ナイト・オン・ザ・プラネット 世間が「働き方改革」だの「仕事とプライベートの両立を目指す」だのと足並み揃えてぞろぞろ同じ方向へと向かうなか、ブラッドリーの入社した企業は設立当初から変わらない。よくも悪くも。
成果を上げた分だけきっちりと報酬に反映されるので、「自分らしく働こう」というスローガンを掲げる今時の会社よりはずっと稼げる。成績に応じた実績給が支払われる他にも昇給や昇進という形で努力が評価されるのだ。若手のうちから役職につくことだってめずらしくはない。
本人の頑張り次第とはいえ給料やボーナスも抜群によく、各種手当も充実しているものの、採用活動では苦戦しているようだ。……いや、採ることはできるのだ。福利厚生や報酬に惹かれる学生が後を絶たないため、説明会はいつも賑わっている。隅々まで磨き上げられた社内はドラマのセットのごとく輝き、インターンで訪れたやつらはみな興奮したように目を見開く。金を掛けて開く内定者懇親会は好評で、秋頃になって辞退を申し出るやつもいない。問題は入社してからだ。
とにかく一人で捌く業務量が凄まじい。覚えることが山のようにあり、複数のタスクを並行して処理する能力が早い段階から必要とされる。どの業界も人手不足で頭を悩ませており、新人たちを繋ぎ止めるべくちやほやと教育してやるのが近頃の流れだというのに、ここでは必要最低限のことを短期間で叩き込んだら後は放置するのだ。マニュアルなんて存在しない上にメモを取る猶予も与えられない。まともな研修を経ることなく通常業務がスタートする。
中堅と若手のあいだくらいの目立つ二人の先輩は、揃って気分屋、とことん自分勝手な性質で、仕事を一切教えてくれないし、何ならトラブルに巻き込んでくる。簡単な雑務に手こずるのに難易度の高い案件をしれっとこなしていることもあり、一応はエースと呼べなくもないやつらだが、社会性や常識に欠けているので関わるべきではない。
また、繁忙期は毎日のように残業が続く。この時期は仮眠室の使用率が高い。ちょっとした宿泊施設のような造りなので、普段から寝泊まりするやつも少なくない。それから、必須ではないとはいえ酒は飲めた方がいい。このご時世に、と驚くかもしれないが、社外でのコミュニケーションの価値はそう簡単に揺らがないのだ。
会社の体質は簡潔に言うと超実力主義。過程ではなく結果を評価する。頑張ったからよし、などという甘えは通用しないのだ。
こういった社風が今の時代には合わないのだろう。大半が五月には表情がどんよりと暗くなる。そこから段々と遅刻や無断欠勤を繰り返したり、些細なミスを連発してデスクで泣き出したりと、まともに働ける状態ではなくなっているのだ。
大学時代、注文ばかり多い腑抜け共を散々見てきた。たとえ安月給であっても責任がなく、休みが取りやすく、正社員という立場はキープして恩恵を受けつつ、定時で上がって余暇の時間を楽しみたいという安定志向の欲張りだらけだ。それが悪いとは言わない。自分にとって何が大切かを見誤らず、適した場所に所属するのは生存戦略として正しいだろう。
だが、見ていてつまらない気持ちにはなる。もっとこう、のし上がりてえとか、誰よりも成功してえとか、そういう貪欲さは欠片もねえのかよ。
近頃はどれだけ慎重に採用してもすぐに休職するか退職してしまうと、社長のスノウが嘆いていた。専務のホワイトも、新入社員同士で切磋琢磨し合えるよう毎年多めに採っているのに、と肩を落とす。入社式には確かに同期がそれなりにいた。しかし今ではもうブラッドリー・ベインただ一人しか残っていない。
厳しいノルマの重圧に、厄介な先輩から受けるストレス。息抜きのつもりで覗いたSNSでは同世代がきらきらとした日々を過ごしており、我が身との落差に打ちひしがれ、次々と辞めていったのだ。上には圧のあるやつばかりだからか、どいつもこいつも退職代行を利用して逃げるようにいなくなる。
上を目指すつもりは一切なく、なるべく楽をして働きたい連中にすればきつい環境だろう。残業代や休日出勤した際の特別手当などは細かく支払われるが、拘束時間の長さや仕事のボリュームを考えれば、所謂ブラック企業に該当しそうなものだ。
ブラッドリーもまだ一年目だというのに毎日が忙しく、せっかく都会に住んでいるにも拘らず家と会社を往復するだけになっている。特に虚しさは感じない。頭を捻って試行錯誤した結果が正しく返ってくるのは楽しい。いいアイデアが閃きそうなときは、しばらく会社で寝起きするくらいにはこの生活を気に入っているのだった。仕事の成績は入社以降ずっと右肩上がりだ。
その代わり身の回りのことは疎かになりがちで、最近のブラッドリーは不意にくらりと眩暈がする頻度が上がっている。栄養も休養も不足しているのだろう。疲労困憊の内臓が助けを求めているのは感じるものの、生活習慣を見直すことほど億劫なことはない。
料理なんてとてもじゃないが面倒でやっていられないし、かと言って仕事が終わった頃に気軽に寄れるのはコンビニか深夜まで営業しているスーパーの二択。飯屋は大概満席かすでに閉店準備をしているかで、目星をつけている店にも未だに入れたことがない。外回りのときに立ち寄ればいいのに、仕事をしているとすっかり頭から抜け落ちてしまっている。帰り道に灯りの消えた店内を眺めて「あ」と思い出すのだ。
チェーンの居酒屋やファミレスは客層が悪い。味は値段相応なので文句はないが、やっと一息つくというときに騒がしくされるとうんざりする。ああいうのは喋るやつがいるからいいのであって、一人で行っても他のテーブルのさんざめく笑い声に疲弊するだけだ。そうなると弁当を買って帰るという選択に絞られてしまう。
インスタント食品に揚げ物だらけの弁当。エナジードリンク。手っ取り早く栄養補給するためのゼリー飲料、そして缶チューハイやビール。適当に購入したつまみの類。そんなものばかりで構成されているブラッドリーの体内環境は控えめに言っても状態がよろしくなく、再検査は免れたものの要経過観察の文字がでかでかと記された健康診断結果が渡された。
「ちょっとちょっと、ブラッドリーちゃん? 今年入社したばっかなのに、これはさすがにまずいからね?」
「先輩たちを見て、ブラッドリーちゃん。あんなふうになったら駄目だからね?」
お仕事熱心なのは偉いんだけど。声を揃えたスノウとホワイトは頭を抱えた。双子なだけあって、基本的にはよく似ていて鏡写しの仕草をする。時折、意見が食い違うと途端に寒々しい空気が流れるのだが、あれは非常に鬱陶しい。
ぴし、と亀裂が入った音が聞こえそうなほどホワイトの目が冷ややかになるのだ。機嫌が悪くなるのはいつだってホワイトで、いつだって謝り倒すのはスノウと決まっている。ただの雑談であっても気が抜けない。こいつらが揉めると被害を受けるのはブラッドリーたち社員で、仲裁しろと泣きつかれるので渋々、本当に渋々ながら世話を焼く羽目になる。
「もうオーエンちゃんに関しては諦めておるが……」
「オーエンちゃんの血糖値、我ら怖くて見れないもんね」新作のコンビニスイーツをデスクにずらりと広げているオーエンを見つめ、ホワイトは溜息を零す。「再検査、全然受けてくれないし……」
「そうそう。ミスラちゃんはミスラちゃんで、健康診断の日の朝にがっつり朝ごはん食べちゃうから、正確な状態がわからないし。……まあ、サボって寝てること多いから、運動不足で何かしら引っかかっておるであろうな」
「ねー」
顔を見合わせて頷いた双子は、ぴったり同じ速度、同じ振り向き方でブラッドリーを見据えた。
「そなただけじゃ、ブラッドリー」
「大事なことだから復唱するのじゃ。せーの、『健康第一』!」
「言うわけねえだろ……」
ノリが悪いと散々不服そうにされたが、意に介することなくブラッドリーはオフィスを出た。もう夏だ。澄み切った青空から降り注ぐ陽射しは容赦なく、たまに髪を揺らす風は生ぬるくて少しも涼しくはならない。暑いのは嫌いだ。膚にまとわりつくべたべたした感触の不快感で顔を顰める。
炎天下で歩き回るのは無駄に体力を消耗することになるので、スケジュール通りにさっさと行動する。なるべく日陰になっているところを歩きながら駅へと向かう。ごく短い距離だった。それだというのに、たどり着く前に足がもつれ、姿勢を崩しかけた。頭が重い。視界がぼんやりとして、徐々に狭まっている。
これはまずいなと悟ったブラッドリーは、即座に踵を返し、近くの定食屋の暖簾を潜った。最近の流行りに流されることなく、昔ながらの品のある店構えを好ましく感じていた。一回くらいは食いに行きてえなと考えていたものの、仕事に夢中になっていたため一度も入ったことがない。まさかこんな形で来ることになるとは。
店内は冷房が効いていて、今にも溶けて輪郭を失いかねないほど暑さに参っていた体に沁みた。人工的な冷風が膚を撫でるたび生き返る心地がする。涼んでいると愛想のよくない、十代半ばくらいの子供が水を運んできた。慣れていないのか、一歩踏み出すごとにコップから水が溢れていた。盆の上は零した水で光っている。
「注文は?」
年若い店員は雑な手つきでコップをテーブルに置いた。小柄な体格とは逆に態度は大きい。つんとした無表情でブラッドリーを大きな目で見つめてくる。青みがかった黒髪と赤い瞳。深みのある色合いだった。真紅という表現がふさわしい。このふてぶてしい、でも憎めない顔を、どこかで見た。何故かそんな気がする。
「まだ決まってないなら、後で来る」
「ああ……いい、いい。今、注文する」
靄に包まれている朧げな記憶を手繰り寄せるのをやめ、厨房に戻ろうとする店員を呼び止めた。忘れているというよりは思い出せない。しかし何を? 気になるが余分な体力を使いたくはない。ひとまず後回しにしていいだろう。
あれこれ吟味して選択するのは億劫で、ブラッドリーは日替わり定食を頼んだ。店の前に立て看板があった。朦朧としていたのでメニューが何かは記憶にないが、味には期待できそうだ。ほぼ席が埋まっている店内をさっと眺めた。昼時だからというのもあるとしても、やや早い時間帯でこれだけの客がいる。ブラッドリーのようにふらっと立ち寄ったのではなく、日頃から食べに来ているやつが多いのだろう。みな寛いだ雰囲気で食事をしている。
氷がたっぷり入った水を飲み干すと、ようやく意識が明瞭になった。今朝は通勤前にゼリー飲料で朝食を済ませ、資料を作ったり取引先と打ち合わせをしたりと忙しなく動いていた。いつものことと言えばいつものことだが、ここ最近ぐっと気温が上昇したところだ。知らぬ間に疲労が蓄積していたのだろう。
「日替わり定食だ」
「おう」
定食を運んできた店員は相変わらずの素っ気なさで、淡々と伝票を置いてレジの近くに戻っていく。物怖じしないところは接客業に向いていると言えなくもないが、あの態度だと性格のひん曲がった年寄りには難癖をつけられそうだなと思う。さほど年を食ったやつでなくとも、たとえばオーエンなんかは嬉々としてクレームを入れるだろう。
腹が鳴ったのでどうでもいい想像は打ち消し、ブラッドリーは箸を手に取った。小鉢の煮物や豆腐とわかめの味噌汁、漬物、ふんわりとした千切りキャベツにポテトサラダは無視して、揚げたての唐揚げにかぶりつく。熱い。舌が痺れたが、染み出す肉汁とシンプルながらがつんと響く味つけに目を見張る。
「美味いな」
するとその呟きが聞こえたらしく、仏頂面の店員が得意そうに笑った。実に子供らしい、屈託のない笑顔だった。
「だろ。あいつが作るものは何でも美味いぜ」
「そうかよ。随分と自信があるみてえだな」
店員は顎を逸らし、ふふんとますます機嫌よさげにする。
「あんた、残念だったな。昨日まではあいつが居たから、揚げるのもあいつがやってくれたのに。仕込みはしてくれてるから同じ味だけど、揚げ方で全然変わるんだぜ」
「へえ?」ブラッドリーは飲むように食べながら首を捻る。「そいつは次、いつ来るんだ」
「しばらくは来させないつもりだ」
そのやや奇妙な物言いに黙っていると、店員は呆れたように宙を睨んで言った。
「体調崩してるのに、隠して無理したせいで寝込んでる。ただの風邪だけど……ちゃんと治すまではオレが許さない」
不機嫌そうな顔つきとは裏腹に声は心細げな響きを湛えている。どうやら心配しているらしい。口ぶりからしてこの子供の兄だろうか。しっかりしている弟に叱られて、家で寝ているよう言いつけられている様子がなんとなく脳裏に浮かんでくる。
「風邪なら一週間もすりゃよくなるか。じゃあ、そいつが治った頃にまた来るぜ」
「ああ」僅かに曇っていた表情が再び輝きを取り戻し、にっと人懐こく笑いかけてくる。「……の料理を食べたら、余所で何を食べても物足りなくなる。覚悟しておくんだな」
社用携帯が鳴ったせいで、一部が聞き取れなかった。後に続いた言葉からして、この子供の兄(仮)の名前を口にしたと思われる。
「そこまで言うなら期待しといてやるよ、がっかりさせんじゃねえぞ」
「ふん。あんたこそ、今のうちに外の食い物を食べ尽くしておいた方がいいぜ」
生意気な口調に笑って店を出たブラッドリーは、エネルギーが満ちた体で颯爽と仕事に戻った。久しぶりにしっかりと食事をとったからか、ここ最近で一番調子がいい。先ほどは照りつける太陽に堪えたが、今は「暑いな」と思うだけだ。
「美味かったな」
無意識に唇から零れた。スーパーの惣菜コーナーにある唐揚げやバラエティ豊富なコンビニ商品だって、手頃な価格帯ながら味はなかなか悪くないのだ。しかし今日のはすごかった。元々好物であるのを差し引いても、とんでもなく美味く感じた。
あのちっちゃいのの兄貴か、どんなやつだろうな。ブラッドリーはがらんとした電車のなかで考える。案外、兄貴の方はそれなりに背丈があるかもな。兄弟なら髪や目玉の色は同じか? 性格は、まあ……どうも弟に押され気味だから、おっとりしてるっつうか、主張が激しいやつではないだろ。ミスラやオーエンみたいな横暴極まりないやつらには苦手意識があるような、どちらかといえば大人しい類ではないだろうか。
目的地に着いたので思考を中断し、のろのろと開くドアからホームに降りる。思わず苦笑する。ほとんど情報がないやつのことをあれこれ想像してみたところで何の意味もない。会えばわかるのだから、単純に楽しみにしていればいいのだ。頭ではわかっているのに、気を抜くと顔も名前も何も知らない人間のことばかり考えてしまう。
来週には会えると思っていたが、実際に対面したのはひと月も経ってからだった。まさか避けられているのかと疑いそうになるほどタイミングが合わず、すれ違いを何度も経てようやくブラッドリーは年若い店員の兄(仮)と出会う、あるいは、再会するのである。