紫焔に熔ける琥珀の夜・1「おかえり、実休さん。酒盛り、楽しかった?」
「ああ、ただいま。楽しかったよ」
文机に向かい、来週の献立表の作成と必要な仕入れの計算をしていたところで、実休さんが僕の部屋に戻ってきた。
実休さんはつい先日この本丸に顕現したばかりだ。それで、極の練度も上がりきって時間がある僕が、兄弟刀ということもあり彼の教育係を担当していた。本丸の生活に慣れるまでの一ヶ月間は、同じ部屋で寝起きすることになっている。
今夜は中規模の酒盛りが行われていたけれど、僕はあまりお酒が得意ではないのと、献立表作りの仕事があったから、最初だけ顔を出して早めに引き上げていたのだった。
「光忠は……まだ仕事が?」
実休さんと福島さんは僕のことを『光忠』と呼ぶ。ふたりとも『光忠』なのだから、そう呼ばれるのはどうかと思ったのだけれど、彼らの中でこの本丸の『光忠』は僕のことらしい。
「いや、もうほとんど終わったから寝るよ」
僕はペンを置いて寝支度を始めた。
「……ねえ、……光忠は、誰かを抱いたり、抱かれたりしたことはあるのかい?」
「……っ、急に、どうしたの?」
布団を敷いてもう寝ようかというところで、突然爆弾を落とされた。実休さんがさっきから何か言いたそうにしていたのはこれだったのか。
「酒盛り中にそういう話になってね。深酒をすると勃たないという話から……」
男所帯だから時には下ネタが飛び交うのも仕方ないとはいえ、一体何の話をしてるんだ。
「ええと……僕は、そういうのには縁がなくて」
自分でも神経質なのはわかっているけれど、少し髪が乱れているだけで気になるんだ。寝起きの姿どころか褥で乱れる様を誰かに晒すなんて考えたこともなかった。
「福島が……あれはすごくいいものだ、と言うから……気になってね」
「…………」
福島さんはこの本丸に顕現してから早々に恋刀ができたはずだ。幸せそうで何よりなのだけど、実休さんに変なことを教えないでほしい。
「お金を払えば相手をしてくれるお店が、万屋街の先の花街にあるよ。刀剣男士専用で政府公認のお店だから安心だし……」
僕は行ったことがないけれど、定期的に通っている刀もいる。作法など訊けば、快く教えてくれるだろう。
「お前ではだめかな」
「……えっ」
青天の霹靂とは、正にこのことだった。
実休さんが起きる前に、ひっそりと布団を抜け出して朝の支度をする。
昨夜は考え事が多くて、ほとんど眠れなかった。
実休さんが僕とそういうことをしてみたい、と言い出したんだ。即座に断らず『どっち側をしたいの?』と聞いたのは間違いだったかもしれない。
『僕は……光忠を抱きたい』
と、ストレートに言われて、断れる雰囲気ではなくなってしまった。
僕は実休さんの教育係だから、必要そうであれば戦で高ぶった時の鎮め方を教えないといけないかな、とは思っていた。
知識が不足している兄弟が、本丸で恥をかくようなことがあってはならない。僕たちは長船派の祖なのだから。
己の手を使うやり方ではなく、身を持って相手をすることになるなんて、思いもしなかったのだけど。
別の刀派の刀に『性交に興味があるから一夜の相手をしてほしい』なんて大変なことを言い出すよりは、まだマシだったと思うしかない。例えば粟田口の刀に戯れに手を出したりなんてしたら、一期くんに激怒されるところだ。
ひとまず、今夜は遅いし準備もあるし……と先送りにしたものの、どうすればいいのか。僕だって、情交の知識はまったくと言っていいほどないんだ。
◇ ◇ ◇
俺の部屋に燭台切光忠が来るのは珍しい。
刀剣男士として顕現して一年半余り。俺は未だに可愛い弟から『お兄ちゃん』と呼んでもらえたことがなかった。燭台切光忠は本丸発足当時から中核として審神者や皆を支えてきた刀で、とっくに修行も済ませているから、俺を『お兄ちゃん』と呼ぶのは恥ずかしいのかもしれない。だが、何となく距離を取られているような気がして、兄としては寂しく思っていた。
「福島さん……ちょっと、聞きたいことがあるんだけど、時間……いいかな」
ついにこの日が来た。困った顔をした光忠が、お茶のトレイを携えて俺の部屋を訪れたんだ。
「おっ、どうしたんだ、お兄ちゃんに相談か?」
「…………」
光忠は否定せずに俯いてしまう。
ここは頼れるお兄ちゃんなところを見せなくてはならない。光忠を部屋に招き入れ、他の刀に聞かれたりしないように、さっと障子を閉める。
「……急に押しかけてごめんね」
「何を言うんだ。光忠ならいつでも歓迎だよ」
光忠は二人分のティーカップにお茶を注いだ。華やかな花の香りがするお茶だ。小皿に美味しそうなクッキーが盛られていて、俺の好みに合わせた光忠の気遣いを感じる。よくできた自慢の弟なのだ。
部屋の中に沈黙が落ちる。
口に出しにくい相談事なのか、光忠は随分と逡巡していた。
兄として鷹揚に構えて余裕を見せなくては。俺は光忠を急かしたりせずに、いい香りのお茶を楽しんでいた。
「……あの、その……抱かれる準備って、何したらいいの?」
「ぶふー!」
やっと口を開いた光忠から思ってもみなかった相談事を聞かされて、俺はお茶を口から吹き出してしまった。
「……っすまん、それで、うちの可愛い光忠を手篭めにしようって奴はどこのどいつだ」
ハンカチで口元と飛び散ったお茶を拭き、刀を出して柄に手を掛ける。光忠は困惑のあまり、涙目になっている。可愛い弟を泣かせるなんて許せん。
「待って、福島さん。別に、無理やりとか脅されてとかじゃないから……相手は、実休さんなんだ」
俺は驚きすぎて刀を取り落とし、ソーサーの端に柄が当たってガチャンと音がした。
話を聞いてみたところ、どうやら俺の昨夜の発言が発端らしい。酒は舐める程度にしか飲まなかったはずだが、俺は素面でも雰囲気で酔えるタイプだ。
昨夜の酒盛りは大層盛り上がり、つい調子に乗って号ちゃんとの惚気話を吹聴してしまったようだ。
「すまない……俺のせいで……」
ものすごく責任を感じる。
「ううん、本丸にいれば、福島さんからじゃなくても、いつかそういう話を聞くことにはなっただろうから……」
「……それで、いつすることに……?」
「え……多分、今夜、かな……」
「急だな……」
お通夜のような雰囲気になるが、藁にも縋る思いで俺を訪ねてきてくれたんだ。どうにか光忠の助けにならなくては。
しかし俺は『抱かれる準備に何をしたらいいか』という質問にどう答えたらいいのかわからなかった。
酒盛りの雰囲気に酔って、『号ちゃ〜ん』と甘えて抱きついて擦り寄っていると、軽々と抱き上げられて部屋に運ばれ、酒の味がする巧みな口付けに腰砕けにされた上で剥かれて解され挿れられて喘がされて気持ち良さにわけがわからなくなって……気が付けば朝だ。
俺は何もしていない。これはいわゆるマグロってやつじゃないのか。今更そのことに気付いて、だらだらと冷や汗が流れる。
「福島さん……?」
俺が何もわからないからといって、号ちゃんから光忠に教えさせたりなんてしたら、実休の怒りを買うのは明白だった。そんなとばっちりは御免だ。
「……実休には話をしておく。だから光忠は心配せずに丁寧に身体洗って脱がされやすい服を着て、布団を敷いて待っていたらいい」
「え……でも、僕が教育係なのに」
人の身を得て八年以上過ごしているという燭台切光忠は真面目で責任感が強い刀だ。
長船派が一振しかいなかった時から、長船派の祖として恥ずかしくないように、伊達政宗に号を貰った刀として誇れるように、厳しく己を律して来たのだろう。
「……初心者が付け焼き刃で無理して手ほどきしたって、ろくなことにはならないだろ? まぁ……あれだ、自覚があるかどうかはともかくとして、実休も誰でもいいってわけじゃないと……思うよ」
よくわからない、という顔をしている光忠の頭をぽんぽん、と撫でる。
俺が実休の邪魔をするのは無理だが、弟のためにできることはしてやらなくては。
俺は大人の余裕があって頼れる恋刀に急いで泣き付きにいくことにした。
◇ ◇ ◇
「号ちゃ〜ん! 助けてくれよ〜〜」
道場で蜻蛉切と手合わせをしている最中に、福島が走り込んできた。
「どうした、何かあったか?」
手合わせの手を止めて、抱きついてきた福島の頭をわしわしと撫でる。蜻蛉切が呆れたような眼差しを向けてくるが、いつものことだ。
遥か昔、同じ主の元にいた一振の太刀。時代が移り変わり、どこにも移動できなくなってからは、二度と会うこともないだろうと思っていた刀。
刀剣男士として顕現してから六年が過ぎた頃、俺はとっくに修行も済ませて、酒と戦だけを楽しみとする日々を送っていた。それで満足していたし、他に俺の心を揺らすものができるなんて、思いもしなかった。
それが、ある冬の日に、顕現するなり俺にしがみついて『もう、離さない!』と泣いた図体のでかい男を可愛いと思ってしまったのだから、仕方がない。
我が儘もおねだりも、なんだって聞いてやりたくなる。
「それが……」
福島は相談事を話し始めたところで、蜻蛉切がすぐそこにいたことに気付いたらしく、顔を赤らめた。こいつがこんな顔をするということは、他の刀に聞かせられないような話のようだ。
「蜻蛉切、ちょっと外していいか?」
「構わん、急ぎの用事なのだろう」
俺は福島を伴って道場の裏手に出た。
「号ちゃん……実休に、閨事の手ほどきをしてやってほしい……、頼むよ……」
福島からの頼み事は予想外のものだった。確かに、蜻蛉切の前で口に出せるような内容ではない。
「おお? 突然閨事だなんてどうした?」
「号ちゃん、めちゃくちゃ上手いし、翌日のこともちゃんと気遣ってくれるから適任だと思って……、使うものとか、手順とか、初めてだとよくわからないだろ?」
何度抱いても飽きる気がしない可愛い恋刀から『めちゃくちゃ上手い』と評されているのは嬉しいものだ。照れ隠しに無精髭が生えた口元を撫でる。
「んん、そりゃあ構わんが……実休、なぁ」
右府様の佩刀で、本能寺で共に焼けたという逸話のある刀。福島、燭台切と刀工を同じくする長船派の刀剣男士。顕現して日が浅く、付き合いが短いせいもあるとは思うが、素直で感情が表に出やすい福島と違い、何を考えているのかよくわからん刀だ。
そんな刀に、顕現して早々、情を交わす相手ができたというのは意外だった。福島が必死になっているところから相手が誰なのか察せられたが、あまり首を突っ込んでも厄介なことになりそうだ。
あいつも極なんだし、兄弟相手ならいざとなれば自分で何とかするだろう。俺は福島の頭をわしゃわしゃと撫でて息を吐いた。
「それで……、話って、何かな」
練度上げで朝から出陣していた実休が本丸に帰ってくるのを待ち構えておいて、『話がある』と物陰に引っ張り込んだ。
口元は微笑んでいるが、妙に圧がある。
「あー……、余計な世話かもしれんが、これやるよ」
手提げタイプの紙袋を実休に押し付ける。
袋の中を見た実休が、すっと真顔になった。それと同時に周囲の温度が下がったような気がする。
「……あの子が、君に相談を?」
ひっ、と息を呑んだ福島が、俺の後ろに隠れてツナギの端を握り締めた。
「おい、俺に嫉妬するなよ。俺は福島に頼まれただけで誰がどうとかまで聞いちゃいねぇ」
「俺も余計なことは言ってない……!」
福島が俺の後ろに隠れたまま主張した。
「…………」
言葉の真偽を確かめるように、実休の紫の瞳がひたりと俺を見る。
右府様の佩刀だっただけのことはある。実休にはただそこにいるだけで、周囲を威圧し従わせる雰囲気があった。福島が畏れるはずだ。
普段はその苛烈さを感じさせず穏やかに振舞っているところは、燭台切と似ているのかもしれない。
「……わかった。ありがたく、いただいておくよ」
ふっと雰囲気が緩み、俺は無意識に詰めていた息を吐き出した。
「その赤いやつは、乾きにくくて密着感が高まり、ぬめりが長く持続する潤滑剤だ」
「ふぅん、僕が舐めて濡らそうかと思ってたんだけど」
「あいつが羞恥心で折れるからやめてやってくれ……!」
福島が俺の後ろから必死に言っている。確かに福島も穴を舐められるのは嫌がるな。初めての伊達男には尚更、難易度が高いだろう。
「それでこっちは零れないように装着するやつだ」
福島のサイズを参考に、複数箱入れておいた。
「……必要かな?」
当然中に出すつもりらしい。まぁ好きな相手を内側から染め上げたい気持ちは分からなくもない。
「あんまり中に出すと神気が混ざって皆にばれるぞ。相性によっては翌日まで神気に酔うしな。それで構わんって言うのなら止めねぇが……。あとはまぁ、畳が汚れないようにとか、外でする時服を汚さないようにだな」
「ふむ……、外でしてるの? 福島」
「そこで俺に振るか え……っ、遠征、長い時とかだな……うあああ」
真っ赤になって撃沈した福島が、しゃがみ込んで俺の脚にしがみつく。
俺は脚に福島をくっつけたまま、一通りの手順と後始末を説明した。
「……っと、こんなところだな。せっかく情を交わせる身体を手に入れたんだ。あまり無茶せずに愉しめよ」
「……うん、心遣いに感謝するよ」
俺はまだ足元にいる福島の腕を引いて立たせた。
そのまま腰と後頭部に手を回して、実休の目の前で福島に深く口付ける。
「え……っ、ごうちゃ……んんー!」
焦ってじたばたしていた福島も、いつものように舌を吸って甘噛みしてやるとすぐに大人しくなった。
「……っは、ぁ……んんっ」
何度か角度を変えて口付けながら、たっぷりと時間をかけて舌を絡め、敏感な口の中の粘膜を愛撫してやる。
福島がくったりしたところで唇を離した。
「俺はこいつ以外眼中にないから、変な嫉妬はしなくていい。何かあったら相談に乗るぜ」
「……ふっ、君の本気はわかったよ。福島のこと、よろしくね」
実休は俺が渡した紙袋を持って、本丸の方へ歩いていった。
「ふぅ……、何とかなったな」
「ごうちゃん……」
一息ついた俺の腕の中で、何故か福島が半泣きになっている。
「おい、どうした」
「号ちゃん! すき! 愛してる!」
「おうおう、熱烈だな」
「俺、もっと頑張るから……! マグロだなんて言わせない!」
「誰も言ってねぇよ。酔うにはまだ早い時間だぞ?」
宥めるようにぽんぽんと頭を撫でてやると、福島は頬を染めて目を逸らした。肌着の胸元をきゅっと握られる。
「……夜、しよ、号ちゃん……」
福島がただ甘えて来るだけじゃなく、閨事を『しよう』とはっきり誘ってくるのは珍しい。さっきの口付けの余韻も相まって、ふつふつと身体の奥底が滾るのを感じた。
「……酒盛りの予定を、断ってこねぇとな」
ぐっと顔を近付けて、夜の声で囁く。俺と目を合わせた福島が息を呑んだ。瞳の色が赤くなっているのかもしれない。
夕餉の後の予定を待ち遠しく思いながら、逸る気持ちを抑えて、腕の中の恋刀をもう一度抱き締めた。