煙草
ある日荒船が諏訪の家に遊びに行くと、卓袱台に焦げた跡があった。
それからというもの、その跡に苛まれている。
冬の時期には炬燵にもなる諏訪家の四角い卓袱台は天板と足が白い。だからその中央に近い所にある黒と茶色の焦げ跡と思わしきそれは、例え机の上にごちゃごちゃと物が置いてあったとしても結構な割合で目についた。半年前に荒船が初めてこの席に座った時には無かったはずなので、この家に上がるようになってからそのXデーまでの間に灰皿から灰がこぼれたとか、手に持っていた煙草が知らぬ間に短くなったとか、それに似たような出来事が起こったのだろう。
それからと云うもの、何をしていようがその席に座ってその焦げ跡を見るたびに、犯人は誰だろうと考えるのがもう習慣になっている。
焦げ跡を作る一番の容疑者は、トリオン体に換装した時ですら煙草に模した装備品を手放さない程の愛煙家で、この家の家主である諏訪自身だ。けれども、諏訪の家に出入りする人間は多い。
荒船は半年前から晴れて諏訪の彼氏になったのだが、この部屋の訪問歴から言えばまだまだ若輩者と言わざるえなかった。日ごろから頻度の高いこの部屋の訪問者で、マル被(被疑者)として可能性が高い人物として上げられる諏訪隊の隊員に、風間、木場、寺島は荒船の知る限り喫煙者ではない。それならばボーダーの繋がりとして諏訪の麻雀仲間である、東、冬島、太刀川の面々の落とし物であるとも考えられる。 だが下の者から慕われ、求心力も強い東や冬島の失態を決めつけるには、この痕跡ひとつで決定するには証拠の面からも材料が弱すぎる。いくら何でも言いがかりとしか言えないだろう。
それから想像されるのは、ボーダーとは無関係の大学の研究室の学友となるのだが、本件の被疑者として列挙するにはあまりにも情報がなく、その癖当てはまりそうな人間が多すぎてまるで絞れそうになかった。
なにしろ諏訪は色々な所で顔が広く、荒船とは無関係で、おそらくこの先だって一度も会わない人間関係もまた存在した。そうなれば、犯人の目星など付けようもなく、焦げ跡を付けた犯人の探求は迷宮入りなのだ。
諏訪の持っている友好関係を全て完璧に抑えられない限り、この事件(ではない)に光が差し、答えが得られないという事については荒船も初めから分かっていた。
それでも荒船はこの席に腰を下ろし、何かの折に諏訪が席を立ちあがったタイミングでぼんやりとしていると、決まってこの推理を始めてしまう。いったい何人がこの部屋を訪れ、諏訪との時間を過ごしたのだろう。等と考え始めると腹の底でざわざわする違和感が止まらない。焦げ跡だって見つけた時に聞いてしまえばこんなに何週間ももやもやしないで済んだのだ。
けれどそれは出来なかった。
その一番の理由は、それを聞けば荒船は少しだけ腹が立つとわかっているからだ。こうやってちっぽけで矮小な謎をぐるぐるとこねくり回している方が、まだマシだと思ってしまう程度には、諏訪に腹を立てるだろうと分かっていた。
それから容疑者が多すぎるのも問題の一つといって良かった。
諏訪の家は1DKでトイレ風呂別という学生ならよくあるワンルームだが、古いつくりで間取りが少し大きいせいか窮屈な印象がない本と煙草の年代を感じる喫茶店のようなほんのりと甘い匂いがしみついたこの部屋は確かに魅力的で人が集まるのも理解できる。だがそれでも納得するのは別の話だ。
荒船が早上がりの任務でこの部屋のドアを開けたとき、一体何度見知ったり見知らなかったりする人間が「おつかれさま」と気安い調子で荒船をねぎらった事か。
ある時などはレポート提出を労って、豪勢にちょっとだけいい肉を届けようとドアを開ければ、中ではすっかり宴会が始まっており、半分ハイで半裸の男どもを足蹴にしつつ足元を掻き分けて出てきたとしたたか酔っ払った諏訪が機嫌よさそうに出てきた時など、まだまだティーンの荒船の心は動揺と共に揺れに揺れた。荒船自身も穂刈を始め、村上や影浦などなど仲の良いメンバーで集まる事はいくらでもあるし、その件について諏訪がどうこうとケチを付けたり拗ねて見せた事など当然ながら一度もない。
そもそもそのせいで間違えが起こることも考えられない。
でも、それでも、なのである。
それはそれだが、これはそういう訳には行かない。それが若さなのだから。
要するにそれは子供っぽい嫉妬に他ならなかった。
「荒船って今日泊ってく?」
ぼんやりと悶々としていた荒船は急に声を掛けられて浮遊していた魂が体にすぽんと収まった。
「あ、あぁ諏訪さんが良ければ」
「了解、ちゃんと家連絡しとけよ。風呂入るときタオルこれ」
学生とボーダー隊員を兼任している身としては、週末をまったりとふたりで過ごすというのはなかなか実現しないもので、泊まりはするけれども明日はふたりともシフトが前後して防衛任務が入っている。諏訪のほうが朝一の任務となれば、翌日に疲れを残すのもままならないのでそういう晩は思いっきり盛り上がる訳にも行かず、それでもまぁまぁ楽しむ訳だがそんなこんなで別の意味でそわそわしながら、「はーい」等と既に連絡済みの用件にだっていい返事をしながらタオルに手を伸ばす。
伸ばしたついでにタオルを持っている手を掴むと、諏訪が表情をくしゃりと柔らかくしながら荒船の隣に腰を下ろしたので荒船はやっと楽しい週末の予感を覚えた。体を寄せて首を傾けると、すっかり慣れたお互いの距離に臆する事もなく口を寄せて唇を啄む。
何度かそんな事を繰り返して離れると、諏訪は「なんだよ」と照れるのを誤魔化すみたいに言って、また荒船の上唇に歯を立てたので、荒船は諏訪の肩を抱いてもっと体を寄せると誘うようにひらいた口の中に舌を差し込み諏訪の舌に絡ませた。息を奪うように絡め、最中を思わせるように唇は歯を使って扱いた後に、荒船の咥内に諏訪の無味で少し甘い唾液が混ざった。
諏訪のキスが苦かったのは初めだけだ。
その後何度か繰り返すうちに諏訪の部屋から灰皿が無くなり、同時に諏訪の口は甘くなった。
荒船が焦げ跡の話をできないのはそのせいだ。
荒船の知らない所で諏訪は誰かと飲み食いしながら煙草を今も喫んでいるのかと、そんな些細で矮小で幼稚な嫉妬を言葉にするのは、諏訪の荒船への気遣いを無駄にするようで、己の器の小ささを暴露するようで、荒船には出来なかった。呼吸をするために喘ぐように喉を反らせた諏訪の口を、尚も塞ごうとする荒船に諏訪はとうとう吹き出した。
「なんだよお前、なんかあった? 」
笑いながらも慰めるような言い方をする諏訪は、荒船にはどうしようもないくらい大人びて見えた。
「また煙草吸えばいいのに」
まるで言いがかりみたいなセリフしか出てこない荒船にだって、諏訪は「へえ」と感心したように言っただけで、今度は自分から荒船の体を引き寄せてお気に入りの毛足の柔らかいラグに転がった。
「シワ寄せて何考えてるのかと思ってたよ」
そういうとねっとりと荒船の唇を吸いながら、焦がしたのはオレだよ。と囁いた。
終わり