雨にもまけず「ん……」
心地よい微睡みの中、意識の覚醒を促したのは窓ガラスを叩く雨音だった。目を閉じたまま隣にいるはずの彼を手探りで探しても、あの必要以上に筋肉のついた身体には触れられなかった。
「……ジュンくん?」
ああ、酷い掠れ声。雨音にもかき消されてしまいそう。嫌になってしまうね!
何度か瞬きをして、気怠い身体をゆっくりと起こした。
寝室のドアを開ければ、漂ってきたのは美味しそうなスープの香り。本当はお弁当を持って公園に行きたかったんだけれど残念。まだ身体も怠いし、ゆっくりと家でブランチを楽しむのもいいかもしれないね。
洗面所ではゴトゴト揺れる洗濯機が、眠る前に替えたシーツを乾かしているところだった。
『……おひいさん、ね、もう一回いいですか……?』
『おひいさんっ……かわいい……』
ジュンくんの甘く切なげな声と表情が脳内で再生される。そう、昨夜のジュンくんは目いっぱいぼくのことを……。
「わーー、だめだめ!」
火照ってくる身体を宥めながら、洗顔と歯磨きを済ませた。
「おは……」
リビングのドアを開け、声をかけようとして躊躇う。ジュンくんはカーテンを開けた窓辺に立って、雨に濡れた街を見下ろしていた。憂いを帯びた横顔も綺麗だね、なんて思わず見蕩れてしまう。だけどせっかく二人揃ってのオフだというのに、どうしてそんなお顔しているの?
「はぁ…………」
ジュンくんの長いため息が窓ガラスを曇らせる。春とはいえ、雨模様の今日は少し肌寒いくらいだった。
「雨ですねぇ、メアリ……」
「クゥゥ……」
もうひとつ、ジュンくんよりずっと低い位置でも窓ガラスが曇る。ジュンくんの隣には愛娘のメアリも居て、彼と同じように外を眺めていた。
「はぁ、この雨じゃジョギングもいけねぇ……。弁当持ってメアリとおひいさんと公園で花見しようと思ってたんすけどねぇ」
「クゥゥ……」
「おひいさんも楽しみにしてたのに、残念がりますねぇ」
「クゥン……」
「…………っふっ、あははっ!」
もっと眺めていたかったけれど、堪えられずに吹き出してしまった。笑い声に二人が振り返る。
「あっ、おひいさん! おはようございます、ってなーに笑ってるんすか〜?」
「いや、わんちゃんたちがションボリお外を見ているのがかわいくてね」
「はぁっ!? 誰がわんちゃんですか!」
「まあまあ、お外にいけないのは残念だけど、その分ぼくがお部屋で遊んであげようね!」
ぼくがソファに座ればメアリがすぐに足元にやってくる。彼女を抱きあげて膝の上に乗せた。メアリほどは素直になれないらしく、ジュンくんはソファの前に立ってぼくたちを見下ろしている。
「……ほら、ジュンくんもおいで♪」
声を掛ければジュンくんは隣に腰を下ろした。それでも何も言わず、メアリを撫でるぼくをじっと見ている。
「なあに?」
「ここ、」
そう言ってツンと指で突かれたのは鎖骨の少し上。
「アト、付けちまったみたいです」
「アト……?」
その意味に気づいたときにはジュンくんがそこにチュッとキスをしていた。
「……昨夜は夢中だったんで覚えてねぇや」
ジュンくんは昨夜の痕跡を愛でるように、そこに何度も口付け、舌でつついた。
「やめ、」
「わんちゃんなもんで、」
すんません、と形ばかりの謝罪をして、痕なんか無いはずの場所にまで唇を押し当てる。
「だっ……めっ!」
「……ほんとにダメです?」
「だめっ……!」
「どうして?」
「メ、メアリとも遊ぶ約束してるよね?」
「……そうでしたね! すんませんメアリ」
「クゥン」
キスをやめたジュンくんが優しくメアリを撫でた。メアリは気持ち良さそうに目を細め、すぐに床へ降りるとリビングでのお気に入りの場所へと行ってしまった。
「ちょっと、メアリ!?」
「ははっ、先におひいさんと遊んでもいいよ、って譲ってくれるんすね? 優しいですねぇ」
メアリがいなくなったことで、ジュンくんは遠慮なくぼくの腰を抱き寄せる。
「じゅ、ジュンくぅん〜〜?」
「はぁ……そんな顔しねぇでくださいよ」
ゆるして、とばかりに上目遣いに見上げると、ジュンくんは困ったように眉を下げた。
「そういう顔されたら余計に我慢できねぇんで」
「ええっっ!? ……ん……」
さっきまでの戯れるようなキスとは違う、確かな意図を含んだ熱い唇がぼくのそれを覆った。そのキスは、まだ身体のうちで燻る昨夜の熱を呼び覚ましていく。
「ちょっ……ジュンく……ん」
雨にも負けないくらいに、次々と降ってくるキスに待ったをかける。
「……待って……! せ、めて……んっ! ベッドに行きたいね」
「…………っははっ!」
「何笑ってるのっ!?」
「おひいさんかわいい……。かわいいだけじゃなくていやらしいですねぇ。最後まではするつもりなかったんすけど」
「なっ……!?」
「まぁ、おひいさんのリクエストとあれば?」
ジュンくんはぼくの手を引いて足早に寝室へ行く。僅かに温もりの残るベッドへあっという間に逆戻り。
まだ気怠い身体が再びベッドへ沈みこんだ。
「さぁ、たくさん遊んでくださいねぇ、おひいさん?」
憂いなんかもうひと欠片もないジュンくんが、晴れやかに笑ってぼくを見下ろした。