毒薬を飲まないと出られない部屋 ジュンは焦点の合わない目で、ぼんやりと天井を見つめていた。
「……どこだ、ここ」
いつもの星奏館の天井とは違う。打ちっぱなしのコンクリートだ。天井からは裸の白熱灯が二つ吊り下がっている。目玉だけをくるりと動かして様子を見るが、何だか不穏な雰囲気の部屋だ。
寝ている背中に当たる感触は柔らかい。ジュンはすっかり凝り固まっている首をゆっくりと動かし、横を向いた。
「おひいさん!?」
セミダブル程のベッドの上、ジュンの隣には日和がこちらへ背を向けて横たわっていた。ジュンは手を伸ばして日和を揺する。
「おひいさん!」
「……んーなぁに、ジュンくん、朝ぁ?」
コロリとジュンのほうへ寝返りを打った日和が、寝ぼけ眼を薄っすらと開いた。ジュンはホッと息を吐く。
「おひいさん、何でこんなとこに寝てるか分かります? オレ、記憶に無くて」
「えっ?」
ベッドに手を付いて日和は身体を起こした。大きな目を更に広げてキョロキョロとしている。
「ここ、どこ?」
日和にも心当たりはないらしい。
記憶を辿ると、一番直近のものとして森の中にいたことを思い出した。
地方での旅グルメの撮影を終えて、翌日オフの二人はそのまま一泊することになった。
「ご利益のあるパワースポットがあるから行こうね!」
ジュンの意見など、はなから聞く気もない日和に連れられて、日の暮れかけた森に足を踏み入れた。まだ茹だるように暑い日向と違い、森の中はゾクッとするほど冷んやりとしていた。
ジュンが山中の地図を調べているうちに、勝手に山道を逸れた日和を追いかけた。覚えているのはそこまでだった。
壁も天井も打ちっぱなしのコンクリートの無機質な部屋。ここに窓はない。外界との繋がりは、重そうな鉄製の扉ひとつだけだ。部屋の面積の殆どは、二人が寝ていたセミダブルのベッドで占められている。家具はベッドと、その両脇に小さなチェストが二つあるだけだった。
ベッドから降りたジュンは、靴を履いたまま寝ていたのだと気づく。服装はジュンも日和も森にいたときの私服のままだが、持っていたはずの鞄もスマホも見当たらない。
ジュンは扉に付いている、鉄でできたコの字型の取っ手に手を掛ける。開けようとして少し躊躇した。扉は所々凹んでいるし、取っ手には錆が浮いている。開けた途端にゾンビにでも襲われるんじゃないか。そう思わせるような陰鬱な扉だった。
ゴクリ、唾を飲み込むと、ジュンは意を決して取っ手を引いた。ガツン、硬い音が響く。今度は押してみる。ガツン、やはり開かない。鍵でも掛かっているのかと取っ手近くや扉の上下を確かめるが、内側から開けられる鍵のようなものは見当たらなかった。
「ちょっと、誰か! 誰かいませんか?!」
ザワザワと不安が胸のうちに広がってくる。思ったより深刻な事態かもしれない。
「誰かっ!!」
嫌な焦りにジュンの声は上擦る。大声で呼びかけ、汗の滲む拳で扉を叩いた。だが人がやってくる気配はない。
「閉じ込められているみたいだね」
今まで黙っていた日和が、落ち着いた声で言った。
「はい……」
日和の顔を見て少し落ち着きを取り戻した。自分一人ではないのだ。日和を守らなければ。取り乱している場合ではない。
「何だろう、ドッキリとか? どこかにカメラとか……」
「ぼくも疑って探してみたけど見つからないね」
「もしかして誘拐……」
可能性が無いわけじゃない。二人は人気アイドルである。二人そのものに興味のある変態、または営利目的の可能性もある。営利目的というなら、日和は巴家の次男だ。ジュンより更に価値は高いだろう。
「どうだろうね」
日和は肩を竦めてみせた。
ジュンはベッドの横のチェストを開けてみる。そこには目薬くらいの大きさの硝子の小瓶が入っていた。中身は血液のような赤い液体で満たされている。ベッドの上に落とすと、スプリングで跳ねて転がった。
日和も自分が寝ていた側のチェストを指す。
「さっきこっちは見たけど何も無かったね」
「何でしょうね、コレ」
「さあ?」
何か手掛かりはないかと、ジュンは部屋を見回す。ベッドの頭側の壁に、板状のものが嵌め込まれていたような跡がある。ジュンは床に膝をついてベッドの下を覗き込んだ。プラスチックのプレートのような物が落ちている。手を伸ばして取り出すと、プレートに書かれていた文字を読み上げた。
「『どちらかが毒薬を飲まないと出られない部屋』……?」
「毒薬!? 穏やかじゃないね」
「は、はは……」
「何笑ってるの、ジュンくん?」
ジュンから引きつった笑いが零れるのを見て、日和は不思議そうに首を傾げた。
「これ、よく漫画とかにあるやつですよ。『〇〇しないと出られない部屋』ってやつです。普通は媚薬を飲まないと、とかキスしないととかってシチュエーションなんすけど」
「何それ!? ジュンくんてば随分と破廉恥な漫画を読んでいるんだね!?」
「いやいや、そこは今は置いといてくださいよ。でも毒薬って……」
二人はベッドの上の、毒薬が入っていると思われる小さな瓶を見つめた。
「……オレ、飲みます」
「えっ?」
「オレ飲んでみます」
「ダメダメっ! 死んじゃったらどうするの!?」
「そのときはそのときです。早いうちに飲まないと。体力が限界になってから開いたって、おひいさん動けなかったら一人で逃げられないでしょ」
「……ぼくが一人で逃げると思ってるの?」
「『逃げる』って言い方が気に食わないなら、誰か助けを呼びに行くでもいいし」
「……ジュンくんは何も分かってないね」
日和は声を沈ませて言った。ジュンに背中を向けてまた横になってしまった。
「おひいさーん」
「飲まなくていいね。きっとぼくたちと連絡が取れなければ、茨に連絡がいく。そしたら探してくれるはずだね」
「そりゃそうだろうけど」
暫くして日和は寝返りを打ってジュンを見た。
「オフなんだからのんびりしよう、ジュンくん」
穏やかに目を細めてジュンへ両手を広げる。
「おいでジュンくん。不安ならぼくがヨシヨシしてあげるね」
「大丈夫ですっ!」
「お・い・で」
「……ったくもぉ」
靴のまま膝をついてベッドへ上がる。
でも日和に密着するのは躊躇われた。普段から距離の近いパフォーマンスをすることも多いし、日和はやたらとスキンシップも多い。だけどベッドの上で抱きしめるというのはやはり違う。
ひっそりと日和に片想いしているジュンにとっては、複雑な心境なのだ。こんな異常な状況だっていうのに、ジュンはもうドキドキとしている。くっつけば日和にも伝わってしまう。
「早く!」
ジュンの気持ちも知らず、日和は口を尖らせる。日和にはきっと犬や猫を抱くのと大差ないのだろう。
ジュンは息を吸い込んで覚悟を決めた。
「お邪魔しまーす……」
日和の胸の辺りに額を埋めるように収まった。日和自身の甘い香りがふわりと鼻腔を擽り、ジュンの鼓動に更に拍車をかける。
ところが、鼓動が喧しいのはジュンのほうだけでは無かった。日和の心臓がドクドクと、ジュンの鼓膜にまで反響するように強く血液を送り出している。
日和の身体も熱いし、吐息まで熱を含んでジュンの髪を揺らしている。
「お、ひいさん……」
ドクドク、という心音はやがてドッドッドッと信じられないくらいに速く脈打ち出す。
「おひいさん?」
ジュンは日和の腕から抜け出して顔を上げた。日和は苦しそうに顔を歪めて荒く息を吐いている。
「おひいさん!!」
「大丈夫……だね」
「どうしたんです? 苦しいんですか!?」
「寝ていれば大丈夫……」
「そんなっ! やっぱりオレ──」
ジュンは毒の瓶を手に取った。
「待って、ダメ!」
「早くおひいさんだけでも」
「飲んでも出られるか分からないよね」
「──あんた……?」
ジュンは日和の側のチェストを引いた。その勢いのままに、硝子の瓶が一本転がってきた。ベッドにあるものと同じ形だが瓶は既に空だった。
「飲んだんですか!?」
「飲んでも扉は開かなかったね」
「勝手なことを!」
「開いたらいいなって、もしかしたら開くんじゃないかって願っちゃったから」
ジュンはチェストの奥にあった紙に気づいた。それを震える指で広げるのを日和がジッと見ている。
〈毒薬A:好きな相手が飲んだら出られます〉
「つまり、ジュンくんがぼくを好きだったら、扉は開いていたはずだね」
はぁはぁ、と言葉の間に苦しそうに息を吐いて顔を歪めた。それでも日和は気丈に笑って見せた。
「……だったら、それが本当なら開くはずです!」
ジュンは日和の手を取る。
「だって、オレはずっと、ずっとおひいさんのことが好きなんすから!」
「ふふっ、最期だからって嘘をつかなくていいね。……ううん、本当かも知れないね。ジュンくんは、ぼくを確かに好きではいてくれた。でもそれは恩だとか家族愛で、ぼくの求める好きとは違う」
「本当なんです。オレはおひいさんのこと、本当に!」
「ゴホッ、」
日和の額には玉のような汗が浮かび、前髪が貼り付く。
「何で開かないんだよ?! おかしいだろ! 何で!!」
ジュンはまた扉の取っ手を強く揺り動かした。ガツン、ガツンと無情な音が繰り返される。
「誰かあっ!」
扉を蹴飛ばしても、拳に血が滲むほど扉を叩いても、誰も応じない。
「開けよ! おひいさんが、おひいさんが死んじまうっ!」
振り返ると日和は目を閉じてぐったりとしている。駆け戻って身体をかき抱いた。
「おひいさん!」
苦しげな息の間に小さな声が聞こえ、ジュンは耳を寄せた。
「おとぎ話みたいに……キスしたら助かるかも……ね?」
「何言って」
「キスして……」
薄く覗いた菫色の瞳がジュンを絡め取る。
ジュンは衝動的に柔く温かい日和の唇に自分のものを押し当てた。
腕の中の日和から、全身の力が失われていくのが分かった。
「おひいさん! そんな……」
日和のしろい頬に一筋涙が伝い、先程まで苦しそうだった表情は穏やかになった。長い腕が力無くベッドへ落ちた。
「好きです、好きです、好きです」
ジュンからホロホロと零れた涙が日和の頬を濡らす。それでも日和は薄っすらと笑みを浮かべたまま動かなかった。
「何でぇ? こんなにあんたのこと好きなのにっ!」
怒りのままジュンは近くのチェストを蹴飛ばした。僅かに動いたチェスト。その下に紙が落ちているのに気づいて拾い上げる。
〈毒薬B:嫌いな相手が飲むと出られます〉
ジュンは空の瓶を確かめる。瓶の底にはBと刻印されていた。対する中身の入った瓶の底にはA。瓶と注意書きの紙が入れ替わっていたようだ。
日和が飲んだBは、嫌いな相手が飲めば出られる毒薬だ。ジュンは日和のことが好きなのだから、当然出られるはずはなかったのだ。
残るはAの毒薬。好きな相手が飲めば出られる。もしも日和がジュンを好きでいてくれたなら──
ジュンは瓶の蓋を開けて毒薬を一気に喉に流し込んだ。ピリッと喉に刺激が走る。辛いものを飲み込んだように、喉から胃へと液体が流れている道程が感じられた。
「おひいさん、好きです」
ジュンは冷たい日和の唇に口付ける。
日和を抱き上げて、扉へと向かった。
*****
ジュンは焦点の合わない目で、ぼんやりと空を見つめていた。
「……どこだ、ここ」
サワサワと風に揺らされた木々の隙間から月が見える。
寝ている背中に当たる感触は硬い。お腹には漬物石でも乗せられているように、圧迫感がある。
何とか首を持ち上げて腹の辺りを見た。
「おひいさん!?」
腹の上には横たわった日和の頭が乗せられていた。
「おひいさんっ!!」
日和の頬をぺしぺしと叩く。
「痛っ!」
日和は身を起こしてジュンを睨みつけた。
「ジュンくん! ぼくの美しい顔を叩くなんて一体──」
「おひいさんっ」
ジュンは日和を強く抱きしめた。
「良かった! 無事で」
「……あれ? そうだ、ぼく毒薬を飲んで」
「身体は大丈夫ですか?」
「大丈夫。……出られたんだね」
ジュンのほうも、身体におかしなところは無かった。扉を叩いてできた手の傷も無い。
二人は夕方に入った森の中にいるようだ。今はすっかりと日が暮れている。
「……ふふっ、ふふふ、あはははっ!!」
日和の抑えていた笑い声は段々と大きくなる。
「やっぱりジュンくんはぼくのこと好きだったんだね!」
「は、はぁ〜〜??」
「出られたのが何よりの証拠だね!」
日和は得意そうに胸を反らした。
「それはですねぇ……」
「ほら、酷いお顔」
ジュンの頬に手を伸ばして、まだ乾いていない涙を拭った。
「……ぼくのこと大好きなんだね」
揶揄う口調を潜めて嬉しそうに言われると、まぁいいやと思ってしまう。
ジュンは面倒くさそうな言い方に本音を混ぜ込む。
「はいはい、好きですよぉ、おひいさん」
「……うんうん、当然だよね!」
一瞬驚いた表情をした日和は、それを隠すようにパッと立ち上がると、足取りも軽く山道を進んでいく。
「ちょっとぉ、また迷子になりますよぉ」
道分かってるんすかねぇ、とジュンはため息をついた。いつの間にかポケットに入っていたスマホを取り出した。バッテリーはあるが電波は届いていない。電波が届くところまで自力で歩くしかなさそうだ。
「えっ?」
スマホのライトを照らしてジュンは辺りを見回した。
「これって……?」
「ジュンくーん?」
少し先で日和が呼んでいる。
「動かないで待っててくださいよぉ!」
ジュンは大声で応じてから、今度は小さく呟く。
「ここは何のご利益があるパワースポットなんすかねぇ」
ライトの中に浮かび上がったのは表面が平らな大きな岩。その表面には沢山の相合傘が刻まれていた。
ジュンの目は吸い寄せられるように、ひとつの相合傘を拾う。傘の下にある名前は──
『ジュン・日和』
「随分と可愛いことしてくれますねぇ」
頬をかいて、口元をニンマリと緩ませた。
「ジュンくーん! 置いてっちゃうね!」
「はいはーい!」
「もぉ、ぼくはお腹が空いたね!」
「ねぇおひいさん、あんたは? オレのこと……?」
日和に追いついてジュンは訊く。
「どうかね、無事に麓まで連れて帰ってくれたら教えてあげるかもね」
日和は恥ずかしそうに微笑んだ。
夢か幻のような『毒薬を飲まないと出られない部屋』。
こんなおかしな部屋に閉じ込められたのは、縁結びのご利益によるものだったのだろうか。
「オレが飲んだ毒薬の効果知っても、とぼけていられますかねぇ」
「なあに?」
ジュンにだって日和の気持ちは伝わってはいたけれど、やっぱり日和の言葉で聞かせて欲しい。
それにはまず日和を麓まで連れて帰らなければ。
キスでは目覚めなかった寝ぼすけのお姫様をエスコートするために、ジュンは恭しく手を差し出した。