lune 無数のネオンに照らされ薄明るいままの夜空に、真ん丸の満月が浮かんでいる。それが一際大きく赤々と妖しく輝いており、見上げると妙に胸がざわつく感覚に襲われる、そんな夜のこと。
コーサカ元気? なんて数年前に知り合った仲間から久しく声をかけられ、小洒落た店でしけこんでから三時間弱。当たり障りのない近況報告からどんどん話が盛り上がり、俺自身も気付かない程あっという間に時間が経っていた。縁こそ恵まれなかったものの、馬鹿がつくほどクリエイションに真摯で尊敬できる奴。面白い仲間と美味い飯を食い旨い、酒を飲む。なんとも愉快な時間だ。
愉快ではある――のだが、一方で快とも不快とも言い得ぬざわつきが俺の身体を徐々に満たしていく。
年代物の赤ワインが注がれたグラスをくるくると回すと、芳醇な香りが鼻腔をくすぐり、ボルドー色が深く波打ち視界を揺らがせる。
酩酊の陰に確実に存在する抗えない本能が、種族としての俺を強く突き動かす。月のせいで余計に敏感になっている。目の前のそれはまるで血のよう。吸血鬼は血を飲む生き物。……お前でいい、どうしようもなく血が飲みたい。
駄目だ、と首をぶんぶん横に振り一切を忘れ去ろうとしたら、一気に酔いが回った。ただでさえ弱い三半規管も悲鳴をあげている。テーブルを挟んで向かいに座る友は俺の苦労も知らずに、「コーサカどうした? 飲み過ぎたか?」なんてワイン片手に暢気に笑っている。人間と吸血鬼の違い。マジョリティとマイノリティの差。俺にしか見えない壁が理不尽に立ち塞がる。こんな楽しい夜にいけないと分かっていても、やりどころのない苛立ちに表情が歪みそうになる。
もう一度目の前の会話と酔いに集中するためいったん席を立とうとして、俺はふと思いだした。
……ジョーさん、こんな夜に一人で大丈夫だろうか? 「行っておいで」なんてのほほんとした面で送り出してくれたが、“特別な夜”の衝動に果たして一人で耐えられるのだろうか?
「っっあ~~タダイマァ」
おぼつかない足元でどうにか家まで辿り着き、冷蔵庫で眠っていたミネラルウォーターを一気に飲み干す。清涼感が身体中を駆け巡るのを確かめてから、ハアア、と大きなため息とともにソファーに身を預けた。
時計の針はすでに午前一時近くを指している。普段ならシャワーを浴びて棺桶に籠もる頃だが、到底そんな気分にはなれない。
酔いのせいで頭が随分冴えている。リビングルームからベランダへ通じる大きな窓から月光が煌々と射し込んでいて、直視すると少し眩しくもある。
……ん? 待てよ? 普段ならカーテンを閉めてから眠りに就くはずなのに、何故開けっぱなしなんだ? 同居人がまだ起きているのか? 疑問を抱きながら窓の外へ視線を彷徨わせると、その答えはすぐに見つかった。
軒先に置いた木製のスツールに座り込む長身の人影がひとつ。毛先がところどころ撥ねているヘアスタイルで、がっしりとした肩幅には無駄なく筋肉がついており、背筋はピッと伸びている。シルエットだけで分かるそれは、長らく苦楽をともにした同居人のもの。普段と異なるところといえば――頭から真っ直ぐに、毛むくじゃらの大きな耳が二つ生えている。
「アンジョー……?」
勢いよく窓を開け、夜空を見上げたままの彼に声をかけた。ガラガラガラ、とけたたましい騒音が深夜の住宅街に響いたが、アンジョーは一切気に留めず、紅色に輝く満月をずうっと見つめたままだ。
「アンジョー!」
「……コーサカ?」
たまらず声を張り上げると、彼はようやく気付き振り返った。落ち着いた蒼だったはずの両の瞳が、今は月光よりも金色に大きく妖しく輝いている。こちら側へ向けられた意識は日中と比較にならないほど鋭い。喩えるならば、音もなく肉を断つ純粋なガラスの破片か或いは、獲物を捕らえようと極限まで集中する獣か。
「おかえり」
「たでーま。まだ起きてたの」
「うん」
声色はまだ比較的、柔らかいいつものアンジョーのままだ。ほっと胸をなで下ろすと冗談を言う余力も生まれてきた。
「昼夜逆転もいいところじゃん。ちゃんと運動してる?」
「そこそこやってるって。コーサカ、こんな明るい夜に寝られると思う?」
「さあねえ。……寢ないと仕事に差し障る時間ではあるが」
「義務とかいうのはいいの。むう……吸血鬼ならそこは即答してほしいんだけどなあ」
困り眉で笑いを零す彼の口元からちらりと、鋭い犬歯が光っていた。
そのまま俺も誘われるようにしてアンジョーの隣に腰掛け、夜空を見上げる。
虫のさざめきすらも聞こえない。外は静寂にすっぽり覆い隠され、月光だけが果てしなく俺達を照らしている。
狼男と吸血鬼。アンジョーと俺は所謂“夜の眷属”だ。もちろん俺達各々に属するコミュニティなら存在するが、悲しいかな、この世知辛い現代において田舎に引きこもっていては到底生活なんて出来やしない。結局のところは、都会まで出稼ぎに来ざるを得ない哀れなモンスターどもが俺達なのである。
二人での共同生活を始める決定打になったのは、互いに人ならざる夜の眷属だという一点に尽きる。
お互いのゲームの趣味から女の趣味まで知り尽くし、それでもずっと中学生みたいにふざけられ、真剣に楽曲制作に打ち込む仲間。アンジョーは心底気心が知れた唯一無二の相方であるのだが、少なくとも俺はそれを建前にして、『孤独を分かち合い埋め合う仲間になってほしい』という下心を彼に対して持っていた。
例えば、鉄柱をいとも容易く破壊するほどの豪腕。無数の蝙蝠を撃ち出す魔力。血の匂いに誘われる狩猟本能。人間という弱者は獲物でしかない、という人ならざる認知。俺達モンスター達には、人間だらけの世の中で生きるに余りにも重い足枷がはめられている。
――それに、一ヶ月に一度だけやってくる満月の下では、気力では押さえ込めない力が全身から粟立ち、ぱちぱちと音を立てて弾けそうになる。人には理解できないだろう。……理解されてなるものか。
ましてや、スーパームーンが見下ろす今宵では、到底。力を持て余す者同士でしか、その辛さは分かち合えないと俺は信じ切っていた。
紅く激しく燃えている、と思えば雲の後ろに隠れると柔い灯りへ変化する。夜空に浮かぶ月はただうつくしい。瞳が自然と吸い込まれていく。時折揺れながら輝くそれを、時間を忘れるくらいには見つめ続けていた。
「コーサカ、さ」
隣に座るアンジョーの呼びかけでやっと俺の意識が元いた場所に引き戻された。
「何」
「こんな夜に、大丈夫なの? なんていうか、俺達ってさこうじゃん」
言うか言うまいか、どこまで踏み込んでいいのか悩んで口をまごつかせている。出来るだけ誰も傷つけたくないというアンジョーの意図を分かっていながら、俺は彼の優しさにつけ込んでみたくて、「何て? とどのつまりどういう?」だなんて意地の悪い返しを矢継ぎ早にしてみる。すると俺の逆張り根性なんぞお見通し、と言わんばかりにアンジョーは「ホント君ってば」と肩をすくめた。
「喰らいたい。蹂躙したい。破壊したい。我が僕にしたい。……もっと言えば、中身を暴きたい。臓物の味を知りたい。犯したい。そういうわけわからん欲みたいなのが頭をぐるんぐるん駆け巡って、血も沸き立つような感じで。そういうどうしようもない夜って、コーサカにはないの?」
本能に濡れた彼の瞳がより大きく揺れ、ギラリと強烈に輝く。空に浮かぶ月より余程間近で存在感を増す黄金に、俺自身隠していた欲望をそろり撫でられるような感覚を覚え、その快感にすっかり溺れてしまっていた。
「あるよ。めちゃくちゃある。ギンギンになる。今がマジでそう」
「友達と飲みに行って平気そうな顔、してても?」
「……平気じゃねえし。誰かといるから余計、人間を虫けらみたく扱いそうになる自分の異質さに気付かされて、それがすごく嫌になるときだってありますよ」
ただ自然に口から出てくる言葉だけで返すと、ふうん、と少しだけ口角を上げる彼がいる。
同じだ。同じだからきっと貴方は喜んでいる。嬉しい。可愛い。柔らかい。美しい。愛したい。――留まることを知らない熱が、ずるずると引きずり出されていく。
「そーいうとこがずるいって貴方って人は……」
「なにが?」
「別に。んで、その言い出しっぺはどうなのよ」
「……全然」少しの躊躇いののちアンジョーは小さく横に首を振った。
「だって、一人で寂しくて、なのに我慢できなくて辛さだけが膨れ上がる、どうしようもない。なのに一人。コーサカがいない。匂いも気配も感じられない。分かちあう相手がいない。どうすればいいのかわからん……なんて、ちょっとだいぶキテたかな」
語気がだんだん弱まるのに比例して、立ち上がっていた獣の耳がしおらしく伏せっていく。それを見ると、まる待ちわびて仕方ない愛犬に向けるみたいなどうしようもない愛おしさまで覚えてしまって、俺は勢いのままアッシュカラーの毛むくじゃらを両手で抱きしめた。あたたかい肩に顔を埋めると、肉を喰らった後のような匂いがいつもより少しだけ濃く鼻を掠めていった。
「ジョーさん……ジョーさん、ごめん」
「ううん、俺こそごめんね。つい我儘言っちゃった」
「我儘じゃねーし、本能だし。俺と、ジョーさんの、二人だけの。なのに一人にして本当に、ねえ」
「めっちゃセンチメンタルな独り善がり」なんてアンジョーは冗談を言うが、今宵熱にうなされてどうにかしている俺の頭では、詫びの言葉を紡ぐべきかそれとも愛欲をダダ漏れにさせるか選択するだけで精一杯だった。いや、考える余地も全くなかったかもしれない。
「ねえ、ジョーさん、あのさ」
「大丈夫だよ。大丈夫。――あ、コーサカの髪、なんかいつもより透けて見える」
そう言うとアンジョーが俺の頭頂に手を伸ばし、その長く骨太な指で毛髪をすくい上げた。普段ならつまみ上げる程度の長さだが、厄介なことに月光で増幅された魔力の下では自然と伸びてしまうらしい。
「ほら、ひかりに照らすとすごく透き通った紅になる。とても綺麗だ。コーサカも見なよ」
「ちょっと伸びたくらいじゃあそれは出来ないんだよアンジョーさん……」
そうだっけ、と合点がいったかそうでないか曖昧な表情をするものだから、その真ん丸な目が妙に可笑しくて俺も思わず噴き出してしまった。盛り上がったムードも台無しってもんだ、これじゃあ。
「でもね、本当に綺麗なんだよ、コーサカの真っ赤な髪」
「褒め言葉、として受け取っても?」
「もちろん。それにさ、それに――すごく良い匂い」
敏感になっているはずの鼻を、俺のいろんな場所に擦りつけるような仕草を彼が見せる。毛髪から首の後ろへ、それから鎖骨へ――それとなく、するりするりと。
「何だろう、甘ったるいけど芳しいというか、癖になりそうな……ずっと嗅いでたらクラクラしそう。君、結構飲んでる?」
問いかけるアンジョーの頬は少し火照っており、赤味もさしていた。普段ならウーロンハイを少し口にした後に見せる、アルコールに弱い者の示す拒絶反応みたいなものである、が。
「――飲んだ」と返すが、実際のところアルコールなんて吸血鬼には毒にも薬にもならない。一時的に回った酔いは月光の下でとうの昔に醒めていた。
今俺の身体を満たしているのは、抗えない吸血鬼の本能。それと、目の前の彼への欲情。恋慕。慈愛。――さて一体どれが正しい?
「ジョーさんならいいよ、俺のコト喰っても」
「それは……すごく悩ましい誘いだ。でもコーサカの肉って、めちゃくちゃ悪酔いしそう」
「悪酔いしろよ、熟成肉みたいなもんさ。……ジョーさんが嫌なら、俺がジョーさんの血を飲みたい」
「え」
「首筋に少しだけ。最初ちくりとするだけだから。何なら俺と貴方で感覚のパスを繋ぐことだって出来るし……」
「違う。俺で、いいの?」
アンジョーが再び目をぱちくりを瞬かせながら、心の底からの疑問を投げかけてきた。単なるルームメイトとはおよそ言い表せないほど既に距離感が狂っているのに、それ以前に互いの肉欲を見せ合った直後なのに、今更過ぎる質問が宙を舞ってこちらへ飛んできたので俺も一緒に面食らってしまう。
「……何言ってんだ。ジョーさんだからいいの、ジョーさんじゃなきゃ駄目」
「――やっぱり君は変わり者だね、コーサカ」
「貴方が言えたことじゃないでしょ。――いいから黙って」
反論をさせまいと、彼の白い首筋に牙を立てた。「う、ぁ」と甘いうめき声が静寂に響き、途切れ途切れに揺れ、そして霞となり消えていく。
この夜が永遠に続けばいいのにと願うくらい、その感情が先刻までの辟易と矛盾していることに一切気付かないくらい、俺はアンジョーに心底溺れていた。
***
「――なんてさあ。ジョーさんの血を頂いた晩もあったねェ」
「あったあった。俺達二人ともどうかしてたよ、あのときは」
「頭が湧いていました、としか言いようがねえよ。……もうあそこまではサービスしねえからな」
「しないの? 結構可愛かったよ、コーサカ?」
「シャラップ!」
時は変わり、まだ日の高いうちのこと。すっかり使い込まれ生活臭漂う我が家での、いつメンでの集まり。
日中平気で出歩くわ俗っぽいオタク趣味の話ばかりだわで「お前ら本当にモンスターなのか?」と司から真っ当な質問を受けたので、一番それらしいエピソードを披露してみた次第である。口にするとまあまあ淫靡だな、と俺は頭の片隅で思ったが、人間代表の司からするとどれもこれも刺激が強く、何と返せばよいか分からずに視線を左右に反復横跳びさせながら慎重に言葉を選んでいる様子だった。
「……で、お前ら。その後はどうしたんだよ。どこまでしたん?」
「最後までヤった」
「セックス?」
「セックス。」
隣でアンジョーがうんうんと頷きながら、饒舌に口走りだす。
「血を吸われて、俺はただふわふわと気持ちよくって別に悪酔いもしなかったんだけど、その後コーサカが挿れろ挿れろってうるさくなっちゃって。マジでAV女優さながらに鬼気迫りながら言うんだもん。喰われるかってビビっちゃった」
「だってアンジョーさんがすげえ気持ちよさそうなんだもの。勃起までさせてジョーさんばっかりズルイ! って当然思うわけ。アンジョーさんの気持ちいいと俺の気持ちいいで、それが二乗。すなわち二人で気持ちよすぎてブッ飛ぶ。以上証明終わり。Q.E.D.。分かる?」
「あぁ! やっぱパス繋いでたなあの時! やっていいなんて一言も言ってないのに!」
「俺はズルい男なのでね~~」
からからと笑う俺と必死に反論するアンジョーの前で、司が口をあんぐりさせたままぽつりと呟いた。
「お前ら……一体何なんだよ?」
「「うーーん……メイト?」」