新刊進捗私を撫でる手は、優しい。
うつらうつらと陽だまりの中にあって、薄く目を開け、眩しさにすぐまた閉じる。
最近の中では一番上手に撫でてくれる、この男の手が好きだった。
今、住む家は決まっていないけれど、どこかの家でご飯をもらい、少し接待してやり、また好きなところに散歩に行く。そしてどこかの家でおやつをもらい、少し接待してやり、また次のところへ。
接待するといっても、撫でられるのは誰でもいいわけじゃない。構われ過ぎず、弱すぎず、強すぎず、いい塩梅の。柔らかい手も、硬い手もたくさんあった中で、最近のお気に入りは、この男のところだった。
色々な家に顔を出す私のことを、みな好きなように呼ぶので色々な名前があるけれど、この男は私のことを呼ばなかった。
けれど私はこの男に好かれている自信があった。
名前は呼ばれなくても、その目が、私のことを好きだと、そう言っているので。
「また撫でてるの」と家族に聞かれた男は、短く「ああ」と返した。
「好かれているのね」
それに私は是の気持ちを伝えてやりたくなり、ゴロゴロと喉を鳴らす。
餌もあげていないのに懐いているよね、と笑う家族に、「なにかないのか」と男が聞く。
この家は裕福でないことは知っていたので、立ち上がる。
「にゃーん」
そんなことは、求めていないのだ。
私のことを、撫でてくれれば。
大切なものを撫でるように、撫でてくれればそれで。
伸ばされた手に、頭をすり寄せる。
「お前は人の言葉が分かるみたいだ」
当たり前だ。もう何度目かの命なんだから。
たくさん言葉を聞いた。自分が上手に生きるために。危険から逃れるために。安全に生きるために。
優しい人に寄るといい。言葉を荒げない人がいい。いたずら好きの子どもがいない家がいい。
この男のように、優しい目をしてこちらを撫でる人がいい。
火事で男の家が焼けた。
暗い夜に怒鳴り声が響いて、煤けた匂いが辺りに充満していて、煙から遠くに逃げて、同じように逃げてきた他の猫と身を寄せ合って眠った。
目が覚めたときには薄明りで、大きな声はもうしなかったけど、燻ぶった匂いは離れていなくて、もう一度目を閉じる。
気づいたときには家があったところには瓦礫以外に何もなくなって、誰もいなくなって、あの男もどこかに行ってしまった。
死んだのか、助かってどこかに越したのかも結局分からないまま、私は色々な家に行って、たくさんの人に撫でてもらった。けれどもう、あの手には撫でてもらうことはなかった。
きっと忘れてしまうのだ。こんなにたくさんの人に撫でてもらえて、覚えていられるとは思えない。うつらうつらと、日向に座って、目を閉じる。
晴れや雨があり、暖かい日があれば寒い日があり、陽だまりは、いつも暖かい。
あぁ、この手だ。
突然思い出した、自分を撫でる手は、男の手だった。
あれからずっとずっと時が経って、自分がどれぐらい生きたかも、あっという間だったかも覚えていない。
この手が好きだ。
ごろごろと鳴る喉に、男の雰囲気が少しだけ和らいだのを感じた。
覚えていた、ずっと忘れていたけれど、この手が、自分を撫でるのが好きだ。
ふと目を開けると、こちらを見る男と目が合った。
こんな顔だったかな。どうだったかな。前の男の顔は忘れてしまったけれど、今度は忘れないようにしようと思う。でもきっと、また、手で分かると思うけど。
手が離れて、辺りを見回す。この家は普通の家で、困窮することもなく、ちゃんと食べていける家だ。物があって、障子に穴も開いていなくて、畳もそんなに悪くない。
ぐるりと男の周りを回ってから、膝の上に陣取ると、また撫でてくれる。
ごろごろいいながら薄目を開けると、にょきっと男の肩から幼い頭が生えた。娘だろうか。
「もう一匹増やすの?」
「どうだろうな。あいつもうちに住んでる訳じゃないだろう」
落ち着いた声にうとうとしかけながら、しかし聞き捨てならない台詞に耳を立てる。
もう一匹ってなんだ? 誰のことだ?
フンフンと撫でている手の匂いを嗅ぐが、それらしい匂いはしない。
さっき手を洗ったからなあ、と呑気な声が降ってくる。
こちらの意図が伝わっているようだ。
ここが普通の家なら、苦労を掛けないなら、居着いてもいい。
今まではずっと野良だったけど、この男に負担が大きくかからないなら、此処にいたいと思った。
けれどもう一匹家族がいるなら、話は別だ。
既に家族だと、相手が思っているなら、自分はここに居着く権利はない。
やだな。今度は一緒に住みたいと思ったのにな。
ちょっと寂しくなりながら、目を閉じて、飽きるまで撫でてもらった。
ご飯を準備される前に、他の家に向かって歩き出す。
この道のりには覚えがある。
この時間帯に行くのは初めてだっただろうか。
住む人が変わったんだろうか。
自分より先にあの男を見つけたやつがいることが気に食わなかった。
しかし男は住んでいる訳じゃない、と言った。男は飼っているつもりがないらしい。
けれどその猫は、自分の家としている可能性だって十分にある。
また行こう。どんなやつがいるのか、どんなつもりか、見てやらないことには分からない。
数日は他に猫はいなくて、男を独り占めできた。
正確には男がいない日もあったが、いた日で換算して数日、ということだ。
他に用はないので毎日男の家を散歩経路にして、家の様子を伺いながら、他のやつに会わないようにと願っていた。
けれどあるとき、先客がいた。
部屋のど真ん中に丸まって寝ているやつが、ぎろりとこちらを睨んだ。
その瞬間にカッと血が巡って、咄嗟に威嚇の声が出た。
自分には権利がないと思っていたのに、そんなこと全部忘れて。
誰だお前。
お前こそ誰だ。
シャー、フシャーと威嚇の声が狭い部屋に響く。
娘がいないことは幸いだった。怖がらせてしまうだろうから。
足早に部屋に向かう足音。
ストン、と襖が開いて、男が顔を出した。
「こらお前ら」
焦ったような、怒ったような声。
「くろ」
ひょいと「くろ」と呼ばれたやつを男は持ち上げた。
こいつがこの家の先住猫だというのは、動かせない事実だった。
ぐうう、と怒りで喉が鳴る。
「たび!」
誰かのことを、男が呼んだ。誰のことかと思ったが、ここには「くろ」と私しかおらず、男はこちらをまっすぐに見ている。
私のことか。
「たび」
でも、そうやって名前をつけてくれたのは初めてだった。
この人と一緒にいたい。ずっと一緒にいたい。
名前はなんでもいいけど、何度でも呼んでほしい。
くう、と喉が鳴った。
悔しくて悲しくて、庭へ飛び出す。
名前をつけてもらえて嬉しかった。
でもあの猫がいるなら、私はあそこにはいられない。