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闇の中に、絵の具を一滴垂らしたようにひとつの黄金が輝く夜であった。
既に眠りに落ちているだろう兵士達を起こさぬように足音を消し、己を闇に潜ませながら、カイはトランの城を歩んでいた。眼下に望む城の入口には煌々と光が灯っている。
久々に着込んだ胴着ではない正装に、年のせいか前屈みになることが増えた背筋がシャンと伸びる心地がする。緊張感はない。己の身に沸き立つのは、ただ高揚した心だけだった。肩に担ぐ手に馴染んだ棍が酷く軽く感じるほどに。
トラン共和国の武術指南役となってからの日々は、カイにとって何不自由なく過ごすことができる穏やかなものだった。
英雄を輩出したこともあってか、トランの兵士達は誰も彼も、向上心をもってカイの精神と業を教え乞うていた。不真面目な者は皆無な上、良い太刀筋のものも少なくはない。
鍛錬に勤しむ青少年を見ているのも、決して嫌ではなかった。己はほぼ確実に彼らよりも先にこの世を去る。その後に残される若人達がああも輝かしいならば、この国の行く末に対して不安など湧きようもない。きっと、己は幸せなのだろう。
ただ、それだけでは駄目なのだ──
師と仰がれる己ではなく、武人としての心が疼く。
見込みのあるものは沢山いる。ただ、直接手合わせをしたいと思えるものは未だに現れない。
見慣れた通路を潜めて歩を進めると、カイの視界が一気に開けた。
屋根も柱もない、均等にタイルが施されている何もない空間。普段兵士達を鍛え上げている屋外にある武道場だった。灯りが既に消されているというのに、天に唯一ある月の光を浴び、白地の床面は煌々と輝いてすらいた。
カイは遠慮無く武道場へと歩み、中心で足を止めた。そして、一言。
「いるんだろう?」
「……はい、師匠」
聞き馴染みのある声が耳に届く。
柱の陰からゆらりと姿を現す様はまさに闇に溶け込んでるかのようで、カイは思わず喉を鳴らしていた。
闇に濡れた長棍を手にした弟子──ティアは、頭にバンダナを巻き、赤い衣装に身を包んだ数年前と変わらぬ姿でそこに佇んでいた。
「手紙で儂を呼び出すとは、思っても見なかったぞ」
満月が登る夜、手合わせ願いたい。
ただそれだけ書かれた差出人の分からぬ手紙がカイの元へと届いたのは、つい先日のことだった。
果たし状とも取れるその内容にそぐわぬ整った筆跡に、脳裏に一人の人物の顔が浮かんだ。そして、年甲斐もなく気分が昂ぶったことを覚えている。
「直接顔を出さなかった非礼は詫びます」
「ああ、よいよい。昼間に来られては、あいつらの修行にならんからな」
出さなかったのではなく出せなかったのだと、おおよそ想像がついた。何せ、我が弟子はトランの英雄などという大層な肩書きまで背負わされている男だ。ティアが昼間に武道場へと顔を出せば、経験の浅い兵士達は歓喜し、興奮し、挙って手合わせを乞う。一瞬のうちに伸されるかもしくは、カイ共々模擬戦をやらされ、体の良い見世物に成り下がっていただろう。
ティアがカイの元へと歩み寄る。琥珀色の瞳が月に負けじと爛々と輝いていた。
「さて、雑談はこれまで。儂らの言の葉はこれじゃない」
「……ティア・マクドール。カイ師範にお手合わせ希う」
「承った。さあ、交わそうじゃあないか」
互いに腰を落とし両の手に棍を握る。臨戦態勢を取ると、目の前の弟子は微塵も動かずにカイを見据えていた。
音すら消え失せた中、先に動いたのはティルだった。
俊敏な足取りで距離を詰めたと同時に、天牙棍を突き出す。大振りな動きではカイの動作に追いつかないと判断しての攻撃に、カイは棍で弾き起動を逸らす。攻撃の勢いを殺しながら、棍をそのままティアの片腕へと振り下ろしたが、回された棒に絡め取られ勢いを止められる。
(──さすがに、これだけで倒れる男ではあるはずもなかったな)
互いの棍が擦れ軋む鈍い音に、ティアと視線が絡む。笑っていた。そしておそらく己も深い笑みを浮かべていることだろう。
(──いい顔だ)
不意にティアが足を曲げた。体勢が崩れ空いた鳩尾に目がけ遠慮無く棍を突き出す。それを側面へと転がり避けながらカイは踏ん張っている両足を薙ぎ払うが、ティアは軽やかに飛翔した。
そのまま距離を置くように後方へと飛び退いたティアに向かい、指を曲げ近寄ってこいと挑発する。
マクドール邸にて直接指導していたときから、ティアは力の差を補うかのように俊敏性に長けていた。数年間の実地での経験を経て筋力がついてもなお、軽やかで素早い動きは変わらない。
ならばこそ。その素早さを抑え込まねば勝機は無い。
ティアが自覚しているかは不明だが、既に実力はカイと同等か、それ以上のものを身につけている。
「────ッ!」
キュ、とタイルを踏み込む音。一息の間に懐へと入ってきたティアの動きを予測していたカイが渾身の力を込めて天牙棍を地面から天へと跳ね上げた。その衝撃にティアが息を呑む。
黒塗りの棍が夜空をくるくると舞っている。手の内の武器を落とさせるために最大限の力を込めたその動きは、カイの体勢すらよろめかせた。一瞬呆然としていたかに見えたティアの目が怪しく光る。
一刀入れるためにカイが身構えるより先に、ティアは空へと身を翻していた。回っていた棍をその手に取り、その勢いのままカイの首へとそれを振り下ろす。
「……強くなったな、ティア」
寸でのところで止められた天牙混の空を切る音が耳に残っていた。
「僕は……師匠には、まだまだ適いません」
眉を潜めるティアの喉元には、同様に触れる手前で止められた棍が突き立てられている。
カイが棍を地に下ろしながら呵々大笑すると、ティアもつられて微笑した。
ふと、ティアは元々引っ込み思案な一面があったことを思い出す。それでいて、一度決めたことはやり遂げる芯のある子供。城に従事するなら真っ先に候補から外すだろう長棍を、自ら直接教えてくれと乞いに来たのはこの子が初めてだった。
「なーに言ってる。数年後は赤子の手を捻るようにお前が勝ってしまうだろうよ」
「……だから、です」
ティアはそう言うと、息を吐き出した。
「だから、今……手合わせしてもらいたかったんです」
「偉そうなことを言う。ティア、自惚れてはいかんぞ」
「え……?」
「不老の身でも人の子だ。この世にはお前より、儂より、強い者がごまんといるだろう。たとえ、数百年たってもだ。それを忘れてはいかん」
望まぬ形で不老になったことを知ったのは、ティアが解放軍のリーダーとして行動をするようになってからゆうに季節が一巡した頃のことだった。
若いリーダーを慮り、自然と将来や先の未来の話を控えるようになってしまった解放軍に、カイは無遠慮に喝を入れた。
──紙上兵に談ず!
──ティア。お前はこの戦いの果てに何を望む?
結局、その問いの返答を貰うことなくティアは解放軍を先導し、鼓舞し、赤月帝国を滅亡させた。
師と仰ぐカイを呼び捨ててまで、完璧な主になろうとした子供。
「忘れません。あの戦いも、戦いに関わった者も、師匠のことも。僕は知らないことが多すぎる。だから、何年かかっても世界をこの目で見て回ろうと思っています……その後のことは、そのときになって考えればいい」
「それは僥倖!」
言いながら、バンダナ越しにティアの頭を撫でてやる。こうすると何か物言いたげな表情でこちらを見詰めてくる癖も全く変わってはいない。
「儂の姿を覚えておけ。一番弟子よ」
そして、唯一の────
ティアの、今宵の月のように煌々とした色味を帯びた瞳が一瞬揺れた後、伏せられる。
そして一度だけ、はっきりと頷いた後、カイに背を向けその場を後にした。
──お前のように弟子にしたくなる奴は、結局現れなかったぞ。
何も言わず、柱の影に紛れて姿を消していったティアの後背を見るように、弟子との今生の別れを惜しむように、カイは月の光に照らされたまま暗く深い闇をいつまでも見詰めていた。