの相手については、そのうちゆっくり聞かせてもらうぞ」
「……セクハラですよ、殿」
「勝手に調べて欲しいか?」
雑渡は諦めた。放っておいたら、本当に勝手に調べ出すに違いない。相手が忍術学園であろうとも。
「この件が片付いたらでよろしければ」
結局、従うのが一番被害は少ないのだ。
「早めにな」
わかりましたよ、とやる気のない返答をして、雑渡は主の前から消えた。
宵闇に紛れて帰宅する中で、これからの手筈を考える。だが、集中できない。
変に土井の話をしてしまったせいで、頭の中にも浮かんできた。
雑渡は一度、土井との関係を終わらせようとした。どう転がっても終わるように仕向けた。
実際、それは成功した。土井の方から終わりだと告げられた。
雑渡が余計な事をしなければ、つまり再び土井を呼んだりしなければ、彼の言葉通り終われたはずだ。
雑渡にそれをさせたのは、他ならぬ土井の言葉だった。
「忍玉は可能性」
その言葉を雑渡は何度も口にしていた。部下たちも耳にしているし、ある程度は納得して受け入れられている。
ただやはり、「そうは言っても、ここまでするのか」という、物言わぬ空気を感じる事はある。
もっともな話だ。タソガレドキに属する子らならともかく、忍術学園の生徒たちだ。就職先によっては、敵に回る可能性すらある子たちだり
それでも雑渡が自由に振る舞えるのは、部下たちが雑渡を信じているからだった。
隙間という程ではない。認識の相違は当然だ。部下たちにも、そこまで己に合わせろと言うつもりもない。
そんな中。するりと雑渡の中に入ってきたのが、土井半助だった。
雑渡の個人的な我儘に近い言葉を口にして、そこが好ましいと言った。
当たり前の話ではある。土井半助は生徒たちに対して厳しくも優しくて、甘くて、やはり厳しい。常に教師として、生徒たちを見ている。雑渡よりも余程、長い時間を。
目線の先が同じだった。彼は、雑渡の心に触れないまでも、近い所にいた。
理解されただけならば、雑渡も目を細めて、少し心を和らげる位で済んだだろう。
だが土井は、そこから更に踏み出した。
それは雑渡にとって、意外な返答だった。
土井は、あそこで終わらせる気で、素直に答えたのだろう。
雑渡も、終わるつもりだった。もう終わりだから、あんな事を聞いた。
好奇心からの質問を、今となっては、だいぶ後悔している。
聞かねば、終われたのに。
自分から色を仕掛けた相手に捕まるという、ド新人の様なやらかしをしてしまった。
どのように対応しようかと悩んだ末、雑渡は、何事もなかったように土井との関係を再開させた。
土井からの抵抗もあるにはあったが、転がすのは訳もない。身体だけの関係であるならば。
では、その先は。「弁えた」振る舞いをする土井に、何をどこまで求めるのか。
どこまでなら、求めていいものか。
雑渡は大きく息を吐いて、思考を止めた。今考える事ではない。
結論を先送りにして、雑渡は目の前の仕事に取り掛かる算段を立て始めた。
後から振り返っても、本当に面倒な仕事だった。
雑渡はまず、自分が妻を娶るという噂を流した。
言葉にすれば簡単だが、この時点で一苦労あった。
雑渡の配下達が調べ尽くして、巷の悪評がほぼ事実であると確定した女を妻に、という時点で駄目だった。部下たちが。
雑渡を慕う者たちは、たとえ策の一環だとしても、そんな話が来る事自体が侮辱だと感じたようだ。
それを飲み込ませて話を広めれば、今度はタソガレドキ内で様々な反応が出る。忍軍を快く思わない者たちからは嘲られるし、そうでない者たちは同情する。鋭い者ならば、裏に何かを勘付くかもしれない。
その反応自体が目的であり、そこから調査が始まる。
実際、噂の効果は中々だった。女の周りの動きが、俄かに慌ただしくなった。
望まぬ相手との思いがけない縁談に、女の反応はひどいものだった。寺へ行くとか、タソガレドキから逃げるとか、何なら死を選ぶとさえ喚いたらしい。
皆の前でそれらを報告する押都の言葉に、その場にいたタソガレドキ忍者たちは当然反感を持った。報告中のため口を開く者はいないが、怒りの空気が膨れ上がるのが見えるようだった。
「ま、そうなるだろう」
雑渡だけが、薄く笑っている。空気が少し静かになった。
「女は頻繁に外出しております」
「相手は、例の忍者か」
「は。しかし、他の忍者とも会っているようです。それから、前の夫とも」
「ほう」
意外な話が出てきた。
「女の実家も抱き込んで、何やら密談を重ねているようです」
「なるほど。そう来たか」
女の前夫は、家中でもそれなりに大きい勢力だ。女の実家も、まだ新参だがそれなりに力を持つ家である。
この二つに一波乱を起こされたら、もしくは他勢力に抱き込まれたら、困った事になる。
敵方の忍者隊は、雑渡を正面から狙うのを諦めた代わりに、忍者らしい手に出てきたようだった。もしかしたら、雑渡を狙いながら、裏で動いていたのかもしれない。
それなら、それで良い。むしろ、思考が読める分だけ、やりやすい。
忍軍は静かに動き出した。
黄昏甚兵衛は領地を増やす事に積極的で、そうなれば当然、新参者も増えていく。古参とのバランスを取るのも下手ではないが、限度はある。
気を遣った所で、どこかに隙間はできる。その隙間を、うまく突かれた。
敵方の忍者隊は、なかなかの動きをしていた。惜しむらくは、恋情に目が眩んだ男と女が中心にいた事だ。
崩すのは難しくなかった。というよりも、勝手に向こうから崩れた。何もかもの騒動の発端となった男女が、二人で死を選んだからだ。
それは雑渡が土井から唐突な別れ話をもちかけられた、ほんの数日後だった。
「で、どうなった」
尋ねる甚兵衛の口調には、熱がない。おおよその流れは把握しているのだろう。気に入っていた部下を失う羽目になったのも、関係しているのだろう。
雑渡が報告のために呼ばれたのは、やはり夜半だった。人気のない静かな夜更けに、機嫌のよろしくない主人と二人。伝えるのが悪い報告でない事だけが、唯一の救いだ。
相手の忍者隊は壊滅した。雑渡たちの手によって。
元々、彼らは内部で揉めていた。タソガレドキに恨みを持つ集団とはいえ、温度差はある。ましてやタソガレドキを完全に敵に回すきっかけが、若造の色恋沙汰だ。
内側から崩すよう手を回して、それは概ね成功していた。意外だったのは、渦中の男女が自ら死を選んだ事だ。
動機は推察するしかない。男はもう忍者として動けない傷を負い、所属する忍者隊でも厄介者になりつつあった。女は男と添う道などなく、実家からも困ったもの扱いされ、いっそあの組頭に押し付けては、などと言われる始末だったらしい。
「面倒事から逃げたのだろうよ」
黄昏甚兵衛は冷淡に言い捨てた。無言で聞く雑渡も、概ね同意だ。
忍者隊の始末はついたが、タソガレドキ内の火種の処理はこれからになる。これもまた面倒で、手のかかる処理だ。
女の前夫、そして女の実家に対しての処断は甚兵衛が行う。が、国内の動揺を抑えたり、この機に乗じてタソガレドキにちょっかいをかけようとする他国の勢力に対処するのは、忍軍の仕事となるだろう。
雑渡の予測通り、甚兵衛は「あとは任せる」と言った。
「まだしばらくは、おまえたちに休みはやれそうもない」
「お気になさらず……とはいえ、これほどの大事は、しばらく御免被りたいものですが」
「女一人の話から、これほど事が大きくなるとは思わなんだわ」
ぼやくように甚兵衛が言った。黄昏甚兵衛は戦好きだが、さすがに内乱は好んでいない。
そして、じろりと雑渡を見る。
「おまえの配下に、面倒な女に引っかかったのはおるまいな」
「いないはずですが、部下にもプライベートがありますからね」
「そもそも忍者は色が禁止されておると聞くが?」
「禁じた所で、限度はあります」
どの階級に所属した所で、禁じられるものはある。禁じられるという事は、既に多くの者が同じ穴に落ち、これからも落ちるという事でもある。それは、忍者に限った話ではない。
「忍者も人か」
「そういう事です。扱いにはご注意下さい」
「わかっておるわ」
甚兵衛の適当な返事を、雑渡は流す。それなりに優遇はされているから、今の所は文句もない。
「それで」
黄昏甚兵衛は、切り替えが早い。声の調子を変えないまま、話題だけを大きく変えた。雑渡の望まない方へ。
「おまえと跳ね馬との仲はどうなっておる」
直球で尋ねられて、雑渡は肩を落とした。
「殿。話聞いてました? 部下のプライベートに突っ込みすぎですよ」
「終わったら話すと言ったのは、おまえだろう」
その通りだが、何しろ今は時期が悪い。
「終わってはおりません。面倒なのはこれからです」
それに、と雑渡は続けて言った。
「話す事がないのですよ。このところ忙しいので、まったく会っておりません」
「それほど多忙か?」
「ええ。なのに後片付けはすべて我々でやれと、先ほど殿が命じられたのですよ」
そうであったな、と甚兵衛が態とらしく頷く。
「では、またの機会に聞かせてもらおう」
甚兵衛にも、忍者たちを酷使している自覚はあるらしい。たいして追求されずに話は終わった。
「では失礼致します」
長居は無用と、雑渡はさっさと主人の前を去る。
助かったな、と素直に思う。
今、甚兵衛に話せるような事はない。
雑渡はこの所、土井に会っていないからだ。
土井と最後に会ったのは、噂を流してしばらく経ってからの事だった。
忍術学園は周辺情報に耳聡い。ましてやタソガレドキの、忍術学園へ頻繁に出入りする雑渡の話だ。
もし噂が土井の耳に入れば、彼はさっさと雑渡から手を引くだろう。予想はつく。といって、先回りして話す訳にはいかない。
では雑渡はどうしたかと言えば、土井へ誘いをかけなくなった。顔を合わせてしまえば、その話になるのは目に見えていたからだ。土井の対応は手がかかる。多忙な雑渡は、それを後回しにした。
それまで、土井から雑渡へ連絡があった事はなかった。一度もだ。
それゆえの油断があったのは、否定できない。まさか、土井がタソガレドキ領内で声をかけてくるとは思わなかった。
一度も自分から会いに来なかった土井が、初めて雑渡の元を訪れたかと思ったら、別れ話ときた。
気に食わない。
その時に浮かんだ冷えた怒りを、雑渡は今でも思い出せる。
土井の言葉そのものが間違っているとは、思わない。
だが、行き過ぎた所まで来てしまった認識があるというのに、どうして言葉ひとつで簡単に別れられると思っているのか。
腹の底から湧く怒りのままに行動するのは、久しぶりだった。
抑えきれない怒りを噛み跡で残した。それ以来、雑渡は土井に会っていない。
そろそろ土井の傷は治っただろう。
もう雑渡の中にも、もう怒りは残っていない。
呼べば、相変わらず土井は来るだろう。文句を言いながら。不満そうな顔で。
ただ土井は、はっきりとした別れを口にした。近いうちに、この関係の手綱は、雑渡から離れるだろう。
黄昏甚兵衛に報告する日が来たとして、何を報告する事になるか。今は雑渡自身にも分からなかった。
雑渡の多忙は変わらなかったが、部下たちには順に休みを取る余裕ができてきた。
その日は、尊奈門が休みだった。朝、どうするのかと問えば、土井半助の様子を見てくると言う。
相変わらずだ。遠慮なく土井の顔を見に行ける尊奈門を、少し羨ましく思った。
その日の夕刻、尊奈門は帰ってきた。そしてその足で、雑渡の元へ来た。
「どうかしたか」
「組頭に伝言を預かって参りました」
「誰から?」
「山田伝蔵です」
なるほど。その名前だけで、雑渡は納得した。
伝言の内容は、話があるから二人で会えないかというものだ。尊奈門は、それに納得していなかった。
「組頭本人に用があると言っていました。しかし、何度聞いても何の用件かは言わぬのです」
「そうか」
「組頭はお忙しいと伝えたのですが、どうしてもと」
「わかった。暇を作ろう」
翌朝、尊奈門はまた忍術学園へ向かった。今日は休みではなく、雑渡の用事を済ませるためだ。
数日後、雑渡は昼から外出し、山田との待ち合わせ場所へ向かった。
山田から指定された場所は、忍術学園から少し離れた山にある小屋だった。忍術学園で時折、実習に使う場所だという。
雑渡が忍術学園からタソガレドキへの帰り道で、たまに通る辺りだ。生徒たちがふらりと寄るには、少し遠い場所だった。
山田は先に来て、雑渡を待っていた。小屋の中ではなく、外で。
まだ日の高い時間に、忍び装束の男が二人で待ち合わせる。その状況が、少しおかしかった。が、笑ったりはしなかった。
近付いて確かめるまでもなく、山田の表情が険しいのは分かったからだ。
「お待たせしましたかな」
音もなく現れた雑渡に、山田は、
「お気になさらず。突然呼び立てたのは、こちらです」
と静かに返す。そして雑渡の周りを伺い、尋ねた。
「今日はお一人ですかな?」
雑渡の側には、部下が控えている事が多い。その懸念はもっともだ。
「ええ、今は私一人です」
山田の用件は察している。だから雑渡は、事前に潜んでいる配下に合図を出して、距離を取らせていた。
「私に何か御用事ですか?」
察していながら、雑渡は尋ねる。山田は雑渡との会話を楽しむつもりはないようで、いきなり言った。
「最近、土井先生とは会われていないようですな」
あまりにもストレートな言葉で問われて、少し驚く。山田の顔は至極真面目で、冗談を言っている様子はない。
「ええ」
「お忙しいのは理解しておりますが、いささか長い」
「そうですな」
「あれの傷は、もう消えましたよ」
土井は、山田には何でも話すらしい。あの話を広めて欲しくはなかったな、と思いながら、
「そうですか」
と答える。
「会いにも来ない、連絡もない。もう土井先生と会う気はない、という事でよろしいかな?」
随分と性急に話を進めたがる。
雑渡は口元だけで笑った。
「まさか」
「まだ会う気はある、と?」
「もちろん」
「……そうですか」
山田の声には、落胆がある。彼は、雑渡と土井の関係には反対のようだ。当然だろう。
「その確認のために、わざわざ私を呼ばれたのですかな?」
「まさか。他にも、お聞きしたい事がありましてね」
「何でしょう」
「野暮は承知の上ですが、気になるのですよ」
山田の表情から、雑渡への敵意は感じられない。今の所は。
「あなたほどの立場なら、いくらでも相手はいるでしょう。どうしてまた、土井先生なんです」
「そんなに、不思議ですか?」
「ええ、まあ、不思議ですな」
雑渡にしてみれば、不思議がられるのが不思議だ。土井半助は魅力的な男だ。それを壊すような言動が多いのも事実だが、総合的には良い男だ。
そこまで考えて、そういう事ではないなと思い直す。
土井が相手だから、ではない。
彼らは、雑渡に人並の恋心があるという、その事自体を信じかねているのだ。
「土井殿も同じですが、どうにもあなた方は、私に人の情がないと思っている節がある」
山田は、苦く笑った。
「そういう訳ではありませんよ。ただ、半助があなたのお眼鏡にかなうとは、到底思えなかったもので」
「どういう意味で?」
「あれは、鈍いでしょう」
「否定はできませんな」
「鈍い者はお嫌いかと」
「場合によります」
色恋に関する土井の鈍さは、偏った経験から来ているのは明らかだ。矯正する事はできるだろう。するべきかどうかは、置いておいて。
「雑渡殿」
山田が、雑渡に向き直る。
「あれのために、このまま引いて下さらんか」
雑渡を見る目の奥には、切実な光がある。
山田の忍びとしての実力は、雑渡も知っている。油断ならない相手であるが、身内に関しては随分と甘いところがあるものだ。
それが駄目だとは思わない。
人としては好ましく、忍者としては付け入る隙になる。それに雑渡自身にも、同じ面はある。
だからこそ、余計に思う。
それほど可愛いのならば、最初からこんな男を近付けさせなければ良かったのだ。嫌なものを感じたのなら、無理矢理だろうと、引き剥がしておくべきだった。
雑渡が、尊奈門に対してそうしようとしたように。
「山田殿」
雑渡は布越しでもわかるほど、口の端を釣り上げた。
「いくら何でも、遅すぎますな」
山田が、あるいは土井自身が何と言った所で、引き返せる場所はとうに過ぎている。
逃げたいのなら、もっと前に、死に物狂いで逃げるべきだった。逃がすべきだった。
一瞬の睨み合いの末、ふっと、山田の身体から力が抜けた。
「……でしょうな。心配性の戯言と、流して下され」
「おや。よろしいので?」
「生徒ならいざ知らず、大人同士の話です。あまり口を出すのは野暮でしょうよ」
「理解がおありだ」
「そうでもありません」
山田の声が固くなる。隠しきれない物騒な気配が、見え隠れする。
「私は土井半助の保護者……いや、保証人のようなものでしてな」
なるほど、側からすると保護者というのはこう見えるのか。少しだけ、鏡を見ている気になった。
「あなたの言動次第では、私にもそれなりの覚悟はありますゆえ、お忘れなきよう」
重い言葉が本気である事は、考えなくても分かる。
山田にとって、土井半助は単なる同僚を越えた存在なのだろう。おそらく、土井にとっても。
大きく、厚い壁だな。そう思った。
「無論です」
雑渡が頷くのを確認して、山田は「はぁ」と息を吐いた。今度こそ本当に、力が抜けたようだ。
この大きな壁は、雑渡と土井の関係に反対しながらも、二人の間に立ち塞がるつもりはないらしい。
山田は頭の後ろを掻きながら、
「もうわかっておられるでしょうが……あれは、手が掛かりますよ」
雑渡へ忠告するように言う。
山田は、土井との距離が近い。近ければ近いだけ、当然、土井の面倒さも知っている。
先ほどまで、山田の言葉はすべて、土井を守るためのものだった。だが、この忠告は雑渡を案じたものだ。
雑渡の目が、少し細められる。
「ですな。もうだいぶ振り回されております」
困ったものだ、と続く言葉とは裏腹に、雑渡は楽しそうな顔をしている。山田は呆れた顔を隠しもしなかった。
「物好きな方だ」
本心からであろう響きに、雑渡は笑った。