キャンプウィルルオ スマートフォンの通知を切り。リュックを背に自転車へまたがる。そして空を見上げ、ひとつ息を吐き出すとペダルを踏み込んだ。
春、と呼ばれる季節が訪れてはいるけれど、朝晩などは冬に縋り付かれているようだ。坂を登る為に荒くなった吐息が白くならないだけで、肺に染み込む空気も、頬に当たる風も痛むほどに冷たい。しかしそれも陽が昇り、息が上がるごとに和らぎ、熱くなっていく。
車の往来も少ない山間の車道を、自転車で駆け抜ける。峠にさしかかった頃、山頂では眩い太陽が煌めき、目を細めた。
なんという、素晴らしい天気だろう。
ル・オーという名の青年は静かにひとり、表情を綻ばせた。
土曜日の昼である。
まだ寒さの残るこの季節、桜も固い蕾の今はキャンプ客もそう多くはない。
はるばる山間のキャンプ場へ辿り着いたル・オーは、受付開始と共に場所の確保へと向かった。
GWや夏休みではないから、それほど場所取りに奔走する必要も無いけれど、先にテントを立てれば後の客は自然と距離をとるものだ。森の中の開けたキャンプ場、その端へと迷わず歩いて行く。
端であればあるほどいい、とル・オー個人は思っている。他の者はどうだか知らないけれど、自分はできる限り誰とも関わらずにこの土日を過ごしたい。
このキャンプ場は見晴らしが良いことで有名だ。桜の木がぐるりと囲むように生えているから、開花時期が迫ると花見会場にもなる。山際には展望台が有り、そこから下を臨めば桜の海が広がる。その先には、ル・オーのやって来た街がジオラマの如く小さく見え、夜景も人気が有った。
しかし、ル・オー自身は花見にも夜景にも興味が無い。展望台から離れた隅へ荷物を置くと、速やかにテントの準備を始めた。
ル・オーがキャンプを始めたのは、社会人になってからである。しばらくは、仕事で疲れているのにわざわざ休日を使って山登り、おまけにテントがあるとはいえ野宿など正気の沙汰とは思えなかったものだ。人生はどう転ぶかわからない。こうして特に予定が無ければ、とりあえずキャンプに来るほどハマってしまうのだから。
荷物は最小限。食料も簡素な物のみ。あとは本を数冊。
テントを作り、低めの椅子に腰かける。
雲のいくつか浮かんだ空は、春の柔らかい色をしていた。鳥の声と、そよ風と共に揺れる葉の音だけの世界。ル・オーは満足げにひとつ溜息を吐いて、それから持参してきた本を開いた。
本の世界からふいに浮上する瞬間が有る。
何かきっかけはあるのだろうが、現実に戻った時にはそれもわからないことさえしばしばだ。理由を確かめる為に、ル・オーは顔を上げた。
いつの間にやら、キャンプ場にはそこそこ人が集まっていた。冬とは違い過ごしやすいし、今日は良い天気だからだろう。また騒がしい季節が来るな、と少し残念に思う。
しかしそれぐらいで集中が途切れるものだろうか。ル・オーはふいに首を横に動かして、一瞬驚いた。
隣、というほど近くはないけれど。エルーンの耳では物音が聞こえるだろう程度の距離に、大荷物の男が現れていたのだ。それも、かなりの巨体である。髪も炎のように赤く、ところどころメッシュも入っているのが見てとれた。その姿にはル・オーでなくたって驚いただろう。
それだけなら、ル・オーも無視して読書が続けられたかもしれない。
ところがその男ときたら、山のようなキャンプ用品を前に、いちいち説明書を開いては首を傾げて、ああでもないこうでもないと独り言を零しているのだ。
(キャンプ初心者、かもしれないが……同伴はいないのだろうか)
周りを見渡してみたけれど、彼の仲間らしき人影は見当たらない。いや、先に着いて準備をしているだけで、後から合流するかもしれない。ソロキャンプにしては荷物が多すぎるし、きっとそうに違いない。
ル・オーはそう考えて、ひとまず読書に戻ることにした。幸い、今回の本は「当たり」だ。実に面白い。多少、隣の男が音を立てても、没頭することができそうだった。
パタン、と本を閉じる。
一冊目が読み終わった。読後の余韻に浸り、ややすると腰が痛むのを感じた。没頭しすぎて姿勢を変えずにいたせいだろう。少し動いたほうがいい。ついでにトイレにも行って……。
そんなことを考えながら、ふと横を見たル・オーは、読書に戻る前と全く同じ状況の男の姿を捉えた。
「……!?」
見事なまでの二度見をし、ル・オーは思わず眼鏡を正した。ほぼほぼ何も変わっていない。スマホを取り出して見ると、もう夕方と言ってもいい時刻である。日が傾く前にテントを張らないと、暗くなれば初心者は余計に苦労するだろう。まだ仲間は来ないのか、と見渡しても、やはりそれらしき姿も無い。
各々が各々のキャンプを楽しむものなのだから、ポツンポツンと立ったテントは離れている。ル・オーの近くといっても、エルーンでなければ物音が聞こえないだろう距離の男は、なにやら金具を付けたり外したりして首を傾げているばかりだ。
(普通、説明書を読めばそんなにかからないだろう……!?)
もちろん、ル・オーは説明書を隅から隅まで、それはもう使用上の注意からエラーコードまで全て読むタイプであるから言えることではあった。
ル・オーは戸惑っていた。
この時間になっても誰も現れない。ということは、もしかしたらソロキャンプの初心者かもしれない。この状況で他のキャンパーに頼らないのは見上げた心構えではあるが、それにしたって無茶が過ぎないだろうか。
ル・オー個人としては、そうした準備不足の人間がどうなろうと知ったことではないけれど、さすがにこの距離で路頭に迷って、挙句キャンプごと嫌な思い出になられるのは少々気に入らない。
ル・オーは散々迷った挙句に立ち上がると、おもむろに彼へと近寄った。
なんということはない。身体を動かすついでだ。声だけかけて、2,3会話をする。彼がひとりではないと確認すれば、後は放っておけばいい。
「ううーん? これをこうして……むう? だがこちら側はこうなっていやがるし……?」
近付くほどに、彼が悩み続けているのが伝わってくる。ル・オーは呆れながらも自然な流れで近寄ると声をかけた。
「君」
「うお! な、なんでいらっしゃるか!」
妙な話し方をした男が振り返る。見れば、大きな体のわりに随分と純朴そうな顔である。そのことにまた多少驚いたものの、平静を装って続ける。
「ひとり、なのかね?」
「そうだが!」
「……ひとりなのかね!?」
「そ、そうだが!」
思わず全く同じやり取りをしてしまった。ル・オーは動揺を鎮めながら、「キャンプの経験は?」と重ねて尋ねる。
「ああいや、実は今日が初めてで……御覧の通り、何をどうしていいやらわからず」
「……なるほど。説明書を読んでもわからないのかね」
「全く、全く。とりあえず一番安い物を買ったら、説明書が読めやがらず……」
そう言うので覗き込んで見れば、びっしりと謎の言語が並んでいる。図が無ければ古文書と言われても信じそうな具合だ。ル・オーはひとつ溜息を吐いて、それから「手伝おうか」と口にしてしまっていた。
「むむ、そ、それは助かるが、しかし迷惑ではありやがらぬか?」
「慣れている者ならさほど時間はかからないものだよ。何を持って来たのか見せてくれるかね?」
「おお……感謝、感謝! こちらがテントで、これがテーブル、椅子に、これが布団で」
「布団」
「そしてこれがバーベキューセットで」
「バーベキューセット……」
「こちらが今夜の夕飯である!」
どん、と置かれたクーラーボックスは、ソロキャンプに似つかわしくない大きなものだった。ル・オーは何度か瞬きをして、それから嬉々として開いて見せてくれた中身にまた瞬きをした。宴会でもするのかという肉の量である。
「……ひとり、なのかね……?」
ル・オーは思わずもう一度同じ質問をした。
彼はウィルナスと名乗った。自らも名乗り、そしてそれ以上のことをお互いに聞かなかった。
次からひとりでも組み立てられるよう、手本を見せて、それからやらせてみる。うまくいくと、子どものように笑って、「できた」と見せてきた。「よくできた」と頷けば、ウィルナスはまた満面の笑みを浮かべる。
そのことに不思議と温かい気持ちになった。これが仕事であったら、イラつきもあっただろうけれど。どうやら自分よりも若そうな彼が、苦労しながらも楽しんで作業をしているのを見守るのは、それほど苦ではなかった。
テントができあがり、口うるさいほど火の取り扱いについて説明する。ウィルナスは始終大きく頷いていたから、きっとちゃんとするだろう。それまでもそうだったから。
ひと段落すると、ル・オーは調理場の使い方やトイレの行き方など、一通り必要なことまで説明した。そんなこんなで、自分のテントに戻った頃にはすっかり日も沈みかけていた。
本の続きは、テントの中で読むことにするしかない。その前に自分も食事を摂らなければ、とカップ麺を取り出す。
そのパッケージを見ながら、ル・オーはぼんやりと先程見たクーラーボックスの中身を思い出した。本当にあれほどの量を、ひとりで食べるのだろうか。羨ましい限りだ。スポーツをしているのか、はたまた土木作業の仕事でもしているのか。
そんなことを考えていると、きゅうと腹の虫が情けない声で鳴く。ル・オーは小さく苦笑して、湯を沸かそうと荷物を漁っていた。
と。
「ル・オー」
声をかけられて、ル・オーは耳を立てて振り向く。見れば、ウィルナスがランタン片手に立っていた。
「なんだね? まだわからないことが?」
「ああいや。その。もし、迷惑ではなかったらなのだが……手伝ってくれたお礼もしたい! 一緒に、食べやがらぬか?」
冗談じゃない。
ル・オーは一瞬そう思った。ここには人と関わらず、ひとりで静かに、ゆったりとした時間を過ごしに来ているのだ。知らない他人と一緒に食事なんて、落ち着かないにもほどがある。
そう思ったのに。
ウィルナスが手に持っていた、それはそれは立派なスペアリブを見ると、また腹の虫が何か喚き散らし始めてしまったのだった。
黄色い寝袋に首まで埋めて。テントの天井を見上げながら、ル・オーはぼんやりと過ごしていた。
端的に言って、ウィルナスとの夕飯は信じられないほど楽しかった。
まずはとにかく食事が美味かった。
炭火でじっくり焼かれたスペアリブは余分な脂が落ち、ただ塩コショウをしただけなのに、どうしてあれほど旨いのだろう。骨を手で持ち、豪快にそのまま食べ始めたウィルナスを真似して、おずおずと食べたあの背徳の味。言い表せないほどの至福を感じたものだ。
ウィンナーにカルビに……と、次々乗せられてはウィルナスの腹の中へと消えて行く様を、驚きを持って見つめた。そのあまりにも純粋に食事を楽しんでいる表情、雰囲気に呑まれてしまった。
非日常の空間、隣で楽しそうにしている知らない男。ここでは何の世間体も無い。真に解放されたような心地になって、ル・オーもまた彼とオチも建設的な意見も無い会話を楽しんだ。
(楽しかった……)
きちんと一緒に火を消して。肉の金を出すと言っても、お礼だからいらないの一点張りの男に、ならこの楽しい時間の礼にと少々の金を握らせた。それで終わりの縁だと思ったのだ。
自分のテントに戻って、眠る準備をしても。何故だか、心が先程までの場所に取り残されているような感覚がした。
(……楽しかった……)
ル・オーは幾度か同じことを考えて、それからゆっくりと眼を閉ざした。
「感謝、感謝! 何から何まで教えてもらって、すまぬなあ」
翌朝。結局、片付けるのも覚束ない彼を手伝うことになった。
「しかし、おかげでキャンプの仕方はよくわかりやがった! 次からは鼎だけでもテントが張れるように尽力しよう」
「……キャンプは楽しめたかね?」
何気なく尋ねた。深い意味などは無かったのだけれど、ウィルナスは思っていたよりも大きな声で答えた。
「ル・オーと共に過ごせて、本当に楽しかったぞ! また一緒に飯を食おう!」
「……」
ル・オーは一瞬返答に詰まってから、小さく頷いた。
「……その機会が、有ればね」
そんな機会は無いだろう、と思っての発言だった。しかしウィルナスは大きく頷いて、自分のスマホを取り出す。ウィルナスの大きな手の中では、それは随分小さく見えた。
「連絡先を、交換していただきたい!」
「……」
ル・オーはまた固まった。
どうやら社交辞令をそれと受け取れない相手のようだ。いや、もしかしたらこの連絡先交換自体も、社交辞令の一種であり、実際には音沙汰が無くなるものかもしれない。断っても構わないし、応じても放っておけばいい。
ル・オーはそう考えて、また小さく頷くと自分のスマホを取り出した。
こうして、ふたりの関係は始まってしまったし、ル・オーの予測はことごとく外れるのだった。