陽炎の向こう側②「…」
なんだかよく寝ていた気がする。ゆっくりと目を開くと、すぐ横から声が聞こえた。
「イヌピー」
体がだるくて動かせない。頭を少し左に傾け、横目で確認すると、ココが心配そうな顔で覗き込んでいた。ぼやける視界の焦点を合わせるため、数回瞬きをする。
「やっと目ぇ覚めたのか」
安堵したのだろうか。口元が少しほころぶ。
「コ…ケホッ」
話そうとしたが、喉が詰まって上手く声が出なかった。
「しゃべんなくていいよ。先生呼んでくる」
軽い診察の後、医者が病室を出ていくと、入れ替わりにココが戻ってきた。
「大丈夫か?」
「うん」
水分を取ったら少ししゃべりやすくなったが、二日ほど寝ていたらしいので、まだ顔の筋肉が動かしづらい。
「ココ、ずっと付いててくれたのか?」
「学校もあるし、別にずっとじゃないよ。今はたまたま」
確かにココの足元にはランドセルが置いてある。時間の感覚がなかったが、どうやら夕方、学校帰りらしい。
「そっか。でも、ありがとう」
「いいって。友達だろ」
そう言って、ココは少し苦しげに笑った。
「そういえば、赤音は?」
「…赤音さんは怪我してるけど、意識もあったし大丈夫だよ」
「それならよかった」
「うん。ほんとによかった…。オレ、赤音さんが死んじゃったらどうしようって、こわくて…。助けに行こうとしたけど、止められて…」
あの時のことを思い出したのか、両手をぎゅっと握るココの目には、微かに涙が浮かんでいる。
「なあ、オレ達を助けてくれたのって誰?」
「イヌピー、覚えてないのか?」
「ほとんど…ぼんやりとしか。たぶんオレより子供だったと思う」
助けてもらったのは覚えているし、何か話したような気もするが、記憶はひどく断片的で、相手の顔や声まではよく思い出せない。
ただ、記憶に焼き付いているものもある。まっすぐな透き通った青い瞳。安心する頼もしい背中。そして、力強くあたたかい掌の感触。
右手を開き、ゆっくりと握りしめる。
「イヌピーの知り合いだと思ってた」
「え」
間の抜けた声が出た。俺の知り合い?
「だって、あの時…」
――赤音さんを家に送った後の帰り道、火事の起こっている方向に嫌な予感が走った。居ても立っても居られず、先ほど離れたばかりの家に向かって走り出した。
嫌な予感は的中した。
「中から女の子が出てきませんでしたか」
周囲で様子を見ていた住民に聞いてみるが、
「さ…さあ?」
「ちょっと見てないわね…」
誰も出てきたところを見ていない。
「救急車と消防車はよんだよ!」
すでに家は全て火に覆われており、火の勢いは増すばかりだ。
(間に合わない!赤音さん!)
家に向かって駆け出そうとした俺の腕を、誰かが掴み引き止めた。
「なんだよ!離せ」
「オレ達に任せて」
「え」
振り返ると、そこにいたのは二人の少年。俺の腕を握る黒髪の少年と、その斜め後ろに金髪の少年。
「ココ君、イヌピー君は絶対にオレ達が助けるから!」
それを聞いてハッとする。
「イヌピー…」
そうだ。イヌピーもこの中にいるんだ。なのに、俺は赤音さんのことばかり考えて、イヌピーのことなんて考えもしなかった。友達なのに。
二人が家に向かおうとする。
「あ、待って!」
この二人は俺と逆だ。中にはイヌピーしかいないと思ってる。赤音さんに気付いてない。
「二人いる。赤音さん、イヌピーのお姉さんも中にいるんだ」
「お姉さんも」
「お願い、二人を助けて…」
切実な声が漏れる。黒髪の少年が俺の肩を強く握った。
「大丈夫!必ず助けるから待ってて!」
その言葉に、張り詰めていた糸が切れ、涙が溢れた。
「急ごう!手分けするぞ」
「じゃあ、オレが二階に行くから、君は一階をお願い!」
「わかった」
二人は燃え盛る家の中へ飛び込んでいった。――
「オレが家に入ろうとしたら止められて。イヌピー君は絶対にオレ達が助けるからって。赤音さんも必ず助けるから待ってろって。オレがイヌピーの名前出す前だから、元々知ってたんだと思う。オレのこと〝ココ君〟って呼んだのも、イヌピーから話でも聞いたのかなって」
記憶を巡らすも、やはりよく思い出せない。ただ知っている奴なら、おぼろげな記憶の中でも、誰だったかぐらいは覚えていそうな気がする。
「…いや、たぶん知らないヤツだったと思うけど」
「ふーん。じゃあ、誰だったんだろうな」
「オレを助けた後、ソイツらは?」
あの火の中を探し回ってくれたのだ。火傷だってしているだろう。後から同じように救急車で運ばれた可能性もある。
「イヌピーと赤音さんを救急車に乗せた後はわからない。気が付いたらいなくなってた」
「そっか」
助けるだけ助けて、名乗りもせずに姿を消したらしい。まるでヒーローだ。
「名前も聞けてない」
「まあ、近所のヤツならそのうち会うこともあるかも」
「うん、そうだな。そんな気がする」
二度と会えない可能性だってある。だが、不思議とそうは思わなかった。必ず再び出会うような、そんな予感があった。
「お礼、言わなきゃな」
命の恩人に、俺のヒーローに、いつか会う日へ思いを馳せた。
*
入院生活や仮住まいへの引っ越しなどを経て、久しぶりの登校だ。おそらく皆、火事のことは知っているだろう。教室の前で立ち止まり、深く息を吐く。心底憂鬱な気分だが、意を決して扉を開ける。
「…おはよう」
一瞬空気が止まり、教室中の目がこちらを向く。それに気付かない振りをして、教室奥のロッカーに向かう。
荷物を置いて自分の席に着くと、それまで固まっていたクラスメイト達が、一斉に近寄ってきて俺の周りに人集りを作った。
「乾くん、大丈夫?」
「青宗ん家、火事になったって」
「必要なものあったら貸すよ」
「怪我ないか?」
「大変だったね」
方々から労りの言葉が飛んでくる。どういう反応をされるのかわからず不安だったが、皆心配してくれているようだ。
「うん、ありがとう」
軽く笑みを浮かべて感謝を述べた。
ほっと息をつくと、体から力が抜けるのを感じた。どうやらとても緊張していたらしい。
「で、どうだった?」
「え?」
一体何を聞かれているのだろうか。
「どうって何が?」
「だから火事だよ!すっげぇレアな体験じゃん!」
「…っ」驚愕に目を見開く。
「火とかスゲェ迫力なんだろ?ブオォってさ」
――眼前に広がる火の海。焼け落ちる写真。長年使った机の焼ける臭い。住み慣れた家の崩れる音。
心臓の音が大きくなり、ドクドクと脳内に響く。
「煙とかもすごいんだよね?」
――一寸先も見えない世界。息ができない。動かない体。霞んでいく意識。
呼吸が浅くなり、体を嫌な汗が流れる。
「やっぱり怖かった」
――怖かった。熱い炎が迫るに連れ、業火に焼かれる自身を想像した。独り、このまま死ぬのか。そう思ったら恐怖で全身が震えた。怖くて怖くて堪らなかった。
そんなこと聞くまでもなく、当然だろう?
「…よく、おぼえてない」
喉が乾いて声が掠れる。ともすれば震えそうになる手は、反対の手で強く握ることで無理矢理抑えつけた。
「えーそんなことないだろー」
周囲から口々に不満が漏れる。
そういうことか。如何に俺から火事についての面白い話を聞き出すか。そのために優しさの仮面を被ったのだ。自分の好奇心を満たすために。その仮面の下には、人の不幸に興奮する邪な心を隠して。
胸にどろどろした感情が渦巻いて、気持ちが悪い。
「なんだよ、もったいぶりやがって」
その瞬間、理性の糸が切れる音がした。
「覚えてねぇって言ってんだろ」
そいつの胸ぐらを掴んで締め上げる。立ち上がった拍子に倒れた椅子が激しく音を立てた。
「ぐっ…くるしっ…」
何が苦しいだ。こんなんじゃねぇ。こんなもんじゃねぇんだ。死を覚悟するほどの苦しみだぞ。
頭には血がのぼり、腹の底からはふつふつと熱いものが込み上げてくる。言ってやりたいことは山程あるのに、口はわななくばかりだ。
「イヌピー!やめろ!」
割って入ったココが、拳を構えた俺の左手を掴む。
「離せよ、ココ」
「殴ったって何にもならないだろ!イヌピーが損するだけだ!」
きつく睨みつけるが、ココも真っ向からこちらを見返し、引く様子はない。
「…っ」
諦めて拳を解く。腕から力が抜けたのがわかったのか、ココも掴む力を緩めた。その手を軽く振り払う。
周りを見ると、怯えたような、苛立ったような、変なものを見るような、いろんな目が俺に向いていた。
俺が悪いのか?俺がおかしいのだろうか?傷を抉られたうえにイカれた奴扱い。なんだか可笑しくて笑いが漏れた。あんなに燃えるようだったのに、一気に全身から熱が失われ、心が冷え切っていくようだ。
「テメェらもそんなに知りてぇなら、自分ん家燃やしてみりゃどうだ?そうすりゃ、そんな面白がるようなこと言えねぇだろうよ」
口元には笑みをたたえたまま、射殺すような視線を向けてやると、教室は静まり返った。
息を呑むような静けさの中、ガラッと教室の扉が開くと、担任の教師が入ってきた。
「どうした?皆集まって。座れ座れ」
先生がそう言うと、気まずい空気だけを残しながら、俺の周りの群集は各自の席へと散っていった。そんな中一人動かずにいると、同じようにその場に留まっていたココが口を開いた。
「先生」
「なんだ九井?」
「イヌピー、気分が悪いみたいだから、保健室連れてっていい?」
その言葉に驚いて、ココを見る。
「おお、そうなのか。色々大変だったしな。無理はしなくていい。大丈夫か、乾?」
やはり担任として事情はよく聞いているのだろう。その声には正しく思いやりが乗っていた。
「…はい」
「そうか。じゃあ九井、保健室に連れてってやれ」
「はい」
教室を出て、二人並んで歩く。
「…悪い」
「いいよ、気にすんな。気分悪いのも本当だろ。汗すごいし、手震えてた」
「気付いてたのか」
「うん。アイツら知らないからって勝手なこと言うよな。見てただけのオレでも、あんなに怖かったってのに。イヌピーが言わなかったらオレが言ってたよ!」
ココが励ますように明るい口調で言う。
「でも、殴るのはダメだし、最後のは言い過ぎかもな」
労りながらも、窘めてくれる。そんなココの気遣いが、荒んだ心を落ち着かせてくれたからだろうか。反省の気持ちが湧いてきた。最後は確かに言い過ぎたかもしれない。あの苦しさを経験した自分だからこそ、あんなことは言うべきではなかった。
「そうだな。ありがとう、ココ」
だが、この日以降、俺はクラスメイトから孤立していった。
*