陽炎の向こう側① 遠くで誰かの声が聞こえる。
(ここはどこだ…)
つぶやいたつもりだったが、それは音にならなかった。
周りを見渡そうとしても、身体が言うことをきかない。諦めて見える範囲から状況を判断しようとするも、元々薄暗いのだろう部屋は、全体に靄がかかったようで数センチ先ですらよく見えない。
感じるのは座る床の冷たさと、預けた背に触れるガラスの感触、カビた空気に混ざるオイルの臭い。そして、顔や体中に走る軋むような痛みと口内に広がる血の味。
何から何まで不快な要素だらけのはずが、妙に懐かしく心地良い。
声が聞こえる。
「――……すか?」
何を言っているかはわからない。ただ、自分の鼓動がドクリと大きく打つのを感じた。
胸に熱い炎が灯ったようで、思わず伸ばそうとした手は、今度は意志の通りに動いた。
その手を、目の前に立つ誰かの手が力強く掴む。
俺は口を開いた。
「この命、オマエに預ける」
また同じ夢。物心がついた頃から何十回何百回と見た夢だ。何度見たって欠片も変わらない。靄が晴れることはないし、相手の言葉がはっきり聞こえることもない。そして、あの心の昂りも消えることはなかった。
過去の記憶であるわけはない。伸ばした手は今よりも大きく、自分の喉から発せられた声は低かった。
「なら、未来なんじゃない?」
「真剣に聞いてないだろ、ココ」
「そんなことないって」
俺、乾青宗と同じくランドセルを背負った少年、幼馴染のココこと九井一が呆れたように笑う。実際この話をココにするのも何度目かわからない。幾度聞かされても内容は代わり映えせず、同じ問答の繰り返しなのだから呆れもするだろう。
「オレは超能力者じゃない」
「じゃあ、ただの夢だ」
「…どうしてもそうは思えないんだよな」
あの夢で感じる臭いも味も痛みも、未だ現実では経験したことのないものばかりなのに、全ての感覚があまりにリアルで、何度見ても途中から夢であることを忘れてしまう。そして、遠く聞こえるあの声に引かれて、いつも手を伸ばしてしまうのだ。握られた掌の熱さがそいつの存在を力強く主張してくる。なんとなく、あれが幻影だとは考えたくなかった。
「ココは見てないからわからないんだ」
「そりゃあ、イヌピーの夢だしさ。んじゃ、またなー」
ココは大して気に留めた様子もなく、あっさりと帰っていく。結局今回も理解を得られなかった。
*
今日もココと一緒に学校から帰っていると、後ろから俺の五歳上の姉である乾赤音が声を掛けてきた。
図書館に行こうと誘われるが、眠いし本に興味もなかったから、二人と別れ、一人先に帰ることにする。
ココは赤音のことが好きだ。それを赤音の弟である俺にも隠そうとはしない。自分の姉相手に頬を染め、意識して普段しないような言動を取る親友をそばで見ているのは、なんとも気恥ずかしく居心地が悪い。
家に帰り、二階の自室に向かう。ランドセルを置き、そのままベッドに身を預けた。宿題もあるが、今はとにかく眠くて仕方がない。このまま勉強したとして、欠片も頭は働かないだろう。これは効率良く勉強するために必要な仮眠なのだ。誰に言うわけでもない言い訳を頭の中で並べながら、俺は深い眠りに落ちていった。
「…ん」
どのくらい眠っていたのだろう。変な時間に寝たせいか、全身寝汗が酷く、その不快感で目が覚めた。服が体にべったりと張り付いている。
「なんか、あつ…」
目を擦り、緩慢な動きでベッドを抜け出す。水でも飲みに行こうかとドアを開くと、
そこは火の海だった。
「……え、何?なんで火が」
慌ててドアを閉める。一体何が起きてる?
よく見ると、窓の外にも火の手が回っている。この部屋は二階だからまだ無事だが、火はすでに一階から階段を超えて、部屋の前にまで迫っていた。
ドアの外も窓の外も火に囲まれている。どうするべきか必死に頭を回すも、とうとう部屋のドアに火が燃え移ったようだった。木製の扉に火はどんどん燃え広がり、赤い炎が部屋の出口を塞いでしまった。徐々に火の手と白煙が迫る中、じりじりと部屋の奥に後退するしかなくなり、逃げ場を失っていく。
(どうしたらいい)
火まではまだ少し距離があるものの、部屋に充満する煙に視界を遮られ、自分の立ち位置すら把握できなくなってきた。
「クソ!」
苛立ちに任せ言葉を吐き捨てた瞬間、反射で吸い込んだ煙が喉を刺し、大きく咽せた。
「ケホッ…ゴホゴホッ…」
慌てて右腕で口元を抑える。煙は目をも刺激し、じわりと涙が滲んだ。
家具を伝って火が迫る。逃げなきゃ、ここから出なきゃ助からないのはわかっているのに、体は震え縮こまるばかりで動くことができない。周囲を煙に覆われる中、満足に呼吸ができず息苦しさが襲う。なんとか酸素を取り入れようとするが上手くいかない。焦りから速度を上げる鼓動が、さらに息苦しさを加速させた。
足腰から力が抜け、思わず床にへたり込む。
(意識を保て…!助けを待つんだ)
霞がかる頭の中で、自らに発破を掛け、意識を手放さないようなんとかギリギリで踏み留まるが、それも限界が近かった。
口を開く力もなく、吐息のように言葉が漏れる。
「だれ…か、たすけ…。しに、たくな…い」
かろうじて薄く開いていた目から涙が零れた。瞼が重くなるのに任せ、ゆっくりと閉じる。
その時、
ガタッ、バターン。
「イヌピー君!赤音さん!いたら返事してください」
突然聞こえてきた声の主がドアを開けた勢いで、少し室内の煙が動く。それでもその姿はよく見えない。しかし、確かに人影のようなものが見える気がする。失いかけていた意識を必死に繋ぎ止め、気力を振り絞って声を発した。
「こ、こだ…!ここに、いる…」
精一杯の力で上げた小さな声は酷く掠れ、燃え上がる炎の轟音に掻き消される。だめだ、こんな声じゃ届かない。だが、もうこれ以上体を動かすことはできそうになかった。意識が朦朧とし、完全に力が抜ける。
その腕をあたたかいものが掴んだ。
「よかった!見つけた!」
そこにいたのは俺よりも幼いであろう黒髪の少年。
「もう大丈夫っスよ、イヌピー君。オレが絶対に助けます」
正面からまっすぐに俺の瞳を見据える。こんな絶望的な状況の中、そいつは不敵に笑っていた。
力強く輝く、その青い瞳に捕らわれる。
俺はこの笑顔を知っている。いつだったか、誰かに同じことを言われたことがある。その時のそいつもこんな顔で笑っていた。この笑顔を見ると、心強くて安心できた。どれだけ絶望的でも、こいつが戦っているなら、諦めないなら、俺達はまだ大丈夫だと心が奮い立つ。
今だってそうだ。
「…たのむ…オレをたすけてくれ…!」
「もちろんです」
掴んだ手が、諦念に沈みかけた俺の気持ちごと引っ張り上げる。不思議だ。あんなに動かなかった体が、僅かとはいえ動かせるようになった。
「イヌピー君、乗ってください!」
屈んだまま背を向けたそいつの肩に腕を掛け、その背に体を預ける。俺よりも幾分小さいその体で、俺を背負って立ち上がる。その感覚にもまた覚えがある気がする。
「火の中を走り抜けます。熱いだろうけど、耐えてください」
「…ああ」
そいつは助走をつけて、勢いよく部屋を飛び出した。そのまま迷いなく階段を駆け降り、一階にたどり着く。俺は振り落とされないようしがみつくのに必死で、体に触れる炎に構っている余裕はなかった。
奥を見遣ると、やはり一階は二階よりも早く火に覆われたらしく、壁や家具が黒く焼け落ちていた。
「あと少しです!」
ラストスパートとばかりに、「おおおぉぉ」と雄叫びをあげ、炎を突き破りながら玄関までを一気に駆け抜けた。
「抜けたー」
ドスッ。
さすがに限界を超えていたのか、走った勢いのまま転んでしまう。その拍子に離れた俺の体も、地面に強かに打ち付けられた。
「ぐっ…」
「タケミっち」
金髪の小柄な少年がこちらに駆け寄ってくる。
「…マイキー君」
「大丈夫か?」
「オレは大丈夫。それよりイヌピー君を…だいぶ煙吸っちゃってるみたい」
「わかった」
マイキーと呼ばれた少年は、倒れ込んだ俺を地面から引き起こし、そのまま自分の背に担ぎ上げる。もう一パーセントだって力は入らなかった。されるがまま、マイキーに身を任せる。
「マイキー君、赤音さんは?」
突如出た赤音の名前に心臓が跳ねる。赤音も帰っていたのか?自分のことだけで精一杯で、赤音がいるかもしれないなんて欠片も考えられなかった。今見える範囲に赤音の姿はない。無事でいるのだろうか。
「一階で見つけた。軽い火傷は負ってるけど無事だ」
「よかった」
それを聞いてほっと息をつく。どうやら赤音はこのマイキーという少年が助けてくれたらしい。
「もうすぐ救急車が来るから二人を乗せるぞ」
「うん」
少し歩いたところで、地面に座り込み泣く赤音と、そのそばに寄り添うココの姿が見えた。
「…よかった…」
悪夢は終わったのか。そう安心した途端、一気に睡魔が襲ってきた。甲高い救急車のサイレンが近付いてくるのを聞きながら、俺は意識を手放した。
*