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    ことざき

    @KotozakiKaname

    GW:TのK暁に今は夢中。
    Xと支部に生息しています。

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    ことざき

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    5月の #毎月25日はK暁デー、初参加作品でした。
    お題:『雨のち晴れ』『水たまり』『母の日』です。
    支部にも同じものを投稿していますが、こちらにもあげます。

    #毎月25日はK暁デー
    #K暁
    #白々明けを歩く

    雨止みを待つ 二人が週末のたびに食事をともにするようになってから、季節がふたつ巡った。


     すっきりしない曇天が、夜明け前にとうとう雨に変わった。時計の短針が八の字を過ぎても、カーテンのわずかな隙間から覗く空は薄暗いままだ。
     KKはくわりと大口を開けてあくびをすると、緩慢な動きでベッドから起き上がった。
     昨日の宵の口に始まったマレビトとの鬼事に決着がついたのは、そろそろ日付変更線を越えようかという頃合いだった。普段からすればかなり早い時刻の決着だったが、そのせいで現場には人の気配が途切れず、かえって後始末に手こずった。人目を引かぬよう満足に暴れられなかった鬱屈もあって眠りは浅く、おかげで今朝は寝不足ぎみだった。
     腫れぼったい目と半端に伸びた髭を乱雑に擦りつつ、KKは洗面所に向かった。顔を洗って歯を磨き、寝間着代わりのスウェットを洗濯機に放り込む。音と気配で起床に気付いたのだろう。暁人がリビングから廊下へと顔を覗かせて、おはようと快活に笑った。KKもおはようと返せば、ますます彼の笑みが深まる。
     もう起こそうと思ってたと言いながら顔を引っ込めた暁人を追って、KKも室内に入った。敷居をまたぐと、しめやかな雨音が少しだけ遠のいた。
     リビングには味噌汁の香りが漂っていた。食欲を誘うそれに釣られるようにして、KKは足を速める。本来は一人用のさして大きくはないテーブルの上に、二人前の朝食が所狭しと並んでいた。
     胡瓜とわかめの酢の物に、葱たっぷりの冷ややっこ。鮭のみりん漬け焼きの隣には、人参の千切りとだし巻き卵が添えてある。
     暁人がそこに、湯気のたつ味噌汁の椀を持ってきて置いた。
     KKには逆立ちしても作れない豪勢な朝食を前にして、まだ半分ほど眠っていた胃が、物欲しそうな音をたてて空腹を訴えた。

     最初の頃、ここまでしなくていいとKKは何度も言ったのだが、暁人はやりたいからやっているだけだと譲らなかった。
     こんな丁寧なの、休学してる今だけだよ。無理なんてしてないし、これからもしないから。そうきっぱりと言い切られてしまえば、はっきりとした反論があるわけでもないKKは口をつぐむしかない。本当に大丈夫なのかと気を揉みつつも、そうかと頷いて引き下がったのだった。
     それから程なく、卓上塩と胡椒だけが転がっていたキッチンラックに、砂糖やみりんや顆粒だしといった調味料が常備された。冷蔵庫には醤油や味噌や料理酒が入れられ、シンク下の空っぽだった収納棚の上段には、菜箸やお玉杓子、フライ返しに計量スプーンなどが並べられた。さらに、棚の下段に至っては、圧力鍋やら雪平鍋やらスキレットやら、もはやKKには扱い方の分からない調理器具までもが幅を利かせるようになった。
     多少のごたごたのすえ、食材の費用については折半することで話がまとまっていたものの、ここまで豊富な調理器具は普段料理をしないKKの想定外で、やれレシートを渡せ渡さないでまたひと悶着おこった。
     だってアンタは使わないだろと渋る暁人の手からレシートを奪い取って、替わりに、実費から端数を切り上げた額の紙幣を握らせることを繰り返すうちに、暁人はこれこれこういう物が欲しいと事前に相談するようになり、おかげでKKも料理の知識だけは多少なりとも増えていった。

     KKがこの部屋に越してきたばかりの八か月前には、ビールジョッキ一個と大皿一枚しかなかった食器棚にも、今は十分な種類のものが二人分揃っている。
     KKは棚からご飯茶碗を二個取り出すと、そのうち一方を、湯気の消えた仏飯を下げて戻ってきた暁人に手渡した。礼を言って受け取る暁人はにこにこと上機嫌で、訊けば夕飯の余り物をうまく味噌汁にできたと言う。
     暁人はお下がりの白米を炊飯器に戻して混ぜると、自分の分を器によそった。決して小さくはない彼のご飯茶碗に、こんもりと白米が盛り上がってゆく。見ているだけで胸焼けしそうな光景に、KKは思わず鳩尾をさすっていた。
     続いてKKがよそった白米は暁人の七分目ほど。それでも普段からすれば多いほうだ。二人は、対面になっているそれぞれの席に着いて、いただきますと声を揃えて手を合わせた。
     KKがまず手に取ったのは、会心の出来だという味噌汁で、口をつけると、香ばしい味噌の香りが鼻に抜けた。上顎に引っかかった斜め切りのウインナーを舌で引きはがして、汁と一緒に飲み込む。優しい温かさが食道をすべり落ちると、あっという間に全身に熱が広がった。頭の芯にしつこくこびりついていた眠気が覚めてゆく。
     味噌汁にウインナーのイメージがなく、違和感に首を傾げたのも以前の話で、今やすっかり定番の組み合わせだ。美味いなと呟けば、白米を頬張っていた暁人が面映ゆそうに微笑した。

     妻子と別れて暮らすようになってからは、食事はできあい弁当やカップ麺頼みで、外食することも多かった。できあいに手を加えるとしても、良くてインスタント味噌汁に市販のきざみ葱や乾燥わかめを入れたり、カップ麺に生卵を落としたりする程度。それすら面倒なので実際はほとんどしない。そう話した時の暁人の表情を、KKは半年経った今でもよく覚えている。
     もしあの時、暁人の顔に浮かんでいたのが単なる呆れや軽蔑だけだったなら、KKは気にも留めなかっただろう。男やもめにゃ蛆がわくもんなんだよと、KKより上の年代でもなかなか使わないような言い回しでうそぶいて、やれやれまた小うるさい説教が始まったとからかったかもしれない。
     しかし、不精に呆れ不摂生を咎める暁人の瞳の奥にあったのは、ただただ純粋な心配だった。塩分の摂りすぎや栄養の偏りは良くないと、言葉だけなら小言でも、まっすぐな眼差しが何よりも雄弁に暁人の心情を表していた。二人で食卓を囲むようになったのは、その少しあとのことだ。

     白い大きな平皿の上で、おこげのついた鮭の切り身が、リビングの照明をつやつやと照り返している。その隣にある小ぶりのだし巻き卵は、食欲を誘うこがね色だ。
     そのだし巻き卵をひと切れつまんで食べると海苔の味がした。KKは思わず箸を止め、皿に残ったもう一切れをしげしげと眺めた。楕円形の切り口には、ラーメンのなるとにも似たきれいな黒い渦巻き模様がくっきりと。感心しつつ、残りのすべてを一口で頬張った。歯をたてると軽い歯応えとともに身が崩れ、とろりとした半熟が舌の上を転がる。食事をともにしはじめた当初は味がしないと不満を感じたものだが、今は海苔から染みでた甘辛さが分かった。
     人は六週間で薄味に慣れるらしいよとは暁人の言葉で、それを彼に吹きこんだのは、大学の食堂に貼りだされていたポスターらしい。
     なるほどねえと胸の内で呟いて、KKは再び味噌汁の椀を手に取った。



     職業柄、この場合は元がつくが、ともかく、身体に染みついた習慣としてKKの食事は速い。ご馳走さん、お粗末さまでしたと食後の挨拶を交わすと、KKは、まだ食べている暁人を尻目に、自身の食器をシンクに下げた。そのまま背中越しにコーヒーを飲むかと訊けば、しばらくして肯定が返ってくる。やや間が空いたのは、口のなかの物を飲み込んでいたからだろう。
     コンロを使いながらでも湯を沸かしたいと暁人に相談されて買った電気ケトルをセットして、食器棚からインスタントコーヒーの瓶とマグカップを二個取り出す。砂糖やミルクの量はすでに聞くまでもなく、意識せずとも身体はいつもの手順を踏んでいた。
     やがてお湯が沸騰しケトルの電源が落ちる頃には、暁人もすべて食べ終わり、食器を下げにやってきた。さすがに大の男二人が並んでキッチンに立つのは狭苦しい。肘がぶつかると危険でもある。
     KKは左手にケトル、右手にコーヒー粉末入りのマグカップ二個を持って暁人に場所を譲り、再びリビングに戻った。背後で、流水音とともにカチャカチャと食器同士が触れ合うかすかな音がしはじめる。
     長年の喫煙ですっかり鈍ったKKの鼻孔にも、甘ったるくきつい人工的なオレンジの香りが届いた。

     たばこの臭いは駄目でこれは平気なのが解せないと口にして、元妻に盛大に眉をしかめられたことをKKは思い出す。思えばあの時、彼女の腹のなかには息子がいたのだ。
     折りしも、一文だけだったたばこ警告表示がより詳細になり、妊娠出産への影響がパッケージの文言に追記されるようになった頃。彼女でさえもまだ懐妊を知らなかった時期とはいえ、KKも積極的に子を望んでいたのだから無責任にも程があった。
     見えないうちに降り積もってゆくものはある。分かってから動いたのでは遅すぎる。
     ただ仕事にかまけていたからだけではない。崩壊の端緒を開いたのは他ならぬ己の愚かさだったのだと、臓腑が焦げつくような痛みとともに、今はもう、はっきりと理解していた。
     ケトルとマグカップをリビングのテーブルに置くと、卓上醤油と生姜のチューブがKKの目に入った。それらを冷蔵庫に戻して、かわりにコーヒーミルクを取り出す。
     マグカップに熱湯を注ぐと、立ちのぼる湯気にあてられて、額にじわりと汗が滲んだ。まだ朝と呼べる時間帯、雨が降って気温の低い今ですらこうなのだ。すでに季節は初夏に入ったのだと肌身で感じる。ベランダで快適に過ごせるのも、もうあと少しだろう。

     週末ごとに暁人が部屋にやってきて、ともに食事をとり、同じ時間を過ごす。それが具体的な形をとりはじめた時、KKは、暁人が部屋にいる間はベランダでたばこを吸うと決めた。暁人から直接なにかを言われたわけではない。例のあの夜、コンビニの前でさんざん繰り返した戯れの押し問答が理由だった。さすがに毎日のことであれば遠慮する気はさらさら起きなかっただろうが、せいぜい七日のうち一日か二日のこと。まあいいかと思ったのだ。
     しかし、それを知った暁人の表情は冴えなかった。最初は部屋主を追い出すようで気が引けているのかと考えたのだが、どうもそれだけではないらしい。が、理由を訊いてもはっきり答えない。
     煮え切らない彼の態度に、短気なKKはすぐに業を煮やした。いいからとっとと吐けと迫って聞き出したところ、ベランダで吸うと隣近所に煙が流れるし、その人たちの洗濯物に臭いが付きそうなのが気になるとのこと。
     火や灰、吸い殻の始末は当然のこととして、近隣の部屋に子どもや若い女性がいないと分かった時点でKKの優先順位は定まっていたのだが、暁人の感覚はまた違ったというわけだ。言われてみれば頷ける話で、部屋主であるKKを差し置いて、同じ階の人に貰ったと大根の煮付け入りタッパーを抱えていたこともある暁人にとっては、どうしても看過しがたい懸念だったのだろう。
     結局、KKは少しでもベランダに出る回数を減らすべく、週末の食後の一服をたばこからコーヒーに切り替えることにした。思い立ったその日のうちに、近場の店でワゴンに投げ売りされていた訳あり品のマグカップを二個と、瓶入りのインスタントコーヒー粉末を購入し、次の週末には、茶でもジュースでもなんでもいいから責任をもって付き合えと暁人に押しつけた。
     暁人からすれば、なんの脈絡もなく突然マグカップを手渡され責任を追及されたことになる。しばらくは怪訝そうに眉をしかめていたものの、KKの言葉を聞くうちに徐々に顔に理解の色を浮かべてゆき、やがて僕もコーヒーがいいとインスタントの瓶に手を伸ばすと、それからは終始機嫌が良さそうに笑っていた。
     二人で使うものを自ら買って部屋に置いたのは、あのマグカップが初めてだったとKKが気付いたのは、さらにその次の週末のことだった。

     あれ以降、食後の一服は途切れることなく今に続いている。そして、いつの間にか、二人分のコーヒーを入れるのは、もっぱらKKの役目になっていた。
     あの時メーカーの確認もせず適当に買った安いインスタントに、特にこだわりのないKKはなんの不満も抱いていなかったが、好奇心を発揮した暁人がコーヒーミルに興味を持ち始めているのは知っている。
     彼がいつ切り出してくるかを、KKは一人で賭けの対象にしていた。勝とうが負けようが掛け金はミルに化ける。そんなたいして意味のない勝負を、意外なほど楽しんでいた。
     KKはシュガースティックの封を切ると、暁人のマグカップにだけ入れた。ミルクは両方だ。混ぜているうちに背後の流水音が止んで、ぱたぱたと軽快なスリッパの音が近づいてくる。
     背伸びをした暁人に左肩越しに覗きこまれて、KKは笑いながら軽く肘鉄を食らわせた。



     KKの手元のマグカップから白い湯気が立ちのぼる。ぼんやり揺れる水蒸気のカーテンの向こう側に、熱いコーヒーの上澄みをちびちびと啜る暁人が座っていた。彼の左手にはスマホが握られ、親指が忙しなく動いている。
     今も雨は降り続いていたが、かすかな雨音は、洗濯機の回る音にすっかり掻き消され、リビングには届かなくなっていた。
     口に物を入れて喋らない、ながら食べをしないなど、育ちの良さを垣間見せる暁人であっても、食後のコーヒーはまた違うらしい。指の動きとは裏腹に、ゆったりと楽しげに細められた彼の眼差しを、KKは見るともなしに眺めていた。見出しだけ拾い読みした朝刊に興味を惹かれる記事はなく、少し手持ち無沙汰だったのだ。頭の片隅ではたばこへの欲求が鎌首をもたげていたが、この半年で減ったたばこの本数から、浮いたたばこ代を計算してどうにか気を落ち着けようとした。
     改めて考えてみると、浮いた金はすでに結構な額になっていた。もしかすると、コーヒーミルを買ってもまだ余るかもしれない。が、それならそれで廻る寿司代か焼肉代の足しにすればいいことだった。こんな顔して暁人はたいした大食いなので、予算は多いに越したことはなかった。

     携帯いじりに満足したのか視線を感じたのか、おもむろに暁人が顔をあげた。KKと目が合ったその瞬間、ぱっと彼の表情が輝く。
     KKは思わず、わずかに頭をのけぞらせていた。周囲の空気すら明るく華やぐようなそれに、うっかり気圧されたのだ。もちろん、分かりやすく好意を示されるのは、KKとて悪い気がしない。しないが、なにしろたった今考えていたことがことだ。
     見慣れたチェーン店の入り口近くで、くちくなった腹を抱えて、満面の笑みで御馳走さまとこちらを見遣る暁人と、その横で、すっかり軽くなった財布を片手に、胃もたれの予感に苦しむ己の姿が幻視されて、KKは眉尻を下げて苦笑した。

     喜色満面の本物の暁人がテーブルに身を乗りだすようにしてKKに見せたのは、一枚の写真だった。
     黒い大きなプラスチック製の弁当箱の一段に、めいっぱい詰め込まれた白米。それだけなら食べ盛りの若者にふさわしい、梅干しの入ったシンプルな日の丸弁当なのだが、白米の中央にどんと鎮座ましましているのは、デフォルメされた柴犬のキャラクターだった。そぼろの体毛。海苔の目鼻。梅干しは首輪飾りに使われている。
     もう何度も見せられ聞かされていたので、さすがのKKも覚えている。これはいわゆるキャラ弁というものだった。
     前足を揃えてお座りする柴犬の頭の大きさは胴体の倍以上あり、丸々とした一対の瞳はまっすぐ正面を向いている。図柄は街中で見かける落書きにそっくりで、そういう意味では本当によくできていた。
     しかし、暁人の目には可愛らしく見えるらしいそれは、KKにはどうにもバランスが悪く不自然としか映らない。さらに、見栄えで言うならこれよりも、唐傘お化けや鬼のグラフィティを真似したほうが、よほどインパクトがあるように思われた。
     とはいえ、ここまで楽しげな暁人にそれを言うのは野暮だと分かってはいるので、余計なことを口走らぬよう、むずむずする口をへの字に曲げて、KKは黙って聞き役に徹していた。
     暁人はスマホの画面を切り替えて、さらに別の日に撮ったという写真も何枚か表示させた。柴犬はウインクしたり舌を出したりと、一枚ごとに微妙に構図が違う。使われている具材も、ふりかけや錦糸卵に桜でんぶと、これまた少しずつ異なっている。
     一度も弁当を作ったことのないKKでも、完成までに相当な手間暇がかかっていることは察せられた。
     手先の器用さと根気強さに感心したのが半分、わざわざ朝の貴重な睡眠時間を削ってまで凝ることへの呆れが半分。せっかく黙っていたのにしつこく感想を求められ、仕方なくKKが思ったままを伝えると、試行錯誤も含めて楽しいからいいのだと、少し拗ねた口調で返された。お腹が空いてさあこれから食べるぞという時に、真っ先に可愛いものが目に入ると、テンションがあがるから、とも。

     KKの脳裏に、落書きを見つけるたびにはしゃいだ声をあげ、わざわざ立ち止まって眺めていた、あの夜の暁人のことが思い起こされた。スマホを取り出そうとする暁人の右手を制して、早くしろと苛立ちながらせっついた己の声も。
     とり憑いたばかりの頃のKKは、なにを呑気なと小馬鹿にしてすらいたのだが、事実はむしろ逆だったのだろう。
     元より怪異が身近だったKKと違い、暁人が適合者として目覚めたのはあの夜が最初だ。人の消えた渋谷の街と、身の内には自身を扼殺しようとした男の存在、そして、目の前で連れ去られた妹の安否。あの狂った異常事態にあって、日常の象徴とも言えるおどけた落書きに、おそらく暁人の精神は救われていたのだ。
     暁人は前のめりになっていた姿勢を正し、携帯をテーブルに置いて、むくれた顔でコーヒーを啜っている。とはいえ、半分以上はただのポーズで、表情や声音から感じられるほどには堪えていないはずだ。分かっていても黙っているのは座りが悪く、KKは舌で唇を湿らせながら口を開いた。

     KKが子どもの頃は、ランドセルは判で押したように男児が黒で女児は赤だった。今の暁人くらいの年齢の時分でも、性別に対する視線は厳しく、もしも男のくせに可愛いものが好きだと周囲に知られたなら、遠慮のない失笑を買ったことだろう。
     幸いと言っていいものか、KKは可愛いものにまるで興味はなかったが、苦しんだ者も少なからずいたはずだ。てらいなく可愛いものが好きだと言ってのける暁人に、時代は変わったのだと痛感する。
     幼児期にはスーパーカーに夢中だった息子が、今はなにを好んでいるのかは分からないが、この時代に暁人や息子が青春を過ごせて良かったとしみじみ思う。

     似合わないことを言った自覚はあった。しかも、キャラ弁への感想とはずれている。後悔にも似た居た堪れなさがこみあげてきて、KKは盛大に眉をしかめて温くなったコーヒーを呷った。なかば自棄になって、笑うなら笑いやがれとまで胸の内で叫ぶ。
     案の定、暁人は言い方がおじさんくさいよと憎まれ口を叩いたが、その表情は柔らかく、でもありがとうとくすぐったげに笑った。が、それも一瞬のことで、彼はすぐに真顔になると、KKから目を逸らして俯いてしまった。なにかを思い出している様子で、テーブルの木目を見つめる彼の表情には、痛みを堪えるような苦い色が浮かんでいる。マグカップを掴む指には力がこもり、短く切り揃えられた爪が白く変色しているのが見えた。
     さては嫌な記憶を引き摺りだしてしまったかとKKが慌てているうちに、ふっと暁人の表情が和らいだ。それでも、伏せていた顔を上げ、ねえ聞いてくれると遠慮がちに切り出した彼の声には、張り詰めた悲しみがこもっていた。

     まだ暁人が小学生だった時、遠足に彼の母親が弁当を作った。
     必要なのは暁人の分だけだったが、兄の真似をしたがる麻里がぐずったので、テーブルには中小ふたつの弁当箱が並べられた。旅行先で父が買ってくれたお揃いの肉球模様の弁当箱は、兄妹二人のお気に入りだった。
     麻里の大好きな国民的ヒーローの頭を象ったポテトに、アスパラガスのベーコン巻きとチーズの入った卵焼き、ブロッコリーにプチトマト。
     そこにさらに茹でたニンジンが詰められようとした時、暁人は花の形にしてほしいと母にねだった。正月のおせち料理を作るとき、母が魔法のようにニンジンを梅の花に変えていったのが忘れられなかったのだ。
     請われた母は嬉しそうに微笑んだが、少しためらったあと、本当にいいのと暁人に訊いた。暁人はいいよと元気よく答え、麻里も歓声をあげて喜んだ。
     そうして迎えた昼食の時間、公園に敷かれたブルーシートにクラスメートのお弁当が並んだ。暁人の可愛らしい梅の形のニンジンは、同じ遠足グループのほとんどの子に好評だったが、一部の男子にはかなりの不評で、男らしくないというのがその理由だった。
     売り言葉に買い言葉。目を白黒させるばかりの暁人をそっちのけにグループ内で喧嘩がはじまって、先生が仲裁に入る事態となった。発端となった男子は先生からやんわりと諭されていたが、暁人はもう花の形のニンジンを食べる気分ではなくなっていた。
     ほかはきれいに完食したお弁当箱のなかに、手付かずの梅の花がふたつ。せっかく作ってくれた母への申し訳なさはあっても、どうしても箸が進まなかった。
     そのあとの記憶は暁人から抜け落ちている。母になんと言って弁当箱を返したのかも。だがそれ以降、梅の形のニンジンが弁当箱に入れられることは、二度となかった。

     あの飾り切りのやり方が分からないのだと暁人は苦笑した。
     中学に入って父が倒れてしばらくから、母は家事をする余裕を心身ともになくしてしまい、父の死後三年も経たないうちにあとを追うように亡くなった。母から直接しっかり料理を教わる機会はなく、母の手書きのレシピノートも火事で焼けた。
     今はもう料理の腕がそこそこあるので、いくつかのやり方は思い浮かぶし、動画サイトを見れば素晴らしい手本もたっぷりあるけれど、それは自分や誰かのやり方であって、母のあの魔法とは違うから、とも。

     人生で最も多感な時期に、感情に蓋をして見て見ぬふりを重ねることで心を保ってきた節のある暁人は、あの長い長い夜を越えた今でも、家族の話をほとんどしないし、あまり自らの心情を口にしない。しないというより、うまく言葉にできないのだろう。
     それでも暁人は、KKと食事をともにするうちに、雨が上がって閉じた傘から水滴が伝い落ちて小さな水たまりを作るようにぽつぽつと、家族との思い出を語るようになっていた。
     どうしても感情の吐露は少なめで、出来事の羅列に偏りがちだが、ほとんど言葉にならず何度も喉を詰まらせていた最初の頃に比べれば、近頃は随分となめらかに話せている。

     渋谷から暁人以外の生きた人間が消えた例のあの夜、此岸と彼岸の境界を壊そうとした狂った男から妹を助けようと、暁人は文字通り命を懸けて奔走した。尽力の甲斐あって男の企みは潰えたが、妹は助からなかった。彼女の魂の緒は、それ以前の、火事のあったその日に、とうに絶えていたからだ。
     妹と最期の言葉を交わし、黄泉平坂で両親に別れを告げ。あれからおよそ八ヵ月と少し、視力を失った右目と常ならざる力を抱えながら、暁人は毎日料理を作って、食べている。さ迷う霊の声を聞いて、導いている。言葉を探して、伝えようとしている。
     KKが独り善がりだった過去の二の轍を踏むまいと努力しているように、暁人もまた、今この時を生きてゆこうともがいているのだ。

     静かに耳を傾けるKKの視線の先で、すっかり言葉を出し尽くしたらしい暁人は、潤んで赤くなった目元を隠すことなく、珍しく行儀の悪い音をたてながら、冷めたコーヒーを啜りはじめた。
     いつの間にか洗濯機の排水音は止まっていた。ささやかな雨の音に重なって、カチコチと正確に時を刻むアナログ時計の音が、やたらと存在感をもって二人の間に響く。
     KKは冷蔵庫に貼られたカレンダーをちらりと確認した。今日は五月の第一土曜日。そして来週は……。

     来週の日曜はオレにも弁当を作ってくれよ、それでどこかに出かけようぜ。
     開口一番、KKは軽い調子で暁人にねだった。けどまあ、オレは弁当箱を持ってねえから、まずはその買い出しからだな。今日か明日あたり、そっちにも付き合ってくれ。
     呆けた顔で目を見開いてKKを凝視した暁人は、しばらく唇をふるわせたあと、そんなにハチが好きだとは思わなかったと、細い声で明後日なことを呟いた。
     勘弁してくれとKKは天を仰ぐ。さっきの話を聞いていなかったのか、オレは可愛いものに興味はねえ、こっ恥ずかしいから止めてくれ。うんざりと言えば暁人は意地悪く笑って、一反木綿はどうかと訊いてくる。せいぜい可愛くしてあげるよなどとまったく可愛げのないことをのたまうので、だったらいっそオマエが作った人参の花も付けてくれとKKは返した。
     暁人は一瞬だけ息を呑み、そして、きれいに泣き笑いながら頷いた。
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