漣ジュンと付き合う方法「おはよう! 今日もいい日和だね♪」
コズプロの事務所に、芯の通った大きな声が響き渡った。「おはようございます」と事務所スタッフから声がかかる中を声の主、巴日和さまは優雅に歩き進む。
「おはようございます!」
続いて濃紺の髪を揺らした彼が現れた途端、私の周りは薫風が吹き抜けたように爽やかな空気に包まれた。それと同時に鼓動は馬鹿みたいに高鳴る。
彼──私の最推し、漣ジュンくんである。
「ちょっとぉ、おひいさん。ちっとは自分で持てっての!」
「んもぉ、煩いジュンくんだね! 持てばいいんでしょ!」
日和さまはジュンくんの手から一部の紙袋を取り上げると、すぐ近くにいた私に手渡す。
「はい。北海道のお土産のチョコレートだね。みんなで分けて食べるといいね!」
「ありがとうございます! 何か飲み物淹れてきますけど、ひよ……巴さんは何を飲まれますか?」
「んー、ジュンくんの淹れた紅茶、と言いたいところだけど、休憩スペースの珈琲で我慢するね」
「はい! ……えっとジュ……漣さんは?」
「オレは……、決められないんで一緒に行きます」
「ええっっ!!」
うそっ! そんなラッキーなことがあっていいの!?
「さあ、行きましょう」
ジュンくんはさっさと休憩スペースへ向かって行く。私はいただいたチョコレートを近くの後輩に配って貰うようにお願いしてから、慌ててジュンくんの後を追いかけた。
隣に並ぶのは烏滸がましくて少し後ろを歩く。鍛えてるだけあってガッチリした肩とか、歩く度揺れるツンツンした髪の毛。そんなファン垂涎ものの後ろ姿にうっとりと見蕩れながら……。
こんな変態じみた顔をジュンくんに見られる訳にはいかないから、休憩スペースに到着してからはさすがに表情を引き締めた。
「ええと今いるスタッフは七人、それからEveのお二人だから……」
私はトレーを取って無料の珈琲サーバーのものを持っていこうと準備していたけど、ジュンくんは自販機の前に立った。
「色々買って選んでもらえばいっすよね」
珈琲や紅茶、それぞれ微糖とストレートのものを幾つか選ぶ。今は離席しているスタッフの分まで含め、ジュンくんが自分のリッドルで支払ってくれた。
「おひいさんは……、チョコレートと飲むならストレートティーですかねぇ」
それからジュンくんは私のほうを見て微笑む。
「どれがいいですか?」
「あ、あのじゃあミルクティーで」
ジュンくんは屈んで取り出し口からミルクティーを取ると、爽やかな笑顔付きで私に渡してくれた。
「どうぞ」
「あ、ありがとうございます!」
絶っっっ対飲みません! 家宝にします!
そう叫びたいのをぐっと堪えた。
「漣さんはどれにしたんですか?」
「オレは余ったやつでいいっすよ。強いて言うならおひいさんとは別のものですかね。あの人、途中で飽きて違うもの飲みたくなったりするんで……っよいしょ」
私は自分の分だけを持って、ジュンくんは運ぶためのカゴを使って残りを全部持ってくれた。
「重いですよ、半分持ちます」
「大丈夫ですよぉ、筋トレに丁度いいっす」
本当に十八歳なの? もう、さっきからいい男すぎる!
「漣さんはすごいですね」
「何がです?」
「気遣いとかスマートで」
「そんなことないっすよ。おひいさんにはよく『気が利かないね!』とか言われてますし。まあそもそも、何でもオレがやって当たり前〜と思ってるのがおかしいんすけどね」
ジュンくんは「困った人ですよねぇ?」と苦笑いする。
「た、大変ですね……?」
「いや、それもオレだからこそ甘えてんのかなって思えば仕方ねぇかって感じだし……。あんな人ですけどオレ以外には気遣いの人なんすよ」
でた……、ジュンくんのけなしてるんだか、持ち上げてるんだか、惚気けてるんだか分からないおひいさん話。うーん、生で聴けて幸せだ〜。
オフィスに戻って皆にドリンクを配りながらジュンくんの様子を窺うと、日和さまにストレートティーを渡している。日和さまがにっこり笑って受け取る様子を見れば、ジュンくんのチョイスが正解だったことが分かった。ジュンくんは……ミルクティー、私と一緒だ! なんて、きっと偶然。残っているものがミルクティーが一番多かったからだと思う。
「ジュンくん、ぼくもミルクティーが飲みたいね」
「はぁ? あんたさっきはストレートがいいって……」
「ジュンくんが飲んでるの見たらの飲みたくなったんだね」
「……仕方ねぇなぁ」
なんてやり取りをして、日和さまとジュンくんは飲みかけを交換していた。Eveは本当にプライベートでも仲良しなんだな……。あ〜推したち可愛くて尊い!
そう、『推し』──ただ眺めて応援するだけで幸せになれる相手。日和さまもジュンくんもどちらも推しなんだけど、私はジュンくんの内面を知るたびに『推し』の範疇を超えてどんどん好きになってしまった。
事務所のアイドルをそんな目で見るなんてご法度。恋心なんて抱くことすら許されないって分かってる。それに私はジュンくんより九つも歳上。容姿も贔屓目に見て並、どう考えても不釣り合い。……なのになのに、ジュンくんがジュンくんが、格好良すぎるんだよーー!!
ただテレビ画面越しに観るアイドルを応援するだけなら、『もし彼と付き合えたら……』なんて淡く妄想もするかもしれない。でもこうして直に会えてしまうと、普通は多少なりとも粗が見えて『アイドルも人間だよね』なんてガッカリすることのひとつもあるものだろう。だけどジュンくんのことは人間性を知るたびに好きになる。裏表なく、ほんっとうにいい子なんだよーー!!
こんなに好青年のジュンくんが本気で怒ることってあるのかな? それってどういうときなんだろう。
そんなわけでジュンくんへの想いをひっそりと募らせる私。近くで彼を見ているからこそ気づけたこと、それと数少ない恋愛経験と、ドラマや漫画で培った恋愛王道パターンを照らし合わせて見つけてしまった。
──漣ジュンくんと付き合える方法。
それはシンプルでいて難しい。
“巴日和さまに気に入られること”だ。
日和さまに気に入られて彼の口から、「あの子いいよね」なんて私を褒めるようなことを言ってもらえたら……。おそらく心の底では日和さまを信頼しているジュンくんのことだ。
ジュンくんは私のことが気になるに違いない!
そのことに気づいて以来、私はさりげなく日和さまの近くにいる。彼の様子を窺い、彼のタイミングで飲み物を淹れたり、室温を調節したり、さりげなく彼の過ごしやすいように環境を整える。といっても事務所にいる間くらいだから大したことはできないけど。でも作戦は成功していたみたいだ。
ある日、日和さまに膝掛けを届けると声をかけられた。
「きみ……、いつもありがとうね。お名前は?」
「あの、私っ……」
首から下げた社員証を見せながら名乗ろうとした時だ。
「おひいさん! 時間ですよ」
ジュンくんが被せるように間に入ってきた。
「はいはい、行こうかジュンくん。膝掛けありがとう。じゃあまたね」
「はいぃぃ……」
日和さまは手をヒラヒラさせて爽やかに去っていった。
「……あの、」
ジュンくんはまだ目の前にいて、首の後ろに手をやって少し俯いている。やがて顔を上げると私を見た。予想もしなかった鋭い双眸に心臓が縮み上がった。
え……??
「あんた……、あの人のこと狙ってるんすか?」
「あの、人? 巴さんのことですか?」
「はい」
ちょ、ちょっと待って、待って、これって嫉妬?? ジュンくん私が日和さまを好きだと思っちゃったの!?
「ち、違います!」
「……そうすか。ならいいんすけど。……あの人はやめたほうがいいっすよ」
「えと……」
「きっとあんた泣くことになると思うんで」
どういうことだろう。日和さまは夢ノ咲にいた頃、“沢山の女の子と遊んでいた”なんて噂もあったみたいだから私が弄ばれて泣くことになるって、そういう意味?
「違うんだったら余計なこと言ってすみませんでした」
ジュンくんはぺこりと頭を下げると日和さまの後を追っていった。
ジュンくん、もしかして私のこと……?
いやいやいや……そんなの甘ったれた妄想だって分かってる。だけどお願い少しだけ浸らせて……。
「あっ!」
ソファに置かれた膝掛けを持ち上げると、その下に巴さんの物らしいハンカチが落ちていた。ハンカチを拾い廊下を走って二人を追いかけた。
「あのっ……!」
私の声は聞こえなかったようで、Eveの二人は応接室へ入って行った。来訪者の到着がまだなら渡せる。私は弾んだ息を少し落ち着かせて、髪も服も軽く整えた。
応接室をノックしようとして手が止まる。少し開いたままのドアの向こうから、ジュンくんの尖った声が聞こえたからだ。
「……ああいうの、やめてくださいよ」
「ふふ、何のこと?」
「本当にあの人のこと気に入ってるなら別ですけど、わざとオレに見せて妬かせようとしてたでしょうが」
えっ? それって……。
「バレてた? もしぼくが本当にあの子を気に入ってるって言ったらジュンくんどうする?」
「……許せねぇっすね。オレのもんだって分かってます?」
ええっっ!! じゅ、ジュンくん本当に?? 私のことす、好きなの??
私の心臓はもう口から飛び出るんじゃないかってレベルで、ドキドキしている。
少しドアに顔を近づけて、隙間から中を覗く。ジュンくんはドアに背を向けていて表情は分からない。日和さまの美しい微笑みだけが見えた。
「……あんたは、オレのことだけ見てればいいんすよ」
???
『あんた』って? 今の『あんた』は日和さまのこと……?
「もちろんジュンくんしか見てないね」
???
頭の中はクエスチョンマークで埋め尽くされる。
「……本当に?」
「本当だね。だからあの子がきみに向ける好意にも気づいたね」
「オレ……? まさかぁ」
「んもぉ、本当にニブチンだね、ジュンくんは!」
「えぇ? でも誰が何を言おうと、オレにはあんただけですから」
「……うん、知ってるね。ねぇジュンくん、キスして」
「もうお客さん来るかも……んッ」
ドアのほうを振り返ろうとしたジュンくんの顔を掴まえて、日和さまがキスをする。
な、な、なに、何が起こってるの!?
私の推しが、私の推しと、チュッて? キスしてる!?
鼻の下にタラっと温かいものが垂れてきた。咄嗟に手に持っていたハンカチで押さえる。
「!!!」
鼻血! マズイ、日和さまのハンカチで鼻血拭いちゃったよぉ……。どうしよう。
鼻血を押さえながらも二人のキスシーンから目が離せない。
重なり合った二人の顔。ジュンくんの後頭部の向こうから日和さまの片目が見える。その目とバッチリ目が合ってしまった。
に、“にげる”? “たたかう”?
動揺した頭の中で二つのコマンドがチカチカしている。
日和さまはバチンと長い睫毛を伏せてウィンクを寄越した。ウィンク一つで私のHPは殆どゼロ。
もう、選択肢は“にげる”一択だ。
……ん? ちょっと待って。これって……もしかして全部日和さまの手のひらの上だったりする?
さすがは巴日和さま! 『ジュンくんに近づく害虫』こと私を駆除するために見せつけたってことね。アイドルのくせになんてデンジャラスな牽制……。それだけ真剣な関係なんだろうけど、日和さまやるなぁ……。
もういいや、失恋したけど推しと推しが幸せなら何も言うことないよ。世間とか、アイドルだとかそんなのどうでもいい。私はずうっとあなたたちEveを推し続けるから! どうか末永く幸せでいてね!
……だからハンカチの一枚くらい、思い出にくださいね。
私は親指を立てて、ドアの隙間から二人に向かってエールを送る。日和さまからは見えたみたいで、吹き出す声が聴こえた。私は鼻血の付いたハンカチを握りしめるとヨタヨタと歩き出した。