空夜 やけに冷える夜だった。
回廊の石壁は氷のように冷たく、吐く息が白く浮かんでは消える。護衛のために姿勢を正して見通した回廊は燭台の灯りだけでは心許ない暗さだ。堅牢な石造りのハイラル城内は外敵の侵入を拒むには適しているがその分暗く、こんな夜更けには底冷えしてしまう。
背後の重厚な扉を一枚隔てた向こう側で、姫様は暖かく過ごされているだろうか。暖炉の薪は足りているのか、綿のたっぷり詰まった毛布も用意されていただろうか。近衛の隊服を着込んだ自分でさえ寒さを感じているほどだ。我慢強い姫様とて、今夜の冷気は堪えるだろう。
姫様の部屋付きの侍女たちがどれほど主君の体調を慮っているか、外野として口に出すことはなくとも気に懸かる。姫様はご自身のこととなると、特に言葉を控えてしまわれるひとだから。だからその変化を見逃さないようつぶさに見守っているのだがどうも姫様には誤解されているように思われる……。それでも己が嫌われようと、姫様の御身が第一であることには変わりない。それが姫付きの近衛騎士にできる唯一の仕事だと自負しているからだ。ともかく、姫様が寒さに震えていやしないかどうかだけが目下の懸念事項だ。
「リンク様。ゼルダ姫様がお呼びでございます」
その微かな憂いを払拭するかのように絶妙な間合いで侍女から入室の合図が送られた。壮大な扉が開かれて天鵞絨の分厚いカーテンを寄せられるとついに姫様の私室へと足を踏み入れた。暖炉に焚べられた薪がパチパチと音を立て、暖かな空気が頬をなでる。すっかりあたためられた室内の様子に、ほっと胸を撫で下ろす。室内をさっと見渡すと暖炉前の特等席に座って手紙を読んでいた姫様が顔を上げた。夜更けではあったが直前の公務で召した正装のロイヤルブルーのドレス姿のままだ。お傍まで歩み寄り、礼をして侍る。
「寒かったでしょう」
平気です、と答えると柔らかな眉は下がりどこか苦しそうな面持ちで微笑まれてしまった。寒さを感じない訳では無いが、実際これくらいの温度には耐性があるし、雪中での戦闘はさらに過酷を極め、霜焼けを患う兵士が後を絶たないほどだ。しかしハイラル王家に仕える軍人として泣き言は言えないだろう。
「……さすが、退魔の剣士は違いますね」
姫様は手にしていた手紙を封筒へ仕舞うとローテーブルの上に置いて、じっとこちらを見据えた。テーブルの上にはレターセットが用意されていて、これから返信を書くつもりなのだろうか。すでに伏せられた羊皮紙が何枚も端に避けられているのが気になった。手紙が完成すれば先方へ届けよと、室内に招かれたのはその用向きだろうか。姫様の視線に応えるように見詰め返すと、美しい唇が震えて言葉を紡ぐ。
「今日の射撃演習も見事でした。貴方は……剣の腕前だけでなく、弓使いもリト族の戦士に引けを取らないほど素晴らしいなんて。最後の的を射た時の針に糸を通すような正確さ……あらためて驚かされました。きっとリンクは私と違ってどんな時も判断を誤ることなどないのでしょうね」
耳に届く賞賛の言葉がどこか空虚に感じられた。わざわざ呼び出してまでまさか皮肉を言われているのかと計りかねたが、姫様はそのようなお人ではないことは百も承知だ。むしろその苦しげに歪められた眉根を目に留めながら手放しに喜べる忠臣などいないだろう。何が姫様をそうさせるのか、真面目で責任感の強い主君の心を思う。自分とて咄嗟の判断が甘かったと思うことは内実あって、しかし敬愛する主にそう見えているならある種幸いだと身に余る言葉を黙って受け止めた。
「私も見習わなくてはなりませんね。貴方のように真っ直ぐで気高く、正しい選択を。ハイラルのために、何一つ、判断を誤らないように」
暗い視線を絨毯に落として、もはやこちらを見ずに姫様はそう呟いた。そしてテーブルに広げた手紙を見据え、震える手を暖炉に翳しながらゆっくりと呼吸を正すと向き合った羊皮紙に手早くサインをして、封に赤い蝋を垂らした。ふ、と吐息が零れ未だかすかに震える手から封筒を差し出される。
「これを御父様に渡していただけますか」
血のように赤い王家の蝋印が刻まれた封筒を受け取ると、姫様は一度ぎゅっと目を瞑り鈴のように美しい声ではっきりと言い放った。
「先日申し込まれていた縁談を受けます」
突然、時が止まったような気がした。後頭部を強かに殴られて昏倒させられたような感覚が襲う。今、姫様はなんて言った?
己の肺は呼吸をすることを忘れ、錆び付いた道具のように停止していた。戦闘中ですらここまで機能が停止した覚えはない。覚悟を決めたように張り詰めた翠の瞳と己の瞳が交わると途端に心臓から脈が押し寄せあからさまに呼吸が乱された。感情も、表情も乱すな、近衛騎士失格だと内心で己を責めても動悸は少しも収まらない。
「先方にはしばらく返事を待たせてしまいましたから、どうか早めにお願いしますね」
手元へ視線を落とすとその宛名には見覚えがあった。姫様の整った筆跡が表すのは先日の舞踏会でさもしい振る舞いをしていた他国の大貴族の名。ご立派なのは家柄だけで、野心を隠しもしない下卑た男の笑みが脳裏を過ぎり、嫌悪感が湧き上がる。見え透いた口車と家柄だけで姫様の心を動かせるはずもなく、舞踏会での姫様の引き攣った笑みを忘れてはいない。意識的に笑顔を作られてはいたが、姫様だけを注視している俺には無理に取り繕った表情と本来の素晴らしい笑顔を見間違えるはずもない。……姫様からの笑顔が自分に向けられたことはほとんどなくとも、だ。端から見守るだけでその美しさに目が眩んでしまう。俺でさえ微笑んでもらったことがあるというのに、姫様からの笑顔ひとつ引き出せない、あのような輩が姫様に相応しいはずがなかった。
「あの……? 御父様ならまだお休みになっていないと思いますから、すぐに届けていただけませんか。私の正しい決心が鈍らないうちに……早く」
悲痛に沈んだ声色と、所在なさそうに組み合わされた手を見れば本心は明らかなのに、何が、どうなったら正しい選択だというのか。辛そうな心を押し隠して微笑まないでくれと叫び出したい衝動に駆られ自然に眉根が寄ってしまう。姫様を見つめる瞳に炎が映り揺らめいた。先程受け取ったばかりの封筒は握り締められて醜い皺が寄っている。
「リンク……?」
「正解も、そして過ちすら後の人が下す評価でしかありません」
姫様が幸せになれない縁談を受けるなど、正解の道と言えるはずがない。ならば。
白いグローブに包まれた手を完全に握り締めると手紙はぐしゃぐしゃに潰れ、そのまま暖炉へ放り込むと勢いよく火の粉を上げ瞬く間に灰となった。僅かな煙すらあっという間に霧散していく。それらが消えたあたりで、唖然として固まっていた姫様が声を上げた。
「な……、何をするんですか!」
「姫様には他にも正しいお相手がいくらでも居りましょう。あのようなお相手では姫様の御為になりません」
「だからって勝手に手紙を燃やすなんて! いったい何を考えているの……」
「……姫様が仰ったんでしょう。私がいつも判断を間違えることがないと」
「そういうのを詭弁と言うんです!」
信じられないものを見る目が差し向けられる。幼少期、力に目覚めてから常に正しい選択をしてきたつもりだ。姫様を守る力を得るために、たゆまぬ鍛錬を重ね、人の役に立つこと、ハイラルの勇者として、英傑として、模範の騎士として。真っ直ぐに迷わずにいられるのはすべて姫様が居ればこそ。いつものように黙って従っていればきっとそれは従者としては正解だっただろう。水気を含んだ翠眼に暖炉の光が反射する様はどこか現実味のない光景に見えた。膝の上でぎゅっと握りしめられた小さな拳が震えている。
「姫様の御為を思えば、私のことはなんとでも。それとも、正しさに囚われるばかりで、自分は融通が利かない軍人だと思われますか」
「……全く、主の手紙を燃やしても平然としているなんて。……でも、そうですね、いつか貴方の言うところの正しい王配を迎え、私が女王になっても貴方が間違うところを生涯見ることはないのかもしれませんね」
そんな貴方も一度は見てみたかったと零して、また覚悟を決めた様子の姫様が悲痛な面持ちで俺に微笑みかけた。縁談の話は先の一件以外にもいくらでも控えているのだろう。どの相手だろうと姫様が笑顔になれない男などハイリア神が許したとしても、俺は。
「姫様」
改まって呼びかけると、姫様は少し肩を震わせてこちらを一瞥した。何か普段と異なる気配を読み取る聡い主君に敬愛の念を感じる。
「お望みならば、間違えてみせましょうか」
ソファの縁に手をかけ姫様を見下ろせば吐息がかかりそうなほどの至近距離にその美しい顔が迫る。模範足れと騒ぐ影の己が主人を上から覗き込むなんて、と無礼な振る舞いを咎めてもこれから為出かすことに比べれば取るに足らないと心の声を捻じ伏せる。
困惑した姫様の「えっ」と小さく開かれた唇に己のそれをそっと重ねた。そして彼女が状況を理解するより前に上体を離すと、跪いて頭を垂れた。瞬く間の出来事は、触れた柔らかな感触がなければ甘美な幻のように思えた。
「恐れながら申し上げます。姫様が笑顔でお過ごしになれないような男を王配に迎えることが正しいと私には思えません」
「そんなこと……そんなことを言うために、い、今貴方は……」
目を伏せたままそっと窺うように見ると姫様が震える指先でドレスを握り締めている様子が目に入る。出来ることならか細い指先を暖めて差し上げたいと願ってしまう。暇を出されてもおかしくないことをしておきながら、どこまでも欲深い己を内心嘲った。
「出過ぎたことをしました。如何なる処罰でも覚悟はできています」
そもそも、過ちならとうの昔から犯している。姫様は知らないことだろうが、主人に対して懸想する騎士など模範になれるはずもない。許されない、不敬だと影の己がまた咎めた。
「……他に……。……言いたいことはそれだけですか……?」
「言い訳などありません。私が忠誠を誓ったのは姫様ただおひとりです。そして正解も過ちも、ただの結果論でしかないとお伝えしたかったのです」
室内に暖炉の薪がはぜる音の他はなく、何もない空間に取り残されたように静かだった。姫様は静かにソファから立ち上がると己の横を音もなく通り過ぎて窓辺に向かい、そのまま別れの言葉を告げた。
「リンク。しばらく英傑の任務にだけ専念してください。私の護衛は要りません。縁談の手紙は……しばらくは出さないことに決めました。貴方がそう言ったとおりに。満足ですか」
「……深厚なるご恩情を賜り、感謝申し上げます」
姫付き任務の謹慎だけで済んだのは姫様の情けに違いなかった。重厚なカーテンの紐を引き退室の合図を送ると、来たときと同じように壮大な扉が開かれて冷え切った回廊の冷気が身体を苛んだ。
退室の礼を深くして、最後に顔を上げた折のこと。磨き上げられた窓に反射した姫様の表情が脳裏に焼き付いて片時も消えない。
──深い哀しみに暮れる瞳が空夜に滲んでいた。
姫様。それでも俺はいつだってあなたを。