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    巨大な石の顔

    2022.6.1 Pixivから移転しました。魔道祖師の同人作品をあげていきます。

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    巨大な石の顔

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    サンサーラシリーズ第三章つづき。江澄が悲壮な決意をするお話。叔父上は兄上を奪われないために江澄に容赦しません。双璧両親捏造もりもり、オリキャラも複数でます。

    #魔道祖師
    GrandmasterOfDemonicCultivation
    #曦澄

    明知不可而為之(六) まだ眠っている水鳥達を尻目に江澄は三毒に乗って薄闇の空へ飛び立った。
     母なる蓮花湖が彼の真下に広がる。ところどころ氷の張った湖の上を撫でるようにぼんやりした白い靄が漂っている。
    靄の合間には小さな首がいくつももたげていた。蓮の花の名残だ。乾きしなびた花托の群生は、真っ白な霜をかぶり水鬼のように水面上で青ざめている。実が入っていた多数の穴は小さな目のように虚ろで、知らないものがみれば妖魔の群れのように思うかもしれない。
     江澄が向かっている雲深不知処には蓮の花は植えられていないが、先日寒室を訪れたとき、実を抜いて乾燥させた蓮の花托が洒落た陶器の壷に挿され部屋の一角におかれていた。
     そんな風に飾られるだけで妖魔と見まがうかのような枯れた植物もまるで花が咲いているかのように生き生きとして誇らしげだった。
     江澄の情人は世家公子格付けで一位になるだけあって、風雅の心得に乏しい江澄の目から見てもその美意識は非常に洗練されている。だがこと江澄に関することとなるとそれも狂いがちだ。
     夜狩りのとき「君の猛々しくも端正な剣さばきは、まるで天から遣わされた武神のようだね」はまだいいとして(むしろ情人に称賛されて江澄はその日一日鼻高々だった)、じっと見てくるのに気付いて理由をきけば「ぴんと伸びた君の背筋が蓮の花のように凛として美しくてつい見惚れたんだ」と満面の笑みで返され、ふと顎から鎖骨を指ですっと撫でてきたと思えば「この顎から首にかけての線からとめどなく色気が溢れていて、私はいつも隠したくてたまらなくなるんだ」と真顔で囁いてきて、閨では「どこもかしこもきれいだけどここも完璧な反り具合だ」と江澄の陽物に愛おし気に頬を寄せるなど、正気を疑うようなことばかり言うのだ。
     寒室に立派に飾られていた乾燥した蓮の花托は行商人が持ってきたものであって、まさかこの夏に金麟台で共に実を食べた花托ではないと思いたいが。
     江澄は、藍渙の強い執着に暗い喜びを感じることもあれば背筋が凍ることもある。
     先日とうとう情人はその地位も生家も捨てて江澄のいる蓮花塢へ来ると言いだした。叔父を説得するまで受け入れないと言ったものの、それから十日ほど経ったとき当の藍啓仁から江澄宛ての書簡が来てしまった。
     時候の挨拶や体調のうかがいなどありきたりな内容から話したいことがあると日付を指定されて雲深不知処へふたたび来るよう江澄は請われた。
     具体的なことは何も言われずとも、恩師が何について話し合いたいか江澄には手に取るようにわかった。
     山門に到着すると、金凌より少し上ぐらいの若い門弟が江澄を出迎えた。彼に案内され藍啓仁への居室へ赴く。
     雲深不知処のそこかしこでは雪の塊が岩のように残っていた。
     若い弟子が発明した『ひーとてっく』という呪符を下着に貼り普段よりも重ね着して正解だったようだ。外套は情人から先日借りたものではなく雲夢江氏の校服だ。
     案内役の門弟によれば、通常よりも今年は降雪が多いとのことだ。
    「雪が解けて道を濡らします。転倒して骨を折ったものも何人かおりますので、滑らぬようお足許にお気を付けください」と注意を促される。
     江澄が藍啓仁の居室へ訪れたのは金凌の座学以来だ。部屋の隅に火鉢が置かれ炭を燃やしている。衣から出ている肌が自然に粟立つ外とは違い、藍啓仁の居室は暖かい空気で満たされていた。
     以前訪れたときのように藍啓仁の入れた茶と茶請けで江澄はもてなされる。
     茶請けとして家僕が運んできた玉の皿の上には、梔子で染めたかのような黄色の野菜か果物あるいは干菓子らしきものが並べられていた。見たことのない食べ物だ。
    「これは鳳梨(フォンリー。パイナップルのこと)という江湖の南でしか獲れない果物の砂糖水漬けだ。毎年この季節になるとそこに暮らしている藍氏の親族が大量に贈ってきてくれる」
     姑蘇藍氏の新年祝賀の席で決まって供されるらしい。酒を禁じられている藍氏にとって南方の珍しい水菓子は祝い酒の代わりみたいなものだそうだ。
     鳳梨という名前は、彼の若い弟子の姉と偶然にも同じ名前だ。鳳凰のような梨などどういう果物なのか、交易の町の主であるにもかかわらず江澄には想像もつかなかった。
    瑪瑙でできているらしき菓子切りで刺して口に含んでみたところほんのり酸味があるが、砂糖水漬けとあってとにかく甘かった。
     江澄は甘いものが食べられないわけではないが、酒飲みとしては積極的に手をつけたいものではない。それでもふるまわれたものは頂戴することにした。
    とっとと平らげたので気に入ったと思われてしまったのか、少し持って帰りなさいと言われてしまう。恩師の厚意をむげに断るのも気が引けたので帰ったら白蓮蓮一家にでも渡そうと江澄は思った。もし気に入らなくても、あの腕のいい女将ならうまく料理に使うだろう。
    「私の兄はこれが心底苦手でな。宗主個人宛てに毎年贈られてきた小さな甕は、いつもこっそり私へ回してきた」
     兄とは青蘅君、つまり藍氏双璧の父親のことだ。
     愛した女性が恩師を殺しても結婚し小屋へ閉じ込め自らも閉関した人。
     その息子は父親と一度も言葉を交わしたことはない、彼の姿を初めて見たのは温氏襲撃のときでそれも後姿だけだったと言った。
     藍渙もまた江澄のように実の父親に抱き上げられたことのない人なのだと江澄はそのとき知った。
    「だがある日夜狩りから兄が帰った夜のことだ。もう亥の刻に近かったのに私に鳳梨を分けてくれと突然言ってきて甕ごと寒室へ持って帰っていった。いつも泰然とした態度の兄があのときばかりは慌ただしかったからよく覚えている。江宗主、あなたは嫌いな水菓子をなぜ分けてくれと兄は私に言ってきたのだと思う?」
    「南方からきた貴重な菓子でもてなしたい客でも来たんでしょうか」
     元教え子の回答に恩師は満足げに顎髭を撫でた。顔や手の皺は増えたが、鎖骨まで伸びているそれは座学のときと変わらずよく整えられつやつやとして黒い。
    「その通りだ。そしてその客――兄が家規を破ってまで寒室へ内密に引き込んだ相手が、甥たちの母親だ」
     江澄は眉間に皺を寄せた。この人は江澄にいったい何を話したいのだろうと思ったからだ。
    「そのご様子だとすでに前宗主夫妻のことは甥から聞いておられるようだな」
    「ええ」
    「だが二人の馴れ初めまではご存じないだろう。江宗主には年寄りの昔話に少しお付き合いいただきたい」
    話を元に戻せば、そのとき青蘅君は藍夫人にせっかく持ってきた鳳梨を一口も食べてもらえなかったという。
     当時肩を落としていただろう兄の様子を懐かしんでいるらしく、藍啓仁はふっと口元に笑みをたたえた。
     顔の造りは似ていないが、その微笑は藍渙とどこか重なって江澄は心がざわついた。 
     彼が決して立ち入ることのできない二人の血のつながりを感じさせられた。
    「藍夫人は甘いものが不得意だったのですか?」
    「いいや、寒室へ戻ったら寝台で彼女はすっかり眠りこけていたそうだ」
     そして卯の刻に青蘅君が床で目覚めたら彼女は忽然といなくなっていたという。
    「兄はその女性に一目ぼれしてしまった。私と恩師が止めるのもかまわず血眼になって彼女を探した。宗主としての政務をほぼ私に放り投げてまで」
     青蘅君がやっとの思いで見つけた彼女は、彩衣鎮にある風体のよくない者たちが集まる怪しげな宿屋にいたという。そこで女は宿泊して怪しげな薬をどこからともなく手に入れては人に売って日銭を稼いでいたそうだ。
     明らかに大世家の宗主がおいそれと交際を申し込んでいいような相手ではない。
     それでも再会したその日に二人は想いを交わして結ばれたという。それから二人は逢瀬を重ねた。恩師が厳しく何度諫めても彼女から結婚の承諾をえるために青蘅君は彼女の元へ通い続けた。だが彼はいつもつれなく断られた。
     あきらめの悪さは息子に確実に受け継がれていると江澄は思ってしまった。
     それでもめげることなく九十九回目の求婚を申し込んだとき、『そうね。じゃあ、私の兄と決闘して勝ったらあなたに嫁いであげるわ、天人さん』と返されたそうだ。
    「女は慕容燕(ムー・ロンユエン)と名乗ったがそれ以外はわからない。名前さえも本名かどうかはっきりしない。そんな素性のよくわからない女との結婚を、当然私と私たち兄弟の師匠は猛反対した。だが兄は聞く耳を持たなかった」
     けれど女の兄と決闘したところ、青蘅君は完膚なきまでに負けてしまった。
     江澄は違和感を覚えた。青蘅君は若くして名士として広く名が通っていたはずだ。そんじょそこらの破落戸はもちろん、たとえ腕利きの仙師であってもいともたやすく負けるはずがない。
     藍啓仁は江澄の疑問を見透かして答えた。
    「女の兄は、あの独孤求敗だったのだ」
     江澄はふたたび眉をひそめた。藍啓仁はこれまで冗談も嘘も言わず根拠のない不正確な話をしたことはないが、彼はこのとき初めて師の言葉を疑った。
    独孤求敗――それは謎多き伝説の仙師だ。本名は何なのかどこの仙門出身かもわからず、数百年生きている、いや人が変わって代々称号を受け継いでいるなど、実態がよくわからない人物である。ただ戦いにめっぽう強く、最強の妖魔とされる饕餮を一人で倒したこともあれば、千人の仙師を一度に負かしたこともある逸話の持ち主だ。
     あまりにも強すぎていつしか彼を負かしてくれる相手を探し求めて江湖を渡り歩くようになりその号を自ら名乗るようになった。いつも黒ずくめで、体からまがまがしい黒い気を放つ姿は夜叉のごとしと評された。人間ではなく、妖魔の類ではないかという噂さえ江澄は耳にしたことがある。
     江湖最強と評される伝説の人物が、仙師として際立った才を放つ藍氏双璧と血がつながっていると言われて腑には落ちる。しかし不思議なことに江澄が物心ついたときからこの正体不明の謎めいた仙師の存在は語られても「どこそこの誰かと決闘をした」、または「夜狩りの最中に彼と遭遇した」などといった彼が現在どこでどうしているといった噂はついぞ聞いたことはない。
     藍氏双璧がいる――すなわち青蘅君が独孤求敗の妹と結婚したということは、再び決闘した際に独孤求敗は青蘅君に負けもしや命を落としたのだろうか。
    「兄は大けがを負ってしまったが、それでも女をあきらめきれず独孤求敗に結婚させてほしいと頼み込んだ。『姑蘇藍氏の宗主の座を辞したら妹と結婚させてやろう』とそそのかされ、そして私たちに黙って一人雲深不知処を出奔した」
     それまでの座学の講義でのような粛然とした態度から、突如藍啓仁は両のこめかみに血管を浮かび上がらせ顔を青ざめさせた。過去を話していくうちに当時の怒りがぶり返してしまったようだ。
     江澄は肩をほんの少し揺らした。恩師の怒りに圧倒されたからではない。藍渙が彼の父親とまったく同じことを繰り返そうとしているからだ。
    「だが独孤求敗は約束の場所へやってきた兄をさらった。そして兄を人質に取って私たちの恩師に決闘を申し込んできた」
     つまり、彼の目当ては恩師だったというわけだ。藍啓仁は話しながら昂った気持ちを落ち着かせるように山羊髭をひと撫でした。茶を一口飲んで話を続ける。
    「私と兄を教え導いてくれた恩師は、かつて逃走不敗と江湖で呼ばれた仙師だ」
     またしても伝説の仙師の名がでてきた。江澄の記憶によれば、もともと書家でやがて剣豪として江湖で名を馳せたもののあるときから決闘を避けるようになりその名がついた人物だ。
     ここでまたしても江澄は違和感を覚えた。藍渙によれば、その文武に優れた伝説の人物が薬売りをしていた藍氏双璧の母親に殺されたのだ、同じ伝説級の強さをもつ独孤求敗ではなく。
     江澄がその疑問を抱くだろうことは藍啓仁も当然わかっているだろうが彼はかまわず話を続ける。江澄は口を挟まず恩師の話を最後まで聞くことにした。
    「一本の刀と二本の剣を巧みに操り、十歩の距離内なら相手が妖魔鬼怪だろうと邪祟だろうと確実に仕留めた優れた仙師だった。私たちはすでに父を亡くしていたこともあって当時実の父のように彼を遇していた」
     逃走不敗は兄弟が幼い頃、雲深不知処に藍家の客卿として迎え入れられた。それから彼は争いに巻き込まれやすい俗世と離れて長らく平穏なときを過ごしていた。しかし息子同然の愛弟子が独孤求敗の妹に騙されたせいでその平穏はとうとう終わってしまった。
     愛弟子を取り戻すため、ずっと拒んでいた決闘を受け入れた逃走不敗は独孤求敗の手にかかりその命を落とした。だが独孤求敗もまた深い傷を負って動けなくなった。勝負がついたとき彼は姑蘇藍氏の修士たちの手によって捕らえられた。
     ここで江澄には真実が見えてきた。長らく江湖はおろか藍家の現宗主にさえ伏せられてきた藍夫人の正体を。
     独孤求敗は傷から血を流しながら両腕を拘束されその膝は地についた。彼にとってはとうとう積年の望みが叶ったのだ。
     そして、藍啓仁がその覆面を剥ぐと現れたのは彼の妹――青蘅君が天定めし人と求めた女性だった。
    『汚れしらずの天人さん、これでも私を天命だといえる?』
     独孤求敗は解放された青蘅君に挑発するようにこう問いかけた。
     その答えのように、青蘅君は無言で彼女の腹に師匠の剣を突き刺した。それは残剣という折れた剣の姿をした宝具で、これで丹田を刺せば金丹を消す力を持っているという。青蘅君は彼女の金丹を消して止めをさしたのだ。
     こうして独孤求敗は金丹を失い只人となった。
     江澄は聞いていて下腹がうずいた。藍氏双璧の母親の話は、化丹手に金丹を消された過去を否応なく思い出させこの場からすぐにでも立ち去りたい気持ちにさせた。しかし藍啓仁の語る昔話はまだ終わっていない。
     彼女はそのままそこで死ぬ運命のはずだった。ところが、青蘅君は藍啓仁はじめ姑蘇藍氏の修士百人の制止を振り切って死にかけている彼女を寒室へ連れ帰り、一人看病し祝言を上げた。
     あとは藍渙から聞かされた通りだった。彼は母親が父親の恩師を殺した動機を恩讐からだと言っていたが、実のところまったく違っていた。
    「沢蕪君と含光君にはご両親の馴れ初めを伝えていないのですね?」
    「ああ。母親の過去は息子たちには伏せると兄と約束した。母親が父親を騙し父親が母親の金丹を消したなど喜んで聞ける話ではないからな。だが誰も何も話していないのに恐ろしいぐらいに甥二人は兄と同じことを繰り返している」
     ここからが本題だと言いたげに、藍啓仁は江宗主をこれまでになく険しい視線でとらえた。
     邪道とされる鬼道を「どうしてだめなのか」とのたまう魏無羨を厳しく叱りつけたときのように彼は視線だけで今にも江澄を絞め殺しそうな勢いだった。
     恩師はかつて目にかけていた元教え子を今や心の底から憎んでいるようだ。それは江澄が彼から大切な甥を奪おうとしている男だからだろう。
     彼がわざわざ一族内でも秘匿事項だったはずの藍夫人の話を江澄にした理由は、まちがいなくかつて彼から兄と恩師を一度に奪った彼女のように江澄のことをみなしているからだ。
    「曦臣は最近、宗主の座を降りることに反対する者はだれであれ決闘すると言い出した。独孤求敗との結婚を反対する者と決闘すると宣言した父親と同じように」
     江澄は思わず頭を抱えたくなった。今情人がそばにいたらこの大馬鹿野郎と胸倉をつかんで罵っていただろう。江澄は藍先生を説得しろと言ったはずなのに決闘とは。それはもはや説得ではない、戦だ。
    「江宗主、あなたはあれととても親しいようだからどうにかしてもらえないだろうか」
     厳しい表情を崩さないまま、藍啓仁は歯に物をはさんだようなもってまわった言い回しをした。江澄は細い眉を跳ね上げた。
     江澄と甥が実際どういう仲なのかを知っているはずなのに、どうやら恩師は口に出すことすら厭うほど認めたくないようだ。
    「どうにかとおっしゃいますと?」
     江澄はすっとぼけてみた。
     呼び出しの書簡を受け取ったときにある程度覚悟していたことではあったが、藍啓仁は目には見えない剣を抜き江澄に斬りつけてきた。
     恩師といえども剣を振り下ろされたらひとまずはかわすのは当然だ。
    「私は、甥にあれの父親と同じ過ちを繰り返さないようにしてもらいたいのだ。あなたも知己が宗主の座を退くのは望まぬのでは?」
    「同じ世家の宗主として藍宗主殿の引退を残念には思いますが、彼が自分の意志で選んで心から望んだことならば私は『受け入れ』ますよ」
     藍啓仁はふたたび剣を振り下ろしてきた。江澄もまた己の剣の柄に手をかけ素早く抜きそれを受け止めた。
     江澄は過ちという言葉に大いにひっかかりを覚えた。彼の甥たちの生まれを否定し認めていないように聞こえたのだ。
    「江宗主。あなたは夷陵老祖を討ち取った後、鬼道の修士を片端から捕まえて拷問にかけていたと聞く。私と同様に邪道を嫌い、正道を望む者と見込んでお話している。曦臣の歩もうとしている道がいかに先達の思いを踏みにじるものかあなたならおわかりだろう。そこを知己として諭してもらいたい。あなたの言葉ならあれも受け入れよう」
     藍啓仁はわざとらしく彼ら二人の関係をやたら知己と強調した。それ以外はありえないとでも言いたげに。
     江澄もまた稲妻のような鋭い眼光で恩師を見据えた。
     座学のときと変わらず雲夢江氏の名を背負ってはいても、彼はもはや師の言葉にお行儀よくうなずくばかりの子供ではなかった。
    「沢蕪君と私は知己ではありません。私たちがどういう関係なのかあなたはすでにご存じのはずだ、藍先生」
     あえて都合の悪い現実に一切触れようとせず隠そうとする恩師に、江澄もまたとうとう己の剣を振り下ろした。右手の紫電も小さく鳴る。
     俺たちの関係なぞはなから存在しないものとして扱う癖にその上で別れ話をしろだと?しかも『どうにか』だなんて己の発言の責をごまかすかのようなずるい言い回しをしやがって。ずいぶんと舐めた真似をしてくれる。
     それでも低姿勢は崩さない。
     ここで逆上すればこの決闘に負ける。相手の思惑に気付かず怒りに囚われてしまえばまた大切な人と引き離されてしまう。
    「私は沢蕪君と『深く』交流してわかりましたが、彼は温和ではあるがときに恐ろしく頑固だ。こうと決めたらおそらく彼は私の言葉さえも聞く耳を持たないでしょう」
    「だが聞く耳を持ってもらわねば困るのはお互いさまではないだろうか?」
     江澄が冷ややかに言えば、藍啓仁は意味ありげな言葉を返した。
    「どういうことでしょう」
    「観音廟で金光瑶が命を落とした後、あなたは新しい宗主の座をめぐる金家の会議へ他家の者にも関わらず参加なされたそうだな」
    「江家と金家は縁戚なので参加しました。私以外にも他家の者は同席していましたよ」
     内政干渉だとほのめかす藍啓仁に、江澄は事実を以て反論した。だが彼は取り合わなかった。都合の悪いことは頑として受け入れないようだ。座学時代の方がまだ生徒の言い分に耳を傾けてくれていたように思う。
    「そのときあなたはこうおっしゃったと伝え聞く。
    『金凌は正真正銘金氏の直系男子だ。年ももはや洟垂れ小僧ではない。私とともに前宗主の不始末にも蹴りをつけた。これ以上蘭陵金氏の新しい宗主としてふさわしい者はおるまい』と。
    そのあなたであれば、仙門を血で受け継いでいくことの重要性もよく理解されているはずだ」
     そうきたかと江澄は右手にはまった紫電を無意識に撫でた。
     この藍家のタヌキはおそらく金家の傍系の狐どもとすでに手を組んでいるのだろう。
    江澄が彼の甥を藍家から奪うなら、江澄の断袖を理由に彼を後ろ盾にしている金凌を宗主の座から引きずり下ろすこともできると脅してきたのである。
     藍啓仁は金凌を人質に取って江澄と甥を別れさせようとしていた。姑蘇藍氏とも思えない卑劣極まりない手口だ。
    「金宗主は気が短いところや向こう見ずなきらいはあるが、座学の折りはかつてのあなたのように実に優秀な生徒だった。聞くところによれば、座学を終えてからもうちの若い門弟たちや他家の子息たちとも活発に交流しているそうだ。あの年頃の子らの仲は、所属している世家や後見人のふるまいが多分に影響しよう」
     藍啓仁は剣をたえまなくふるってくる。彼は江澄を本気で崖に追い詰め突き落としたがっていた。もちろん攻撃されて江澄が怒らないはずもない。彼は怒りの頂点をなるべく引き延ばしていたものの、金凌の名を出されてやめることにした。
     先日のように、この世を儚むかのような悲しい表情でしおらしく別れを求めてくるか、もしくは厭味ったらしいことを言わず「お前は私から大切な甥を奪う気か!」と率直に怒鳴ってきたならば、いつかは彼の甥を手放すつもりだったことを打ち明けただろう。
     だが江澄の可愛い甥を人質に取るつもりなら話は別だ。たとえ恩師であろうとも売られた喧嘩は買ってやる。
     江澄の負けず嫌いに火が付く。身体から感じる火照りは『ひーとてっく』のせいばかりではあるまい。
    「あなたも甥を我が子のように育てた叔父ならわかるだろうが、可愛い甥を明るい陽の当たる道から踏み外させたいとは思わないはずだ」
     藍啓仁は剣を振り回しながら、江澄の情にも訴えかけてくる。
     江澄は思わず鼻先で笑いそうになった。その道は藍渙が望んで選んだものではないことを彼は知っているからだ。
    『君は私が自ら選んで姑蘇藍氏に生まれてきたとでも思っているのか? 生まれてすぐ母から引き離され父にも会えず厳しい叔父に育てられたのは私が望んだことだったとでも?』
     いつも笑みを絶やさない彼があんなに怒りをむき出しにするとは江澄は思いもよらなかった。藍渙は沢蕪君という輝かしい号を持ちながらも、姑蘇藍氏という重石を叔父に無理やり背負わされて生きてきたのだと江澄はこのとき知った。
     かたや江澄のたった一人の甥はといえば、昔からわがままだったが近頃は自分の意に添わなければまったく叔父の言うことを聞かないわ、あれこれ反論もする。よほど困ったときを除いて、蘭陵金氏の舵取りにも江澄に一言も口を出させようとしない。それでも仙府や町が荒れることなく統治は順調だ。金凌はすでに己こそ金麟台の主にふさわしいと自ら証明していた。夜狩も江澄とともにいるよりも自分の選んだ信のおける友人たちと過ごすようになっている。夜狩の帰りに友を連れて蓮花塢へ泊まりに来たこともあるが、叔父の交友関係で揺らぐようなもろい友誼を結んでいるようにはみえない。
     もしかしたら目の前に座る男が自分の門弟に金凌との交流を禁ずるかもしれないが、おそらくは彼らは抜け道をいくつも見つけ出すだろう。あの常識に囚われない魏無羨に指導を受けているならば。
     今、江澄が特別目をかけて育てている若い弟子は、飛びぬけて秀でた才を鼻にかけることもなく二心なく心から江澄を慕ってくれている。それでも彼女もまた甥のように江澄に絶対服従というわけではない。若かりし頃の魏無羨のように天賦の才に恵まれた娘は、彼よりはるかに厄介でいつも江澄の思いもよらないことをしでかし常に主管とともにその動向に目を光らせておかねばならない。蓮花塢がそう忙しくない最近は、小遣い稼ぎに蓮花湖で甘酒を売っているもののとみに実家に入り浸っている。いったい何をやっているのやら。近々実家まで様子をみに行くつもりだ。
     どんなに大人がこの道へと歩ませたがっても、子供は自分の行きたい道をいつのまにか選んで走っている。それが保護者と師という立場になって江澄が学んだことだった。
     この恩師は、夷陵老祖を娶った藍忘機でそれを学ばなかったのだろうか。
     藍渙もまた叔父によるお仕着せの道ではなく、江澄の選んだ道を一緒に走りたがっていた。
     ならば走らせてやろう。
     江澄は腹をくくった。藍渙が望むならば今日にだって彼を蓮花塢へ受け入れることにした。江澄は居住まいをただし、雲夢江氏を背負うものとして少年時代の師に威風堂々と告げる。
    「藍先生ならばご存じかと思いますが、江家の家訓は『明知不可而為之』。なせぬとわかっていてもなす。たとえ陽の当らぬ雪が残った道であろうと、誰もが避けるような暗くて険しい道であろうとも私は藍宗主――藍渙とともに歩んでいく所存です」
     憎々しい相手に大見栄を切るのは気分がいいものだと江澄は思った。彼は崖から落ちることなく師の剣を薙ぎ払った。
    「話し合いはこれで終わりだ。失礼します」
     江澄は立ち上がって拱手した。
     藍啓仁は江澄の言葉に激昂するわけでもなく、彼を引き留めてさらなる説得をしようともしなかった。
     このとき彼の怒りはすでに不気味なぐらい鎮まっていた。蹲に張られた水のごとき静謐さをたたえながら江宗主を見送った。
     江澄は高揚した心持ちで藍宗主がいるだろう寒室へ向かった。彼は今日にでも情人を蓮花塢へ連れ帰りたかった。
     これから雲夢江氏は姑蘇藍氏と決定的に対立することになる。せっかく平穏を取り戻した修真界はこれから大きく揺れるだろうが、さすがに射日の征戦のときのような修真界を二分するような戦にはなるまい。二人は愛し合っているというだけで温氏のように誰かの財や命を容赦なく奪ったわけではないのだから。ただ、雲夢江氏は仙門百家から孤立するかもしれない。いや門弟も民も江澄から離れていくかもしれない。それでもかたわらに藍渙がいるのであればこれまでと違い、江澄はもう一人ではない。
    「もし、雲夢江氏宗主江晩吟殿でいらっしゃいますか」
     藍啓仁の居室近くで、江澄は灰色がかった髪の老婦人に呼び止められた。
     皺の走る秀でた額に抹額をまき小柄な体に藍氏の校服をまとっているので藍家の血縁に連なる者だろう。女修がここにいるのは珍しいと江澄は思った。
     髪と同じように灰色がかった太い眉が特徴的な老婦人は、姑蘇藍氏の長老らしく江澄に実に優雅な物腰で拱手した。江澄もつられて丁寧に拱手を返した。
    「突然お呼び止めしてしまったご無礼どうかご容赦ください。今日こちらへお越しになると藍啓仁殿からうかがいぜひお目にかかりたいと思っておりました」
     老婦人は藍啓仁の叔母だという。詳しく言えば叔父の妻だ。どうりで藍啓仁とは似ても似つかないと思った。
    「江宗主、その節は孫の小魚(シャオユー)を助けて下さりまことにありがとうございました」
    「孫の小魚とは?」
     江澄は首をひねった。その名前が誰のことなのかさっぱり思いあたらなかったからだ。
    「はい、孫の藍小魚にございます。あなた様が妖狐の毒から拾い上げて下さった姑蘇藍氏の門弟です。あのとき江宗主があの場にいらっしゃらなければ、今頃私はここにはおらず自室で喪に服していたことでしょう」
     そこまで詳しく言われて江澄は口数の少ない姑蘇藍氏の少年をようやく思い出した。
    たしかに老婦人の太い眉に目じりの切れあがった幅広の瞳は彼とよく似ている。字を藍渙から何度か教えてもらっているのに江澄はいつも忘れてしまっていた。おそらく彼の字が雅正を誇る姑蘇藍氏にしては世俗的な字だからだ。いっそ江姓の方が通りはいい。
    蓮の周りを泳ぐ小魚の群れを思い浮かべて、江澄はようやく姑蘇藍氏らしからぬ字と実に藍家の子弟らしい佇まいの少年を結び付けた。
    「本来ならば私と孫で蓮花塢へうかがうのが筋ですがもう御剣もできませんので、こちらへお越しの際にぜひお礼申し上げたかったのです」
    「さようですか。小魚殿から金麟台に滞在中、一度礼として滋養にいい貴重な薬草をもらっています。藍宗主も閉関の身であらせられるなか、毒に倒れた私の看病を一心になさって下さいました。姑蘇藍氏からもう十分返礼を頂戴しています。どうかお気遣いありませんように」
     江澄にしてはとげのない穏やかな物腰で老婦人に接したところ、ふふと彼女は実に上品な微笑を浮かべた。
    「薬草など孫の命を救ってくださった礼のうちには入りません。その後、体調はお変わりありませんか」
    「ええ、おかげさまで無事に回復してつつがなく過ごしています」
    「それは何よりでございます。もし江宗主に何かあれば私も孫も生涯雲夢江氏に顔向けできませんでした」
    「小魚殿を助けたのは当時の私の判断です。もしあのとき私が命を落としていても体に何か大きな傷や障害が残っても、それもひっくるめて私が下した決断です。だから私も雲夢江氏もあなた方お二人を恨むことなどありえませんよ」
     老婦人は瞠目した後、朗らかに微笑んだ。
    「さようでございましたか。江宗主、まことに失礼ながら苛烈な方という評判を以前から聞き及んでおりましたが、実際こうしてお目にかかったあなた様は実に懐の深い寛容な方でいらっしゃいますね」
     江澄は唇の端が上がりそうになるのをどうにかこらえた。
     これぐらいの賞賛で喜ぶな、江晩吟。あまりにも御しやすすぎるだろう。
    「あの子はこのおいぼれに残されたたった一つの宝です。仙師ともなればいつ命を落としてもおかしくはないと覚悟しておりましたが、これ以上私より若い者をあちらへ見送りたくはなかった。江宗主、あの子を救って下さったあなた様には感謝してもしきれません」
     老婦人は江澄に重ねて礼を述べた。
     その口ぶりからすると、藍小魚もまた金凌のようにもうすでに両親がいないようだった。
    「もしや金魔の病でご家族を亡くされたのですか?」
     姑蘇藍氏の仙府は人里から離れているおかげで、五年前に江湖で流行った疫病に藍家の者はほとんどかからなかったという話は聞いているが。
     いいえ、とやはり老婦人は首を振った。そこで小魚の年齢から江澄は姑蘇藍氏の若者が複数死んだ原因におおよその心当たりがついてしまった。
     それまで微笑んでいた一重の瞳が急に感情を失ったように虚ろになる。
    「私の夫もあの子の父親はじめ私の子どもたちはみな血の不夜天で死にました。夷陵老祖の手にかかって。長子の嫁も夫を失った悲しみで予定日より早く産気づき産後の肥立ちが悪くて亡くなりました。あのとき、私は赤ん坊の小魚を一人残して家族をみな失ってしまいました」
     この藍家には似たような境遇の年寄りは複数おります、と彼女は付け足す。
     血の不夜天で彼女を始め一族の者は大切なものを多く失ったのに、その仇は今やあの世からよみがえり同じ雲深不知処で含光君の道侶として過ごしている。
     それがどれほどの絶望を姑蘇藍氏の長老たちにもたらし、その心を打ちのめしたか想像に難くはなかった。
     以前の江澄ならば「あの日私もあいつのせいで最愛の姉を亡くしました。だが同病相憐れむ趣味は私にはありません」と彼女の元義兄への憎しみに共感しつつも老婦人を突き放しただろう。
     だが今は……。
    「この夏にあの子を失っていたら、私はこの命に代えてもおそらく夷陵老祖を手にかけていたでしょう」
     復讐をするつもりだったと告白しても尚、老婦人はいっそ哀れに思えるぐらいかたくなに感情をあらわにしなかった。そのせいでその告白に尋常ではない重みがもたらされる。
     この老婦人は一見穏やかではあるが、その小さな体にかつての江澄のように深い悲しみに裏打ちされたすさまじい怒りや怨みを抱えているのがみてとれた。
     もし実際家族の仇を取ろうと行動してもおそらく含光君によって斬り捨てられるだろう。けれどそれはおそらくは夷陵老祖を雲深不知処から追い出す十分な口実になる。
     江澄があのとき虫の息だった彼女の孫を拾い上げなければ、今は抑え込んでいる夷陵老祖への彼女の怨みが解き放たれその身命を賭してあいつを雲深不知処から追放したかもしれない。
     若い時分に故郷を焼かれ大きな戦乱を経験し宗主業を何年もやって慣れていることとはいえ、そのときの一瞬の判断で複数人の未来が変わってしまう運命の非情さを江澄は改めて目の前に突きつけられた。
     寒気がするのは冷たい外気にあたっているせいだけでは決してない。
    「江宗主。私は夷陵老祖に家族を殺された姑蘇藍氏の者として、あの者を宗主の道侶として受け入れることはできません」
     骸のように虚ろで力のない瞳にかすかな光が灯る。それは年老いた彼女の江澄への小さな抗議だった。
     彼女もまた江宗主と藍曦臣との関係がどのようなものか知っているのだ。江澄が姑蘇藍氏から彼を奪うことを止めようとしている。
     この品のよい老婦人もまた柔和な笑顔を以て江澄に決闘を申し込んでいたのだ。
    「あなたは孫を助けた私にお礼をおっしゃりにいらしたのか、それとも江家の宗主に雲夢江氏の元門弟への恨み言を聞かせにいらしたのか」
     霊力も権力もない老婦人相手に思わず皮肉を口にしてしまう。藍啓仁と対峙したときよりもはるかに彼の心から冷静さが奪われ、かき乱されていたからだ。
    「江宗主、ご気分を害されたなら申し訳ございません。小魚は、口数は少なく表情にも乏しいところがありますがあれで気の利く子です。薬草の知識も門弟の中では一、二を争うほど深い。あの子には幼い頃から『以直報怨、以徳報徳』(恨みには正しさを以て報い、徳には徳を以て報いる)と言い含めております。江宗主、あなた様に拾い上げてもらったあの子の命、もはやあなた様のものです。いかようにもなさってくださってかまいません。
     ですが、どうか含光君を姑蘇藍氏の宗主として我らが迎えられない事情も何卒ご理解ください」
     その場に額づきそうな勢いで老婦人は江澄に深々と拱手した。
     どうやら、彼女の宝であるところのたった一人の孫息子を江澄へ差し出すからどうか藍渙を姑蘇藍氏から奪わないでくれと懇願しているようだ。
     この人はどうかしていると江澄は思った。
     だが、おそらくは彼女からしてみれば大世家の宗主であるにもかかわらず江澄と藍渙こそどうかしているのだろう。
    「お申し出はありがたいが、江氏の門弟はかつてなく多い。他世家からも門弟を受け入れてしまうと雲夢江氏は貪欲だと諸先輩方から誹りを受けましょう」
     江澄は生きていれば亡き母親よりも高齢の女性に向けられた剣を難なくよけた。だが彼女の剣はすでに江澄の丹田を浅くではあるが突き刺した。
     射日の戦い以降、あれほど剣技を誇っていたはずなのに霊剣を一度としても佩こうとしなかった義兄を江澄はおかしいと思っていた。だが周りの言葉通り自分の習得した鬼道を誇示したい彼の傲慢さゆえだと己をごまかしていたのだ。
     雲夢江氏の宗主であり魏無羨の義弟である江澄こそが、たとえ拷問してでも誰よりもその理由を探らなければいけなかったのに。
     あのとき魏無羨の抱えていた苦しみに気付いてやっていれば、少なくとも姉夫婦は死ななかったかもしれない。仙門百家を敵に回してでもあいつと温氏の残党も江氏で引き受けておけば、今も江澄の隣に彼は立っていてくれたかもしれない。――そうすれば目の前の老人は家族を失わずにすんだかもしれない。
     目には見えない傷から血を流しながら、江澄は足早に寒室へ向かった。
     一刻も早く「俺はどうしたらいい? あなたの親族にどう償えばいい?」と江澄の中にある金丹の事情を知っている情人の体に抱きつき、その広い胸にすがって弱音を吐き、許しを乞いたかった。
     ところが、情人は寒室に一人でいたわけではなかった。枯れ葉一つ落ちていない美しく整えられた庭で人と語らっている。
     相手は二十歳ぐらいの若い娘だ。動きやすそうな常盤色の校服に身を包み、まろやかな曲線を描く腰に霊剣を佩き、手に筆と墨壷と手帳を持って、藍渙と親し気にしゃべっている。
     冬でも風情のある庭で談笑する年頃の美男美女の姿は一幅の絵を眺めているかのようだった。
     江澄は頭から足にかけて串刺しにでもされたかのようにその場から動けなくなった。
      藍渙がさしで若い女性と語らっているのも驚きだったが、何より驚いたのは彼女が江澄の母にそっくりだったのだ。
     しばらく呆然と立ちすくんでいると、「江宗主」と声をかけられた。声の主は江澄を出迎えてくれた門弟だった。朱色の植物が描かれた小さな甕を手にしている。藍啓仁から江澄へ渡すよう命じられ、きっと寒室にいらっしゃるだろうと言われたそうだ。
     あのタヌキじじいめ。
     動きを読まれていて江澄は歯噛みした。
    「宗主に御用でいらっしゃいますか?」
    「いやこちらへ寄ったついでに顔をみていこうと思っただけだ。来客中のようだからまた日を改める」
     日が照っているおかげで積もっている雪は江澄が来たときよりも解け始め、山門へ続く道は雨が降ったように濡れていた。
     道すがら、江澄はあの娘は何者か門弟に尋ねた。
    「宗主から聞いていらっしゃいませんか? お見合い相手の方です。宗主とよっぽど馬が合われたのか、もう何度もこちらへお越しになっています。あの方以外の女性とのお見合いはすべて断ってらっしゃいますね。新年祝賀の儀で宗主から重大な話があるそうなのですが、私はあの方との婚約ではないかと思っています」
     門弟は期待に満ちた明るい笑顔で答えた。彼は藍渙と江澄の関係や今日の会談の内容などは何も知らないようだった。
    「君がいるのに見合いなぞしたくない」と頑なだった藍渙に見合いは断るなと口を酸っぱくして言ったが「特定の相手と何度も会え」なんて言った覚えはない。
     一度や二度の顔合わせで生まれたわけではない二人の仲睦まじい姿に、江澄は心が霜の降りた湖のように凍りついた。鳩尾のあたりもむかむかするのは甘ったるい果物を食べたせいだけではあるまい。
     裏切られた。
     江澄の背筋が空恐ろしくなるくらい彼に執着をみせる男がそんなことするはずはないのに、江澄はどうしても彼の心を疑ってしまう。かつて『守れないなら捨ててくれ』と 魏無羨に言われたときのように。
     当時魏無羨に強い劣等感を抱いていた江澄は、温氏の残党のためではなく「俺より能力が低いお前なんぞ、俺が仕えるに値しない男だ」と江澄のことをみなしたから雲夢江氏を離れたのではないかと疑った。
     今もまた、藍渙はやはり自分の血を分けた子を産める女でなければ添い遂げる価値などないと気付いてしまったのではないかと江澄は情人の心を疑った。
     娘の素性を門弟に詳しく問えば、やはり彼女は江澄の縁者だった。
     射日の征戦が終わった頃、母親の従弟が蘭陵金氏近くの小さな世家に婿入りした。彼女はそこの一人娘だ。
     秋に雲深不知処で開かれた清談会で古参の宗主たちが藍宗主を囲んでいた。その中に彼女の父親がいたのを江澄は思い出した。
     蓮花塢復興にあたって、母方の眉山虞氏からの援助の申し入れはあったが江澄は断った。雲夢江氏に眉山虞氏の影響力が強まることを亡くなった父は望まないだろうと思ったからだ。援助は断っても伯母からの見合いの紹介や季節の挨拶など親戚づきあいは続いていた。
     あの娘と江澄はこれまで会ったことはないが、母方の親族から噂は聞いている。母の従弟は婿入りする前に娼妓との間に彼女をなし、娼妓が病で亡くなった後奥方の許可を得て手元へ引き取ったそうだ。
    「血のつながりもない娼妓の子を引き取るだなんてずいぶんと物好きなご内室ね。どこかの誰かにそっくりだわ」と伯母は母によく似た顔で従弟の妻を小馬鹿にしていた。
     きっと彼女の妹の夫が、家僕の子供を引き取って目の前にいる甥よりも可愛がっていたことを思い出していたのだろう。だが父と母と違い母の従弟夫婦は仲睦まじいという評判だった。その証拠に彼らは三人の子どもに恵まれている。
     亡き母に生き写しの娘は、つまり江澄ともよく似ている。彼女ならば藍渙の子を――姑蘇藍氏の輝かしい未来を産める。男の江澄とは違って。小さな世家とはいえ歴史が長いので家柄も姑蘇藍氏とつり合いが取れて申し分はない。彼女の父親を通して眉山虞氏と雲夢江氏ともつながりができる。何よりその生まれは藍渙の長年の友であり閉関した原因になったあの男とも重なる。娼妓の子を大世家の宗主が正室として娶ったとなれば、同じ境遇の者への風当たりは弱まるだろう――彼を信じず刺し殺した償いになるだろう。
     あの娘は何もかもが藍渙に似つかわしく感じられた、自分なぞよりずっと。
     決して愛想笑いではない笑顔を浮かべながら、江澄の情人は若い娘と実に楽しそうに話している。
     彼は今江澄のために宗主の座を降りようとしているが、人の心は簡単に変わる、揺らぐことを江澄は身をもってよく知っている。
    『私は必ず君の元へ行く。だからどうか待っていてほしい』
     あなたまで俺にした約束を果たしてはくれないのか。
     藍渙の気持ちに答えるつもりはなかったくせに、それでも心の片隅では彼のその言葉に期待を寄せ実行してくれることを江澄は望んでいた。
     あの娘が江澄とは似ても似つかないなら、こんなにも苦しい、まるで臓腑をえぐられ千々に引き裂かれるかのような痛みを覚えなかった。庭で話している二人にすすんで声をかけることすらしただろう。
     江澄は春本の女教師がいくつもの剣先に追いつめられた場面を思い出す。彼の後ろは今や底の見えない深い谷底になってしまった。よりによって彼のもっとも愛する人の剣によって。
     いつかこんな日がくるのではないかとずっとどこかで恐れていたから、江澄はあれこれともっともらしい言い訳を並べ立て藍渙を手放そうと思っていたのかもしれない。
     握り返してもらえると信じて伸ばした手はまた空振りに終わろうとしていた。
     信じた相手に拒まれ置き去りにされたくなければ、先に拒むよりほかない。
     前を歩いていた門弟がしたたかに滑って転倒しかけた。江澄は無言で青年の二の腕を掴み彼の背中が地面につくのをふせいでやった。
    「あっ、ありがとうございます江宗主。私が注意申しあげたにもかかわらず、たいへんお恥ずかしい限りです」
     助けてもらった門弟は息を呑んだ。江宗主が機嫌の悪いときの藍先生のように険しい表情を浮かべ、その体から触れれば火傷するかのような荒んだ気が立ちのぼっていたからだ。
    「すみません、とんだ粗相をしでかしまして」
    「すまないが私はここで引き返す。藍先生にお伝えし忘れたことがあった」
     外套の裾を大きく翻し一人歩いていると両目からとめどなく涙があふれてくる。すれ違う門弟に泣き顔を見られないように俯いては何度も袖で涙をぬぐっていたら藍啓仁の居室へたどり着いてしまった。
     江澄がふたたび現れても藍啓仁はまったく驚いてはいなかった。まるでここへ戻ってくるのが予めわかっていたかのようだ。
     このタヌキジジイが江澄へ本当に話したかったのはあの二人のことだったのだ。
     江澄は拱手もせず、声も体も小刻みに震わせた。この身を駆け巡っている激しい気はもはや誰への怒りなのか、何による悲しみなのかわからない。
     立ったままという礼を欠いた態度で彼は言った。
    「藍先生、先ほどおっしゃった件『どうにか』しましょう。その代わり――」

     江澄は崖から飛び降りた。
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