マジックアワーはまぶたのうらに 一日が終わっていく。それまでの時間が濃密だった分、よりあっという間に感じてしまうのはどうやら神経伝達物質の働きによるものらしい。「楽しい」という感情で過剰に分泌されるドーパミンの影響、あとは時間の経過を意識していないぶんそう感じてしまうだけで、時間の流れはいかなる時も等しい、博識な彼はそんなことを言っていたけれど、おれにとってはどうでもいいことだ。「またいつか」が訪れるとしても、別れそのものが近づいていることが無性に辛くて仕方がない。
もうどれくらいこうしているだろう。窓の外に広がる空の色で夕暮れが近づいてくるのを感じながら、並んでソファに座って彼の胸に頭を擡げるのは今までの人生の中でもとても幸せな時間だった。こんな時間がずっとずっと、永遠に続いていけばいいのに。そんなことを願っていても明日の朝にはおれはこの家を発たなければいけない。次に彼に会えるのは、一体いつになるのかな。本当なら毎月でも会いたいくらいだけど、彼の負担になってしまうだろうしそんなに頻繁に休暇をとれるわけがないのはわかっている。わかっているから、悲しくなるのだ。姿を知ってしまったらもう声だけじゃ満足できなくなる。わがままなおれの本性が、どうやったって彼に触れたいと叫びだしてしまう。
こらえることができなかった涙がとうとう溢れ出して、誤魔化すために鼻をすんと啜ったのを彼は聞き逃さなかった。だからといって動揺するでもなく慰めるように愛を囁くわけでもなく、彼は静かにおれの肩を抱いて自分の方に引き寄せていく。ああ、どうかおれだけじゃなくて、彼のほうも別れを惜しいと思っていてほしい――いや、そう思っていると心のどこかで信じている。でも彼はおれよりずっと成熟しているから、そんな未練なんて堪えきれてしまうのかもしれない。少しくらい何かを強請ってもバチなんて当たりはしないのに、彼はいつだって聡い大人のふりをする。
思い上がりも甚だしいのは承知で、こどものように甘えるのが苦手な彼のことを哀れんでしまうのを少しだけ許してほしい。彼に出会ってから今まで、彼が弱音を吐いたのをおれは見たことがない。身を置いた環境が苦境に立たされたその時も、彼は率先して安心させる言葉を周りに投げかけた。けして悲観することはせず、前向きで温かい言葉だけを紡ぎ続けた。そうやって皆を守るために矢面に立ちつづけた彼がどれだけ傷ついてきたのか、おれにはとても計り知れない。
おれがもっと大人になれたら、彼のことを守ってあげられるのかな。
もっと守ることができたなら、ずっとそばにいられるのかな。
そんな覚悟を背負うことも今のおれにはできないまま、こうして大人のふりをした彼の胸にただ抱かれている。
「――ふーふーちゃん、体、つらくない? おれの頭、けっこう重たいでしょ」
「大丈夫。もう少しこうしていたいから、浮奇が嫌じゃないなら」
そんなやり取りをもっと繰り返していたいような、そんな気分だ。ふと顔を上げると、涙で滲んだ視界の向こう、窓の外が、紫と赤のグラデーションに染まっていた。
「……マジックアワーだな」
マジックアワー。日没の後、ほんの数十分だけ薄明に染まる時間だ。ふたりの色で柔らかく彩られた空を見て、おれは呟く。
「こんなにきれいな空なんだから、きょうは、きっと星がよく見えるよ」
「そうだな、サニーとアルバーンが起きたら、食事をした後で皆で星を見るのも良いかもしれないな」
みんなで美味しいご飯を食べて、同じ空を見て、同じ夜を過ごす。こんな日を過ごすときが来るなんて、彼と初めて会ったときは想像できなかったな。やさしいひと。だけど、自分のことを曝け出すのが怖くて、触れようとした寸前ですり抜けてしまうくらい、ふとした瞬間に壊れてしまいそうな、繊細なひと。そんな彼のことが、うつくしいと思った、いとしいと思った。だからおれにとってのはじまりの唄を、彼の紡ぐ言葉からはじめたい、そう思ったんだ。思い出しながら小さく口ずさんだハミングに、彼の柔らかい声が重なった。
「ふふ、きみの声って、本当にやさしい」
「っはは、そんなことを言ってくれるのは浮奇くらいだよ」
「何度でも言うよ。きみの声が、きみのことが大好き。だからこの先も、おれの人生には間違いなくきみは存在し続けるんだ」
おれだけじゃない、多くの人をその暖かさで救ってきたということを、彼が自覚するその時までこれから先も、ずっとずっと伝え続けていく。
「……この景色、いつか歌にしたい。いつになるかわからないけど」
「きっときれいな曲になるんだろうなって、わかるよ」
「きみも、いつか物語にしてね。こんなにきれいな空の色、きっと忘れられないでしょ」
そうだな、忘れられるはずがない。小さく彼が呟いた。
頭の中に浮かんでいく真新しいメロディを、この魂に刻みこむように口ずさむ。淡く鮮烈なグラデーションはまぶたのうらに焼き付いて、やがて音と物語に形を変えていくのだろう。芸術の裏に隠された真相はきっとおれたちにしかわからないけれど、そうやって紡いだ何かが誰かの心に深く突き刺さってほしいと、そんなことを、ふたり確かに願っている。