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百戦百勝と謳われたテオ・マクドールの大隊を打ち破ってからというもの、解放軍の士気は明らかに高まっていた。
赤月帝国随一といわれた精鋭等からもぎ取った勝利に、兵たちが沸き立ったからだった。
それが解放軍リーダーの実の父親だと知る者も知らぬ者も、帝国打倒へ続く道を、同じ熱量で受け入れた。
五将軍の半数を討ち取り、各地に散らばった帝国兵の統率も崩れている。解放軍へ寝返る兵が増えていることが、その証左だった。
高揚を抑えきれない兵たちは、北の関所を守るカシム・ハジルを討とうと気勢を上げ、マッシュがそれを制止する光景も、今や珍しくないものとなっていた。
士気が高まる今、戦を仕掛けることには利も不利もある。
まずはモラビア城周辺の状況を確認すべきだと提案したのは、マッシュだった。優位に立った時こそ基本に忠実であるべきである、足元を掬われないように情報を得よ、と。
落ち着いた軍師の声色は兵士等を諌めるには十分の効力があった。
ただ、ビクトール達は知っている。その軍師の案が、テオとの一騎打ちで深手を負ったティアを、期間を開けずに再び戦地に送り出すわけにはいかないからだということを。
赤月帝国の中でも知れた名を持つ親子の一騎打ち。
実際は物語のように綺麗なものではなく、野次を放つことも加勢をすることも躊躇うほどの覇気を纏った殺し合いだった。固唾を飲みながら一挙手一投足を見詰め、テオ・マクドールが地に伏せても尚、声をかけられないほどの死闘であった。
父を看取ったその場で、命に関わるほどの傷を負っていたティアは間を置かず、テオを抱き締めるかのように崩れ落ちた。
ビクトールは急いで肩に担ぎ上げると、軍師の「そんな乱暴に」と呟く声を無視して、足早に騎馬隊へと向かった。
足を進める度に、じわりと服が濡れていく。肩口からじっとりと染み渡っていく鉄の香。戦火の臭いだ。戦場では珍しくもない。慣れこそすれ、いつまで経っても嫌気がさす。それが仲間のものなら尚の事。
医師ではないが、肩越しに伝わる生温かさでビクトールは傷の深さを悟った。服の上から圧迫するようにきつく巻かれている布地からは呆気無く血が滲んでいる。
ビクトールは手の甲でティアの頬を軽く叩いた。
「おい、死んじゃあいないよな」
「──死ねないよ」
返事など期待していなかったビクトールは、思わず動きを止めた。
耳元で、ティアの含み笑いが小さく響く。
「死んだフリか? 冗談きついぜ」
「もう少し……静かに運んでくれないか。お陰で目が覚めたよ」
「軽口が吐けりゃあ上等だ。……おい、馬を借りるぞ。どこも負傷してない馬を頼む。手綱と鞍だけで十分だ。あと、ほれ。その棍、預かっててくれ。──絶対に無くすなよ」
片手に持っていたティアの長棍を兵士に投げ渡し、一兵卒が連れてきた馬に跨る。
軽装の馬は、男二人を乗せると小さく嘶いた。
ビクトールはティアを肩から下ろし抱き上げたまま、すぐに手綱を揺らした。堰を切ったかのように、馬が駆け出す。
次いで、蹄の音が追ってくる。振り返らずとも、顔を見ずとも、口角が上がってしまう。
「おい、俺も行くぞ!」
青いマントをはためかせたフリックが声を荒げた。
「さすが副リーダー。献身的なことで」
「冗談言ってないで走れ! 熊には勿体無いくらいの、とびきりの早馬だ。リーダーを絶対に助けるぞ。カクには船を着けてある!」
「言われなくても分かってる、さ!」
ビクトールの思いに応えるかのように、胴を叩かれた若い雄馬は強く、地を駆けていく。
周囲には焼け焦げた臭いが漂っている。オデッサが手に入れていた武器の設計図に倣い作られた火炎槍は、諸共全てを焼き尽くす凄惨な武器でもあった。本来残党がいるだろう戦地には既に人と思われるものはなく、不意打ちの攻撃を受ける心配もなく煤に塗れた地面をひたすら、目の前の湖を目指してひた走った。
至近距離では、蹄の音にかき消されることなくティアの荒い呼吸が耳に届く。
これほどの深手を負ったティアを見るのは、初めてだった。
応急処置は施されていたが止血しきれず、衣服は馬の揺れに合わせてじわりと朱に染まっていく。
「血が……」
脂汗に濡れたティアが絞るように言ったが、その視線が向いていたのは自らの身体ではなかった。
力の入らないはずの手が、ビクトールの肩口へと伸びていた。何度も何度も、肩を撫でる。触れるたび、革の手袋が血に濡れていく。
「んなもん、洗えばいい。……今は余計なこと考えずに、運ばれてろ」
別に高価な服じゃない。そもそも服なんて着れればいい。血が落ちなきゃ、新しいのを買えばいいだけだ。
「死ねたら、楽だろうね」
「楽になんかさせるもんかよ」
「それは……頼もしいな」
ティアの身体からふっと力が抜けた。
「──ティア?」
抱き上げた腕の中から、一層重さが増した身体がずるりと滑り落ちそうになる。
慌てて抱え直しながら、ビクトールは顔を覗き込んだ。
ティアの瞼は半ば閉じかけ、吐息が微かに震えていた。
「おい、しっかりしろ!」
馬上でティアの体を強く抱き寄せる。
重たい鉄の匂いが、鼻を刺す。
前を駆けるフリックが、ちらりと振り返った。
「どうした!」
「ティアの意識が無くなった!」
叫ぶと、フリックは顔を強張らせ、すぐさま隣に並びかけた。
「湖まであと少しだ! 持たせろ!」
分かっている。分かっているが──
ビクトールは、震える指でティアの頬を軽く叩いた。
「おい、目を開けろ、ティア! ここでくたばるんじゃねぇ! お前には生きる義務があるんだよ!」
応える声はない。
それでも、ひたすら前に進むしかない。
若駒が、さらに速度を上げる。
足元では、踏みしめるたびに土煙が巻き上がり、焦げた大地の名残が馬の蹄を汚した。
背後には、戦場の焦げ臭さがまだ微かに鼻孔を擽ってくる。
地を蹴る蹄の音が、今はまるで胸を打つ鼓動のように響いていた。
ビクトールはティアを抱いたまま、先を急ぐ。
死なせてやるものか。何度でも何度でも、繰り返してやる。
これが利己的で業に塗れた願いでも、まだ、この少年の生は終わらせてやれない。
胸の奥に、焦げつくような苦々しさが渦巻く。
ビクトールは若駒の背に、ぐっと体を預けた。
絶対に、死なせてやるものか。
でなければ、あいつらに顔向けできないだろ?
焦げた大地を、蹄が叩き続ける。
追いすがる死の臭いを振り切るように、目の前に迫るカクの村を目指し、二頭の馬は走っていった。