ぽぽ誕2023【おまけ】おまけ
凡そ涙も引いた乱歩が徐に立ち上がった。そうして福沢の方に向き直ってから再び其の上に座った。
理由は分からぬがやけに得意げな顔をしている。
乱歩の意図が判らず怪訝な顔をしていると、其の儘首に靱やかな腕が回された。
出会った当時から乱歩は福沢の首に纏わり着く事を好んでいる様だった。何かと子守熊の様に張り付いては離れないを繰り返した経験した記憶がある。
今回も乱歩の機嫌が善い為、福沢はその手の戯れかと考えた。
然し、福沢の予想を裏切り、乱歩の赤く色付いた柔らかな唇が自分の物と重なった。
しっとりと吸い付くように触れ合った唇は、其れでも名残惜しみ乍ら離れていく。
欠片程の悦楽を肌で感じながらも、福沢は乱歩の予想外の動きに驚く。
乱歩はしたり顔を止めない儘、じっと福沢を見詰めた。
日々五月蝿い程語る乱歩は、其れを止めた瞬間に妙な色香を纏う。まるで普段年齢依りも幼く見られる乱歩を実年齢が追い越すように。気怠さと退廃的な雰囲気をあれは背負う。
加えて何依りあの瞳だ。普段は長い睫毛に隠された儘の、全てを見透す目。あの何事にも変えがたい透明な瞳は、時に蠱惑的に此方を刺激する。
見詰め合いぶつかった瞳に誘われるように今度は福沢から唇を寄せた。
先程の接吻とは長さも深さも全てが違う。仕掛けた乱歩のものに比べると、福沢の返しは随分と刺激的であった。乱歩からは殺しきれない嬌声が鼻から抜けていった。
乱歩が疲弊する前にと早めに唇を解放すれば、未だ余裕がある様で得意満面で首に回していた手を福沢の肩に置いて、力を入れた……らしかった。
ぎゅっと肩を掴まれたのは判断出来たが、乱歩程度では福沢を動かすことは出来ない。単純な力不足だ。
「もうッ! 福沢さんはちゃんと空気を読んで倒れてよ!!」
「……倒れるのは善いが此処でか?」
現状、普段寝室にしている座敷に居る二人。然し、未だ布団は敷いていなかった。硬い畳の上で寝転がるのは福沢としても避けたい。
福沢の云おうとしている事が判ったのだろう。福沢と畳を乱歩の視線が何度か往復してから、眉間に皺を寄せてぐぬぬと唸った。
「福沢さんッ! 布団敷いてッ!!」
「敷いてもいいが今日はせんぞ」
「な、なんで……?! 此処は〝スる〟流れでしょ!?」
深く溺れるような接吻を乱歩に仕掛けておいて云う事では無いだろうが、こればかりは仕方が無い。
明日は休日では無いのだ。福沢は兎も角、乱歩が何時も通りに動ける未来が見えなかった。
「そんなの善いよ、出社してから寝るから」
「駄目だ。他の社員に示しがつかん」
唯でさえ、誕生日だからと今日を好き勝手したのだ。明日は素直に働いてくれねば困る。
「じゃあ明日休むからさあ……」
「尚悪い」
想像してみろ。明日一人出社してきた私を皆が如何思うのか。
先ず与謝野くんには揶揄した表情をされ、太宰も察して何事か云ってくるかもしれん。国木田や敦等、年若の社員達には心配させてしまうだろう。
「僕が善いって云ってるのに……珍しいでしょ、僕が誘ってあげてるんだよ?」
確かに乱歩が閨事に誘うのは珍しい。無いと云っても過言ではなかった。
福沢としても魅力的な誘いで、心刺激される状況だ。
「……だとしても、だ」
「………………頑固者」
何とでも云え。
それにしても、先程社員を思い浮かべた際に此方の関係に勘づく二人を思い出し、ある感情が浮上する。
「……若しかして、未だ根に持ってるからシてくれないの? もう隠し事なんてしないから! ねっ?」
「其の事に怒っているのでは無い」
謝る乱歩に、否定の言葉を送る。其方に対する怒りはとうに過ぎた。
抑も、他者への隠し事を完全に無くす事等出来無いだろう。其れが何であれ大なり小なり、誰しも己の心だけに留めておきたいものが存在するのだ。親しき仲にも礼儀あり、と云う言葉もある。強制するつもりは福沢には無かった。
福沢の言葉を聞き、乱歩は少しだけ黙り考える。
「……あっ、僕は執念深い社長でも好きだよ?」
「……………………其れでも無い」
帰路時の自身が発した言葉を思い出したのだろう。福沢は的外れな回答に頭が痛くなったが、心は軽くなった。誠に遺憾である。
「じゃあ何なのさ」と、むくれた顔で此方を見る乱歩の頬を軽く摘む。
昔に比べれば随分と減ったが、相変わらず十分に柔らかい。
「……乱歩、お前に云ったことは無かったが、兼ねてより憤懣やるかたない想いを抱く時がある」
「えっ?! 何?? 怖過ぎる!!」
「気付いたのはつい三、四年前なのだが……」
「長いよッ!! 心の内に秘めるくらいなら早く云って!」
「…………どうやら、私はお前に特別扱いされたい様なのだ…………」
——————沈黙。
其の沈黙が福沢には痛かった。身体中を羞恥の想いが駆け巡る。身体中の血管を通り酸素を行き渡らせる血液の様に、一気に身体を慚愧の念が支配した。
乱歩の呆れたような視線と一向に破られない静寂に、早くも胸の内を吐露した事を後悔し始めていた頃、漸く乱歩が口を開いた。
「………………僕、しているよね。福沢さんも判ってるでしょ?」
其れは勿論、判っている。乱歩が福沢と他者との反応が違う事等、多少乱歩を知る者なら誰しもが気付くことだ。誰の云う事も聞かない乱歩が、唯一従うのが福沢である事も。福沢に怒られれば萎れ、褒められると喜ぶことも。
「じゃあ何……福沢さんは僕に特別扱いされないから怒ってた訳? 何時どんな状況の、どの段階でそう思ったのさ」
不本意だと在り在りと判る顔で、此方を見る乱歩の問い掛けに思わず身動ぐ。
「…………昔からお前が周りと私を同列に扱った時や、私依り他者をお前が優先した時等……状況は、様々だが……」
普段言葉数は少ないがはっきりと物を云う福沢にしては珍しく、歯切れの悪い回答。
「……容認出来る時とそうでない時の違いも定かでは無い……狭量だと自分でも思うが……如何しても、其の様に思う時がある……」
云い訳の様に聞こえるな、と思い乍ら口にした福沢は、乱歩から目を逸らしながらも話を続けた。
「今日の事も……お前の秘事にでは無く、太宰から花を受け取っていたお前や、俺が知らず与謝野くんが知っていた事に腹を据えかねていた。社員に対して其の様な事を考えてしまうとは……偏狭な男ですまんな」
乱歩が福沢の事を嫌いになる事はない。其れは断言出来る。然し、幻滅しないかと云われれば話は別だろう。
若し、乱歩が僅かでも自分の行動で落胆する様な一家言を持つ事があるのなら……。
他人の評を気にしない福沢であっても落ち込んでしまう。抑も、乱歩は福沢にとって他人等と云った枠組みから大きく離れているが。
「……福沢さんってほんっっっと僕の事好きだよね! まあ僕も負けてないけど」
返ってきた言葉は明るかった。
声に引き上げられるように顔を上げれば、普段通りの乱歩が居た。目が合うとこれまたいつも通り笑む。
知らず識らず張り詰めていた心が緩む。強ばっていた肩の力が抜けた。
「でも、僕を欲する気持ちには負けちゃうかなあ〜。ほら僕、そう云うのって余り湧かないじゃない?」
にやり、と口元を歪めて笑いかける乱歩に、床での話を揶揄されているのが判った。其れに関しては福沢も自覚があったが、何も福沢だけのせいでは無い。
乱歩に其の様に云われる謂れは無かった。
「お前も私を焚き付けているだろう」
「そうだね、気持ちだけは負けてないつもりだし。でも行動じゃあ負けちゃうよ。抑も体力が違い過ぎる」
「………………」
福沢にとっては、思わぬ方向からの苦言であった。……否、苦言か? 乱歩の事だ、事実を口にしているだけでなのはないか。揶揄する気持ちの方が大きいのだろう。
「揶揄ってないし、嬉しいんだけど……」
口を尖らせ不満そうにする乱歩。
…………判り辛い。
「序に、今からでもその気にならないかなあって思ったり?」
こてん、と首を傾げ無邪気に笑う乱歩に溜め息が零れる。其の様な誘い文句では、如何な男もその気に等ならないだろう。
福沢の態度にむっと機嫌を悪くした乱歩は、先程と同じく福沢の上に攀じ登ってくる。
「乱歩……」
行動を制そうと名前を呼んだ時。乱歩が福沢の胸囲に腕を回し、確りと力を入れて抱きしめた。そうして其の儘、少しの間心の臓の音を聞くように其の身を預けていたが、少し経つとゆっくりとした動きで身体を起こし顔に近付いてきた。
復もや接吻の一つでも呉れるのか、と眺めていた福沢の意には添わず、乱歩の唇は横を逸れて耳許へと向かった。
其れから、内緒話をする様にひっそりと耳を打つ。
「……ねぇ、気持ち善くさせて……。福沢さんの全てで僕を幸せにしてよ」
甘えにも挑発にも取れる言葉を吐息混じりに囁かれ、福沢の心の臓が大きく跳ねた。周囲の音が聞こえず、目の前の乱歩と自分の心の臓の音だけが存在を主張する。
未だ耳許にある唇から漏れる吐息と、知らぬ間に移動した乱歩の手が、福沢の耳朶を柔く触る感覚とを異様に知覚してしまう。
遥か彼方で喉の鳴る音がした。
「………………………………………駄目だ……」
絞り出すようにして返事をした福沢は疲労困憊しており、宛ら真剣で一試合終えた心地であった。
「……ちぇっ、此れも駄目か」
「…………」
矢張り乱歩の策略であったか。
福沢はこっそり息を吐くと同時に、引っ掛からなかった自分に拍手をしてやりたい気持ちになった。乱歩の福沢を初めて誘惑すると云う意味では大成功である。上手いと云っても善いだろう。
「じゃあせめて福沢さん、手を繋いで一緒に寝てくれる? 誕生日なんだし、此れくらい善いでしょう?」
いそいそと福沢の上から退き乍らそう口にする乱歩は何時もの調子である。口ぶりからは残念がって見えるが、特に未練も無い様だ。福沢の疲労だけがぽつんと取り残される。
正座で首を傾げる乱歩を少し眺めてから「手ならば幾らでも繋いでやる」と、返事を返す。
重ね重ね伝えるが、福沢とて乱歩と触れ合うのを好ましいと感じているのだから。
***
敷き終わった布団に寝転び、顔を突き合わせて共寝に興じる。
敷布団の境界線を超えるように、掛布団の下で手を確りと握り合う。
何時もの就寝時間は疾うの昔に過ぎて居たが、乱歩は未だ話し足りないらしい。
先程からこそこそと周りを気にしなくとも善いのに、小声で話す。
「……年々堪え性が無くなってきたって云ったけど、前言撤回だ。福沢さんってば本当、並大抵な忍耐力じゃないよ。忍耐力大会が在れば一位間違いなしだね。其れとも僕に魅力が無い?」
「…………其の様な事は無い」
現に先程の福沢はあと一歩のところ迄追い詰められていた。果たして、此処迄我慢する理由とは何か。何故自分はこんなにも苦しんでいるのか。等と云った考え迄、内心浮かんでいた。
「……其れなら誘いに乗って呉れたって…………」
「次の休日は覚悟をする事だな」
「……ぁえっ??!」
文句を云う乱歩に宣言すると、吃驚したのだろう。目を白黒させて福沢をちらちらと見詰めてくる。
乱歩の戸惑いも理解出来る。
何故なら、福沢が乱歩と閨事を行う際は其の日に誘う事が多く事前にお伺いを立てる事は無に等しい。まして乱歩当人の意見を聞かず、決定事項として語るのは初めての事であった。
微かに火照る頬を手で押えながら「狡い……」だの「破壊力……」だのぶつぶつと呟いていた乱歩が途轍も無く愛おしく見えてしまうのは、懸想人だから仕方の無い事だった。
其れ以上に、長年成長を見続けてきた愛し子であるのだから依り一層感じるのだろう。
加えて誰に何を云われようと、乱歩は福沢の吾妹であるのだ。乱歩に面と向かって其の様に伝えた事は無かったが、他所では何度か口にしていた。
乱歩の頭を撫でる。
福沢の撫でる手を嬉しそうに享受する乱歩を見て口元が緩む。
「……休日が楽しみだな」と乱歩が小さく呟いたのを耳が捉えて唇の内側を噛んだ。
其れは此方の台詞なのだが、乱歩も同じ気持ちで居てくれるのだと思うと幸福が込み上げてくる。
鼻先に一つ口付けてから「……徐々寝よう。暗くするぞ」と口にした。
乱歩が居るため豆電球は付けた儘にしておくが、そう宣言せねば寝ずに話し続ける可能性があるからだ。
「……手、其の儘寝てくれる?」
「勿論……」
「善かった。……えへへ、福沢さん大好き!」
歳を重ね変化した事、変化しないもの。
其れ自体に重要な物は何もない。何方も乱歩の一部であることに違いないからだ。
然し、其の何方も知っておきたい。
其れが福沢の本音であった。
「嗚呼、私もだ……。乱歩、誕生日おめでとう」
そうして、福沢の言葉に満面の笑みを浮かべる乱歩を見て思う。
この笑顔は生涯変わらずにいて欲しい、と。