宿として時々訪れる、東京にある慣れたビジネスホテルの一室。
マントと上着をハンガーにかけて、時計を見る。まだ日付が変わるにはいくらかある。眠るには早いが、あてもなく外出するには少々遅い。
そしてまだ、同室の男が戻ってきていない。
今回、上京する用件は二つあった。昼間の予定は二人とも共通で、村から転院していった患者の様子を確認すること。
夜は別の用事で、一人は大垣に頼まれた会食に。富永は、大学の同期同士の結婚祝いに参加する予定だった。式は遠方だから参加できない者も多く、同期が集まる飲み会が祝いの場になるという。
富永は嬉しそうに出掛けて行った。何時になるかは分からない、と言いながら。
あの調子ならば遅くなりそうだが、とはいえ、帰っては来るだろう。
一人は持参した本を読みながら、富永を待つことにした。富永に何か用がある訳ではない。待ちたかっただけだし、顔が見たいだけだった。
廊下からの足音に気付いた一人は、本から目を離す。ほどなくして、カチリと、鍵が開く音がした。
「ただいま戻りました~ァ」
普段より高い声を聞いただけで、酔っているのがわかる。声より少し遅れて姿を見せた富永は、赤い顔に笑顔を浮かべている。楽しそうで何よりだが、足取りがふらついているのは気になった。
「随分と呑んだようだな」
「はは。ちょっと飲みすぎちゃいましたねェ」
顔は赤いし、目はとろんとしている。よく部屋を間違えずに戻って来れたものだ。
にこにこと上機嫌の富永は、はあ~と大きく息を吐きながら、ベッドに寝転んだ。
ここまで酔った富永を見るのは、初めてだった。村でも酒を飲む機会はある。田舎の娯楽は宴会だ。一人も富永も、たまに呼ばれる。
だが、村にいる間は、やはり医師であるという自覚が強い。軽く酔う程度はあっても、ここまで泥酔した事はない。
「遅くなるのではなかったのか?」
問いながら、一人は時計を見た。まだ日付が変わるには少しある。浮かれて出て行った様子から、相当遅くなると予想していたのだが。
「みんな忙しいから、終わったらすぐ帰るって言うんスよォ。でェ、二次会行く連中はキャバクラ行くって言うから、帰ってきちゃいましたァ」
この酔っ払い加減では、帰って来て正解だ。一人がペットボトルの水を渡すと、富永は起き上がる。水を一気に飲み干したが、その程度で酔いがさめるはずもなく、また寝転がった。
「楽しかったか」
「はい~。久しぶりに、楽しかったス。二人ともシアワセそうでしたよ。いいなァ」
枕を抱いて、
「はァ。アイツら本当いいなァ~」
と繰り返すものだから、心が波立つ。
普段ならば話題を変えてしまうが、今の富永は酔っており、一人も疲れていた。だから、聞きたくない答えが返ってくるのを覚悟で、聞いてしまった。
「おまえは結婚したいのか?」
富永はKを見て、首を傾げた。
「ん~~~~羨ましいんスけどォ、結婚は別にしたくないスねェ~~」
どっちだ。
富永自身もそう思ったのか、「えーっとォ」と言葉を続ける。
「結婚っていうかァ……好きな人に好きになってもらって、一緒に幸せになるって、なんか良くないスか?」
それは良いと、一人も思う。今、目の前に転がって、幸せそうにしている男が、このままずっと一緒にいてくれたならば、どれだけ幸せだろう。
「……そうだな」
同意の言葉は、ほとんど無意識に出た。
寝転んだままの富永が、Kに顔を向ける。少し居心地が悪くなるほど、じろじろと見られた。何だと聞こうとしたが、先に富永が口を開く。
「Kって、もしかして、好きな人いるんですか?」
何故こんな時だけ鋭くなるのか。
一人の沈黙を肯定と取った富永は、
「えっ、ホントですかァ? も~、言って下さいよォ!」
何が楽しいのか、けらけらと笑っている。
「相手が誰でも、Kなら大丈夫スよ」
簡単に言ってくれる。
普段ならば、流してしまえる。だがここは村ではなく、人目はなく、一人の虫の居所もいいとは言えなかった。
富永の寝転んだベッドに近付き、座る。ぎしりと音がして、ベッドが沈む。富永がこちらを見た。その顔の横に手をついて、富永の視界を塞ぐように上に覆い被さる。
自身の風貌が威圧感を与えるものだと、一人は自覚している。数十センチの距離に一人の顔があるのは、大きな身体で視界を塞がれるのは、相手によっては怯えを喚起させるだろう。
驚いた顔で一人を見上げる富永に、問いかける。
「本当に、そう思うか?」
低く、静かに言葉を紡いで、口を閉じる。そして、心の中で続けた。
相手がおまえだと言っても?
見据えた一人の目を、富永は逸さなかった。もう驚きは去ったようで、いつもの富永の顔で笑う。
「ホントに思ってますよォ」
だって、と言いながら手を伸ばして、Kの腕をぽんと叩く。
「オレが知ってるこの世で一番いい男は、Kだから」
返す言葉がなかった。
富永は、いいことを言ったぞ、という顔で一人を見ている。
一人は黙ってベッドから降りると、富永に目線をやらずに言った。
「酒臭いぞ。寝る前に、風呂に入ってこい」
「えぇー……明日の朝じゃダメですか?」
「いいから、早く酔いを醒ましてこい」
タオルを放り投げると、富永は不満そうながらも起き上がった。
「はーい」
少しふらつきつつも、富永は風呂に向かう。中で眠らないように、気を付けていた方がいいかもしれない。
酔っ払いの調子のいい言葉だ。明日には、いや、風呂から出る前には、もう言った事さえ忘れているだろう。
参った。
酔っている事を差し引いても、警戒心がないにも程がある。
あれを崩して落とすには、手がかかりそうだ。
バスルームから微かに聞こえる、調子の外れた歌声を聞きながら、一人は苦笑した。