思い込み朝の香りが鼻に入り込む。
少し肌寒くて、体を丸める。しばらくすると寒さに慣れたのか、今度は体を伸ばしたくなった。
「んんんー」
思わず声が出てしまった。
それから起き上がりもせず、きょろりと辺りを見回したり、いつもより高く感じる天井を眺めたり。そうして待っていても、部屋の中はしんとしている。いつもなら起きる少し前、もしくは起きた気配を感じれば名を呼ぶ声とともに現れる姿はない。
(藍湛は……、いないのか。誰かに呼ばれたか? と言うことは……)
魏嬰は藍湛が今ここにいないことを知る。そして泊りがけでもない限り藍湛がいない中で起きることがほとんどない日を過ごしていたため、こんな風に突然いなくなるということでよからぬ何かが起きたことを悟っていた。
「うーん、藍湛にしてもらいたかったんだがなぁ。仕方ない」
呟きながら起き上がり、髪を軽く結ぶ。そして頭をゆっくりと何回か左右に倒して首回りをほぐす。最後に腕をぐんと天井に向けて伸ばしてから、だらりと力を抜く。
「よしっ」
牀榻から起きだして、着替えをし始めた。もう少しで着替えが終わりそうだったが、軽く結んだ髪がほどけてしまった。小さくぽとりという音がして髪紐が床に落ちる。
「ああ、くそっ、適当に結んだから……」
そうして髪紐を拾おうとした時、戸が開く音がした。
「起きたのか、魏嬰」
「おお、藍湛! 良いところに来たな。な、髪! 髪を結んでくれよ」
どかりとその場で座り込んで、藍湛の方へ腕を伸ばして拾った髪紐を渡そうとした。
「今日はこちらを」
藍湛はどこからか出してきた、鮮やかな赤の髪紐を魏嬰に見せる。ぱっとしか見せられなかった魏嬰は、それがいかに上等な品であるのか気が付かなかったようだ。
「あ、ああ。それでいいよ、ずいぶんと良い色の髪紐だな」
髪紐を誉められた藍湛は柔らかく微笑む。そしてそれを見た魏嬰は嬉しそうに笑った。魏嬰は藍湛に背を向けてしゃんと座り、髪を結んでもらう。手には藍湛に渡しそびれた髪紐を持ったまま、指にくるくると巻いたりほどいたりしていた。
「出かけてもいないのに俺が起きた時にいないだなんて珍しいこともあるもんだな。そのせいで俺は髪が邪魔で仕方なかった」
そう揶揄うようにくふくふと笑って言えば
「すまない」
と小さな返事が返ってきて、髪を結んでいる最中であることを忘れたかのように魏嬰は勢いよく振り返った。その声が思っている以上に真剣で驚いたのだ。
「魏嬰、じっとして」
「そうだ、お前どこいってた? 何かあったのか?」
結びなおそうと髪紐を手に持ち直しながら、じっと魏嬰の目を見つめ
「あった。君にも来てほしい」
魏嬰の目が見開かれたあと細められて
「俺にも?」
危険な目に合わせたくないと常日頃からそう思っているであろうはずの藍湛が迷いなくそう言うのだから、相当難航している案件であると魏嬰はあたりを付けた。そんなことを確認するように、自分もかと藍湛に問いかけたのだ。
「そうだ。君に来てほしい。いいだろうか」
「もちろんだとも。急いでいくぞ。……藍湛、早く髪を結んでくれ」
こくりと頷いた藍湛を見て前を向く。
「お前と行くの久しぶりだな。どんな案件なんだ? 行く前に教えてくれ」
藍湛は言われた瞬間、困った顔をした。だが背中を向けている魏嬰には見えていない。視線をあちこちにさまよわせたあと、
「……行けばわかる」
と嘘はついていないし、魏嬰の想像に任せる含みをもたせるような返事をした。藍湛は髪を結び終わると魏嬰の髪のたばを手のひらに乗せ、落ちるままにして先まで触れる。髪はするりと滑らかに落ちていった。
結ばれた髪の先が背にあたると魏嬰は素早く振り返り藍湛を見つめる。
「さ、行くぞ」
そういって飛び上がるように立ち上がった。藍湛に向けられた背中は頼もしく見えた。
「こっちだ」
藍湛が魏嬰を連れて行った先は、彩衣鎮のとある酒場の二階だった。
「ここ、か?」
藍湛の顔を覗き込みながらそう聞くと藍湛はこくりと頷いた。魏嬰はてっきり山の中だの、どこかの大きなお屋敷だのそういった場所に連れて行かれると思っていたため、信じられないという表情をしていた。
目の前の部屋の扉は閉まっており、中からはざわざわと複数人の声が漏れ聞こえてきている。よく聞くと知っているような声もあるようだ。
「なんだ? なにを企んで俺をここに連れて来たんだ? ん? 教えてくれよ、藍にいちゃん?」
その声が聞こえたのか、中から『おいっ、到着したみたいだぞ』と慌てるような声がした。
「……すまない」
「頼まれて、断れず、受けたからにはやりきる」
そんなところか? と笑いながら、藍湛の顎を人差し指で撫でた。
「ただし。俺をだましたのは許せない。あとで仕置きだからな」
「……だましてはない。私は、君に来てほしいと言っただけ」
それを聞いた魏嬰がきょっとんとした顔のあと、
「そうか、そうだったな! 」
と言って笑顔になった。大きな口を開けて楽しそうに笑う。
「中にいるのはお子さまたちか? 」
と扉に手をかけた。
そんな魏嬰を藍湛は引き寄せて抱きしめた。『どうした? 』と藍湛の首うしろへ腕を伸ばして抱き着き返すと、その耳に藍湛の声が入り込んだ。
「魏嬰、誕生日おめでとう」
完