旅立ち前夜 夜の静寂の中に目覚めると、胸がキュッと苦しくなることがある。自分はこの世にたった一人で、誰の声も聴こえず、目も見えないのではないかと。
ジュンの鼓動は速まり、おかげでまだ自分の命がここに在ることを知る。
……トクットクッ……
少しして自分のものとは違う心音が伝わってきた。その頃には暗闇にも慣れて、鼻先にある柔い髪と腕の中の温かい身体に気がつく。
何よりも、自分よりも、大切ないのち。
そんなことを本気で思っているなんて知ったら、腕の中の恋人――日和は喜ぶどころか、「もっと自分を大切にするんだね!」と怒るだろうけど。
身じろぐジュンに起こされたのか、日和が寝返りを打ちジュンの方を向いた。睡魔に抗い瞼を持ち上げようとする様子が愛おしくて、瞼にそっとキスをする。
「……ねむれないの……?」
日和はたどたどしく言って、あやすようにジュンの背中に腕を回した。
「いえ、」
冷えた背中は日和の熱を受け取って、身体中にじわじわと温かい気持ちを広げていった。
大きく息を吸い込むようにして、ジュンは日和の髪の匂いを胸に取り込む。スンッと鼻を鳴らす音がふたつ重なった。
「ふふっ……」
日和の方も同じタイミングでジュンの鎖骨の辺りを嗅いでいたみたいだ。
「ははっ……」
しんとした暗闇の中で、二人の小さく笑う声が空気を震わせる。甘く、優しく、そして寂しげに。
ずっとこうしていたいけれど、朝はあと数時間でやってくるから、ジュンはさざめきに終止符を打つ。
「……おひいさんオレ……、行ってきます」
ジュンの背中を撫でていた手が一瞬動きを止めて、それから力が込められた。
「じゅんくん、あいしてるね……」
ジュンは胸がギュウッと苦しくなる。
『あいしてる』
これ以上のエールがあるものか。信頼も寂しさも言葉通りの愛も、このひと言がすべてを表している。
「……ッ」
滲んできた涙を零さないように目を閉じた。
普段は照れくさくてジュンからはなかなか言えないけれど、ジュンもこの言葉にすべての思いを託して。
「……愛してます、おひいさん」
「……知ってるね……」
日和が胸元に顔を擦りつける。小刻みに震えていることには触れず、ジュンはよりきつく目を閉じて日和を抱きしめた。
「おひいさんっ……」
愛しい人の温もりを感じるだけで、心音を聴いているだけで幸せで泣きたくなる。そんな感情は全部日和が教えてくれた。離れる寂しさも同時に知ってしまったけれど、きっと大丈夫。
「さぁ、もう少し眠りましょう」
旅立ちの朝まであと数時間、心音を重ねてもう少しだけ一緒に眠ろう。