極上の獲物に魅せられて 僕は、古き城の一室で数ヶ月に一度開かれる吸血鬼たちの会合に参加していた。
吸血鬼は、食料となる人の血を求めて人界に住んでいることが多いから、魔界の情報には疎くなりがちだ。それに吸血鬼ハンターやエクソシストたちの動向なども気になるから、定期的に集まって情報交換をしている。
「……そういえば、聞いたかい? あの魔王が、ある吸血鬼に惚れ込んで、血を捧げてるって噂だぞ」
長い銀髪を束ねて前に流している吸血鬼が、ワイングラスを優雅に傾けながら話す。
「……ッ!」
僕は口に含んでいたワインを吹き出しそうになって、必死に飲み込んだ。
以前、魔王が代替わりしたという話をいち早く持ってきたのも彼――大般若くんだ。彼の血族のひとりが旅好きらしく、色々な情報を集めてくるのだという。
彼の話を聞いた吸血鬼たちからは『まさか』『血は魔力の源だろう?』『頂点に立つ魔族が誰かに血を捧げるなんて、あるはずがない』『魔王は冷酷で、敵対するものは容赦なく燃やすと聞いたぞ』と口々に懐疑的な声が上がる。
「…………」
僕は背中を冷や汗がだらだらと流れ落ちるのを感じていた。
「まぁ、そうだよなぁ。光忠さんはどう思う?」
突然話を振られて、内心激しく動揺する。
「えっ……、ああー……、うん、古来から、恋は盲目だと言うし、そういうこともあるのかもしれないね」
「魔王の本気の恋……か。浪漫があるな。魔王を虜にした傾国の吸血鬼とはいかなる美姫か……」
僕の適当な答えに納得したのか、大般若くんが芝居がかった口調で続ける。
僕はますます居たたまれなくなった。身だしなみに気を遣うようにはしているけれど、間違っても僕は傾国の美姫なんかじゃない。
あれから定期的に魔王は血を吸わせに来てくれた。その度に『好きだ』『愛してるよ』『一緒に暮らそう』とあのいい声で熱烈に口説かれている。魔族は基本的に力がすべてで、皆も言っていた通り、魔力の源でもある血を誰かに分け与えるなんてしないものなのだ。
出会った時の一回を除いて、血と引き換えに抱かせろなんて言われたことはない。(『僕の印を付けていかないと』って長く濃厚なキスはされるけれど)
飢えている時に血と引き換えに身体を要求されたら、空腹に耐えかねて彼を憎みつつも抱かれるしかなかったかもしれないのに。
そうでなくとも、魔王は僕より遥かに強い。魔力で圧倒すれば、無理やり僕を従わせることだって可能だ。
それをしない理由を尋ねたら、『光忠にも僕を好きになってほしいから』と言われた。
意味がわからない。
魔族の頂点に立つ彼が望めば、何だって手に入るはずだ。僕は吸血鬼の中では強い方だとはいえ、見返りなしに血を捧げて執着する理由なんて……。
「魔王の血ってどんな味がするんだろうな」
僕が懊悩している間に、ひとりの吸血鬼がそんなことを言い出した。
どんな、って、一度味わったら他の血は口にできなくなってしまう、至高の味と香り――
「魔王って物凄い美形だっていうじゃない? その腕に抱かれて血を吸わせてもらえるなら、死んでもいいわぁ」
太腿に深いスリットが入った黒いドレスのセクシーな吸血鬼が、身体をくねらせてうっとりと呟く。
「魔王の――実休の血は、僕だけのものだ」
突然立ち上がって宣言した僕に、室内は静まり返って、全員の視線が突き刺さった。
僕はどうして、こんなことを。
だけど、僕以外に首筋を晒して血を吸わせる彼を想像したら、ひどく腹が立ったのだ。
彼に触れるのは、僕だけがいい。
「光忠さん? あんた……、っ」
薄暗い室内で、ランプの明かりに照らし出された僕の影が揺らぎ、紫の昏い炎が絨毯の上で燃え上がった。
「嬉しいよ、光忠」
突如として室内に姿を現した魔王の腕に抱き竦められる。その場を支配する圧倒的な魔力に、吸血鬼たちはへたりこんで動けなくなくなり、呆然と僕たちを見ていた。
紛れもなく、彼は王だ。
「初めて、自分から僕を呼んでくれたね。もちろん、僕の血は光忠だけのものだ……」
衆目の中、頬にキスされ、上機嫌に頬擦りされて懐かれて、『呼んだわけじゃない』なんて言い出せる空気ではなくなってしまった。それに、僕だけのもの宣言したことまで知られている。
僕はとうとう観念した。いつの間にか芽生えていた感情と、独占欲にも気付いてしまったから。
「……僕の眷属に貴方を紹介したくて。これから……僕は魔王と一緒に住むから、会合にはもう来ないよ」
「あ、ああ……お幸せに……?」
高位の吸血鬼である大般若くんが、何とか声を出す。
「連れていってくれるんだろう?」
早くこの場から立ち去りたい一心で、魔王の首に腕を回して囁く。
「そう言ってくれるのを……待ってた」
見るものすべてを魅了するような紫の双眸で見つめられて、甘く囁かれる。胸の奥がきゅっとなって、落ち着かない気持ちにさせられた。もう逃げられない。彼の血を吸ってしまった時から、呪いのように他の血を受け付けなくなって、逃げられないのは確定していたけれど。
ばさりと彼のマントに包み込まれたかと思うと、視界が暗転した。
「ええ……っ、と、ここは……?」
一瞬で違う場所に転移してきて、辺りを見回す。
実休の首に腕を回したままだったことに気付いて慌てて離れた。
「光忠のために準備していた部屋だよ。気に入ってくれるといいな。欲しいものがあれば、家具でも本でも好きな物を運ばせよう」
窓のない地下室のようだけれど、じめじめしていなくて、快適な温度と湿度が保たれている。
重厚な黒大理石の壁に囲まれた部屋は、僕が住処にしていた部屋の五倍はありそうな広さだった。大きな天蓋付きのベッドが目を引く。
僕の視線の先にあるものに気付いたのか、すっとそちらに誘導されて焦る。
「あ……っ、あの」
ベッドには赤い薔薇の花びらが散らしてあった。みずみずしい薔薇の香りがする。
「うん? どうしたの?」
ベッドのあからさまな演出に動揺している間に薔薇の香りの中に押し倒され、上から覆い被さられた状態で見下ろされる。
心の準備が……と言い出せるような雰囲気じゃない。
「ああ……前回から数日経っているから、お腹が空いたのかな。これからは、毎日吸ってくれていいからね」
妖艶な笑みを浮かべた魔王が襟元を緩め、僕に向かって首筋を晒した。
「……っ」
晒された肌から、くらくらするほどいい香りがする。炎のような紋様が絡み付く肌に牙を突き立てて、極上の血を啜りたい。抗い難い誘惑に、僕は魔王の背に腕を回して抱き寄せた。
焦って味わうのはもったいない気がしてしまって、浅く牙を立てて滲み出した甘露をぺろぺろと舐める。くすぐったそうに笑うのが、重ねた身体から伝わってきた。僕だけのものだと言ってくれる、僕には優しくて……この世に存在するようになってから数百年後に初めてできた愛しいひと。
「実、休……美味しい」
回復力がすごいのか、舐めている間に肌の傷が消えてしまう。そうしたらまた違うところをかぷりと噛んで、舌が蕩けそうな味を楽しんだ。
熱い魔力を秘めた血を取り込んで、指先までじんわりと彼の魔力で満たされていく。
「そうやって僕を味わってくれるのも……可愛いな、光忠……」
吐息混じりの甘い低音で囁かれて、彼の下になった身体がびくりと震えた。
「いつも、僕の血を吸って、勃ってたの……?」
「ひぁ……っ、違っ……、あの、これは」
上から股間をごりっと押し付けられて、さぁっと血の気が引く。
いつの間にか僕の前は確かに張り詰めていて、密着した体勢では言い訳ができない。だけどそれ以上に衣服越しでもわかる凶悪な大きさと固さを持ったものが僕を現実に引き戻した。
ここに来たってことは、抱かれるのも了承したってことになるよね……?
だけどまだ覚悟と心の準備が……
「じゃあそろそろ……僕にも光忠を味わわせてほしいな」
魔王がにっこりと笑みを浮かべるのは、今の僕にとって恐怖でしかなかった。