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誇り高き赤月帝国の五将軍に名を連ねるテオ・マクドールは、その肩書きに霞むことない実力を有していた。軍を率いればまるで己の手足のように誘導し、戦況を一変させる。敵と対峙すれば腰に差した剣一つで敵兵隊を言葉の通り切り開き、懺悔も聞かぬままねじ伏せていく。味方で良かったと心底感じるほどの軍人であったが、決して狂人ではなかった。常に冷静な思考を巡らせており、周囲には窺い知れぬこと先々のことまで考えている様子であった。
それでも、主の言動や行動を疑うなど、一抹すらも出でたことがない。彼の一挙一動は常に考えがあってのことだったからだ。帝国の端々で反乱分子が湧いていると聞いたときでさえ、どうしてそのようなことができるのかと、行動理由に対し疑問しか湧かなかったほどだった。
かつてこれほどまでに慕い、敬うことのできる存在はいなかっただろう。アレンとグレンシールはテオに絶対の忠誠を誓っていた。
その主が、今際の際に軍隊ごと解放軍へと下るようにと言ったのだ。
──それは、二人にとって最初で最後の、疑念が湧いた瞬間でもあった。
霞の先に見えたのは、かつて自分達の居場所があったグレッグミンスターであった。
「遂にここまで来たな」
壁のように立ちはだかるユーバーの軍隊を前にして、感情が昂ぶっていたのは己だけではなかったらしい。
「ああ……不思議だ。感慨深い気持ちになるなんて」
猛禽類の目をしたアレンを見遣り、グレンシールも僅かに口角を上げた。
戦場を彩る高揚感は兵達を煽り、かつての祖国をより良い形へと導くためにその手で作り替えるのだと実感させてくる。
「お前と肩を並べて先陣を切るのは“あの戦い”以来だな。グレンシール」
「奇遇だな。同じことを考えていた」
それは、ロッカクの里に攻め入ったときのことだった。
陰に隠れ、素早い挙動に優れ暗器で頭を仕留めてくると言う忍を主体とした集落は、諜報活動をさせるにはうってつけの存在でありながら、義がない者には助力もしない戦法とは真逆の精神を抱いた集団だった。今の帝国には手を貸すつもりはないと断言した首領に対し、テオは反乱軍の戦力となるくらいなら潰えさせるしかあるまい、と口にした。
小規模の隠れ里など捨て置けばいいのではないか、とグレンシールが進言したタイミングで、テオの嫡男、ティア・マクドールが反乱軍──もとい解放軍を率いていること、ここ数ヶ月で急激に戦力を拡大させていることを知った。反乱分子を潰すようにとしか帝国に伝え聞いていなかったグレンシールは、動揺が態度に表れぬよう努めることしかできなかった。まさか、その首謀者が血を分けた子供などと誰が予想できようか。
テオの息子であるティアのことは、アレンもグレンシールもよく知っている。テオの側近として傍にいれば屋敷に顔を出す機会も少なからずある。会話もしたこともあるし、おそらくティアも二人の存在は熟知している。
家柄の通り“父親の部下”に対しても礼儀正しい少年は、快活で表情が豊かであり、口を開けば大人顔負けの知識を披露し、師と長棍を手に鍛錬をする姿を見れば武人として筋がいいと思ってしまうほど、出来すぎた子供だった。
それでいて、不在にする父親のことを十二分に好いており、剣を教えてくれとアレンに乞うたり、土産にとグレンシールが菓子を渡せば目を輝かせてくる、不思議な存在でもあった。
──それが失われてしまったのだと知るのは、そこまで遅くはなかったが。
ティアが彼らを見詰める瞳は、見据える未来と志は、今も尚変わってはいないことを知っている。
数刻前に軍主が放った言葉を脳内で反復する。
「アレン、グレンシール。今回の戦い、貴方達の力が必要だ」
ユーバーの怪物達が門と竜の紋章の力で本来あるべき世界へと返されても尚、帝国軍の規模は計り知れないものだった。文字通り最後の砦である帝国軍の部隊は形勢が悪いと知りながらも帝国に籍を置く忠誠心の強い者たちが残っている。捨て身の覚悟で挑む者もいるだろう。
ティアに真っ直ぐと見詰められ、グレンシールは背筋が伸びる思いがした。
かつての主の血を唯一受け継いでいるこの子供は、髪の色こそ同じではあるが実年齢よりも幼い印章を受ける顔立ちと少年特有の声に、全くもって似ていないものだと思っていた。
だというのに。敬称を取り、名を呼ぶ凛とした声。グレンシールは貫かんとするそのティアの視線の先に、テオ・マクドールの面影を見た。
「かつてないほど帝国軍も規模の大きい軍隊を結成している。テオ・マクドールが率いていた鉄甲騎馬隊と竜騎兵を主軸に、帝国に休息する隙すら与えずに押し通る。それが出来るのは貴方方だ」
「軍隊の一掃ではなく?」
「兵を叩くのが主題ではない。その先にいる皇帝が首尾だ。その道を作ってもらいたい」
「それは……」
共に会議へ参加していたクレオが難色を示した。
グレッグミンスターへ乗り込みたいのなら、兵隊を諸共殲滅してしまうほうが手っ取り早い。だというのに、ティアはそれをせず、解放軍が帝都へ乗り込める程度に軍を散らせと宣っている。軍隊を分かつには、中規模の部隊を操り戦場を分断、攪乱させる必要がある。それが決して簡単ではないことを、グレンシール達よりも以前から傍で見てきたクレオは知っていたのだろう。
「クレオ。心配いらない。彼らの実力を知っているだろう? テオ将軍が率いていた軍隊をより強靭に、強固にできるのはこの二人以外にいない。僕は彼らを、彼らを信じた父親を信じたい」
ティアは笑った。次いで、二人へと視線を向ける。
「異論は?」
「ありません」
「同じく」
片膝を突き、頭を垂れる。忠誠を誓うその態度は、自然と現れたものだった。
かつての主はこう言った。
私は皇帝閣下のためだけに戦った、お前達までそれに付き合う必要は無い、と。
今の帝国が決して胸を張れるような状態ではないことを知りながら、それでもあなたがいるならば構わないとすら思っていた心境を捨て去り、同じように尊敬できる存在がいるのだと示してくれていた。
湧いた疑念を恥じながら、テオが望む以上の忠誠をティアに対して抱いている。我らの道標を指し示しながら、矢面に立つ少年の背中を幾度と見、庇護欲は尊敬の念へと移り変わった。
「ティア様の心に必ずや報いることを、この剣に誓います」
グレンシールは感情をそのまま、言の葉に乗せていた。
願わくば、彼の望む未来を共に歩めるよう。
一度だけ首を縦に振ったティアは、一抹の不安すら滲ませずに笑みを深めていた。
二人が剣を掲げると、かつてと変わらず鉄甲騎兵隊が唸りを上げた。思いは一つ。この地に蔓延る苦しみから人々を解放するために。
「ティア様のため、帝都への道は必ずこの手で拓いてみせよう」
「お前に言われなくてもそうするつもりだ。グレンシール。後れを取るなよ!」
アレンの乗った馬が前脚を上げ嘶いた。
馬の手綱を軽く引くと、一歩先を駆けるアレンに併走するべくグレンシールは敵が待つ更地の風を切り、駆けた。