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国の名を変えるほどの戦争が終わりを迎えてから、季節が一巡した頃。
久しく訪れていなかった、街を見守るように鎮座しているグレッグミンスター城の、見た目通り厳かな雰囲気を纏っている謁見の間に、地を這う声が響く。
「──今、何と言った?」
耳に入った言葉の意味を理解するより前に声を出していたクレオは、側近が静止しようとした手を振り払うと、その声の主であるトラン共和国大統領・レパントを見詰めた。
「生半可な覚悟でその言葉を口にしているなら、マクドール家に対する侮辱と受け取るぞ。レパント大統領」
「考えも無しにこんな大それたことなど言えるはずもありません。マクドール邸をトラン共和国の管理下に置かせてほしい。私が六将軍に相談した上で依頼すると決めたのです」
「何故、そんなことを……」
「トランの英雄となったティア殿の生家は、我がトラン共和国にとって何物にも代え難いものだからだ」
クレオに鋭い目つきで見詰められているレパントはそれに臆することもなく言葉を紡いだ。
言葉もなく、視線も逸らさずこちらを見てくるレパントに、クレオは静かに目を伏せた。同時に勢いのまま上げた腕をゆるゆると下ろした。
「……ティア様がもう、この地に戻らないと思っているんですか?」
「クレオ殿、逆です。戻ると信じているからこそ、あの屋敷を完全に、完璧に残しておきたいのです。比較的平和とはいえ、ここ、グレッグミンスターにもあの戦争の傷跡は未だ残っている。金目の物を狙う輩が屋敷に忍び込む恐れもあるでしょう」
「そんなやつが現れても、私が追い返すさ」
「そうでしょう。貴女は強い。かの有名なテオ・マクドールが側近にしていたお方だ。しかし、貴女が一人で守るにはマクドール邸はいささか規模が大きすぎる。損害が出てからでは遅いのだ」
「だから、管理下に置いておきたいと?」
「それも、理由の一つです」
ゆっくりと頷くレパントから視線を逸らすことなく、しかしクレオは意識して深く息を吐いた。
痛いところを指摘された。確かに、あの屋敷は一人で守るには広い。レパントの耳に入っているかは知らないが、実際勝手に侵入され、自らの手で犯人を取り押さえたこともあった。幸い大した被害はなかったものの、次何かが起こってもおかしくはない。
「……先程は言葉尻が強くなってしまい、すまなかった」
──それでも。
「私は、あの家で坊ちゃんを待つよ」
レパントが驚いた顔をする。そして、すぐに厳しい顔になった。
「……許してはくれまいか」
「家主ではない私が、屋敷の在り方を決める権利はない。あの家は、私にとっては英雄の生家ではないんだ。ティア様の……大事な大事なテオ様の息子の家で、坊ちゃんの帰る場所だ。坊ちゃんが帰るまで、私はあの家にいる。おかえりなさいと言う人がいないのに、帰る家とは呼べないだろう?」
マクドール邸は、ティア・マクドールの存在は、尊敬する人に託されたクレオの誇りだった。弟同然に愛し育てたティアが留守にしている今でも、クレオはこの場所を大切に守り続けていた。
レパントが押し黙る。納得したのか、諦めたのかは分からない。クレオも同様に口を閉ざした。
どうしても譲れなかった。
身を削るかのように大切なものを次々と手放してしまった少年の、まだ失くしていない思い出を守りたかった。
いつの間にかどんよりと重くなってしまった謁見の間の空気に、見知った顔である将軍達も口を挟むことができず周囲からその場を見守っている。
「……ならば」
静かに紡ぐレパントの声が、響く。
「ならば、せめてあの屋敷を守る貴女の手助けをさせてください。貴女と、ティア殿を知る人を定期的に屋敷へ向かわせましょう。これは大統領としてではなく、共に戦った好としての言葉です」
「レパント……」
「私も、マクドール邸を……誇り高い家の名と、ティア殿が帰る場所を残しておきたい気持ちは同じです」
レパントがクレオの目を真っ直ぐ見詰める。
「私はマクドール家も、ティア殿も、そして今も尚彼を守る貴女のことも尊敬しているのです。このくらいさせてください」
「……ありがとう」
「私こそ、無粋なことをしてしまった。どうか許してはくれまいか」
「いや、気にしないでくれ。……レパント大統領。あの屋敷は私が守ります。だから、いつか坊ちゃんが帰るこの国を守ってほしい」
言われなくても、と間を置かずに胸を叩いたレパントに、クレオは胸の内が熱くなった。同時に、これ以上熱くなってはかなわないと、早々に踵を返すこととなった。
「ただ家に帰るだけだというのに、レパントもわざわざ側近二人を寄越すとは思わなかったよ」
クレオは肩を回すような動作をしてみせたが、一歩後ろを歩くアレンとグレンシールはただ笑って見せるだけだ。
謁見後、すぐに去ろうとしたクレオにレパントはかつての同僚とも呼べる二人を伴にした。レパント大統領の右腕と呼ばれる存在が複数人ついていれば、誰しも目立ってしまう。今やクレオより、トラン共和国の将軍の職に着いている者のほうが遥かに名が通っているだろう。肩を並べるのも少々気恥ずかしい。
「貴女への謝罪も込められているのだと思いますよ」
「我等も以降、マクドール邸には定期的にご挨拶しに伺います。勿論、大統領の命令ではありません。大統領の通達を受ければ、他の者も挙って足を運ぶでしょうね」
レパントはマクドール邸へ定期的に人を呼ぶと言っていたが、それは冗談ではなく知り合いが足繁く通う場になりそうだ。
だけど、それも良いと思えるのは。
あの屋敷は、己が一人で喪に服すように過ごすより、沢山の人の声に溢れたほうが〝らしい〟だろう。
「ああ悔しい。レパントにしてやられたな」
行き着いた答えに、クレオはつい、笑みを漏らした。思えば、こうして日の下を歩くことすら久しく行っていなかった。知り合いと雑談をすることも、それを楽しいと思うのも、いつから忘れてしまったのだろう。
あの家に囚われていたのは、己だった。
「……屋敷に帰ったら、久々に料理でもしてみるか」
「クレオ様がですか?」
「なんだい。何か問題でも?」
「いえ。懐かしい、と思っただけです」
アレンは微笑んで頷いた。
「グレミオが来てからは、台所に立つこともなかったから……」
「そんなことを聞いたら、クレオ様の料理が恋しくなりますね。なあ、グレンシール」
「アレン。その言葉は食わせろと言っているようなものだろう」
グレンシールはアレンを小突きながら咳払いをした。
「……賑やかになりそうですね」
マクドールの屋敷まであと少しというところで、グレンシールが呟く。
「ティア様もきっと喜びますよ」
「きっとね。喜ぶかは分からないけど、あの子が悲しむようなことはしないさ」
クレオは肩を竦めてみせる。
この屋敷はクレオの誇りそのものだ。
しかし、もう、この家を一人で守る必要はない。
クレオは屋敷まであと数歩というところで立ち止まった。グレンシールとアレンも合わせて足を止める。クレオは二人の顔を見詰めると、小さく笑って見せた。
そして、ゆっくりと口を開いた。
「ようこそ。そして……ただいま、私達の家」
その言葉は、暖かな日差しと柔らかな風が吹く中、静かに消えた。