喋喋喃喃(ちょうちょうなんなん) ふざけんな! 寒くなるにしても急に寒くなりすぎだろ!
暑さも寒さも気まぐれな晩秋の気候と、天気予報を一切確認しなかった自分自身の慢心の両方に、コーサカは内心怒り震えていた。
昼間のぽかぽかした陽気に油断して、薄っぺらいアウター一枚で出てきてしまった。陽が落ちてから容赦なくびゅうびゅうと吹き付けてくる北風に堪えられず、考えなしに突っ立っているとそのまま凍え死んでしまいそうな気すら覚える。
何故分厚いアウターにしなかったのだろうか。取り寄せしてから首を長くして待っていたジャケットが昨日やっと届いて、どうしてもそれを着たかったからだ。ただ今日着るものではなかったことは確かだ。悲しいほど防寒力に欠けている。ならばこれから薄手のダウンベストを調達してジャケットの下に仕込むか? そのために衣料品チェーン店へ駆け込むのか? それも何だか癪に障る……。
プルプル身を震わせて思案に暮れていると、腰元がぶるっと強く震えた。
『今日何食べる?』
ジーンズのポケットからスマホを取り出すと、ふわふわ耳のアイコンが通知に現われる。我が愛すべき相棒、一昔前の言い方ならツーカーの仲の同居人。アンジョーからのLINEだ。
夕食の献立を確認するための、いたって簡素なメッセージだ。コーサカはそれを一瞥するやいなや、条件反射的に一文字だけ打ち込んだ。あまりの寒さに思考が完全に奪われている。
『鍋』
『具って何か買ってたっけ?』
そこまで間を置かずの返信だった。コーサカはここ数日の記憶を辿りながら、我が家の冷蔵庫の状態を入力する。
『ない。肉がない。冷凍庫にネギかエノキくらいならあったかも』
『じゃあ鍋できなくない?』
『ジョーさんなら出来るでしょ』
『近くのライフ、もう全然肉ないよ。ムリだよ~』
涙を流した表情の絵文字とともにアンジョーから悲嘆のメッセージが届いた。今の時間は午後九時過ぎ。……近場の何でも売っているスーパーといえど、流石に生ものは売り切れている時間らしい。
それから少しだけ間を置いて、スマホがまたぶるりと震えた。
『おでんあった』
『おでん?』
『二人前のパックのやつ。こんにゃくとか大根とか入ってる。卵も』
『それ!!!!!!』
土鍋の中のおでんが火にかけられ熱々に沸騰し、湯気がもうもうと上がる光景を想像するだけで、コーサカはもうそのことだけしか考えられなかった。出汁の染みこんだ大根を頬張り、熱い熱いと上顎のヤケドに悶えながら心身温まりたくて仕方なかった。
『肉ないけどいいの?』
『卵の余りがあるから茹でて一緒に入れといて。あと棚ん中に餅もあったからそれも』
『おけ。紅しょうが天も買っとく』
了承のメッセージと一緒に、こたつで温まり寝ているだけの女の子のスタンプが送られてきた。今にも溶けてしまいそうなほどゆるい表情が何とも癒やされる。全体的に輪郭が丸っこくてぷにっとしているのは……大方わかりやすくアンジョーの趣味だな、と想いを馳せる。
『ポン酒買って帰る』
醤油と出汁の効いた食べ物には日本酒が合うと相場が決まっているものだ。ここのところアンジョーも俺も互いの仕事に忙殺され、なかなか夜をともに出来なかった。幸い明日は昼までに起きれば差し障りない。今宵は久々に二人きりで、ゆるりと晩酌を楽しもうではないか。なんてことを考えると、指の先まで冷え切った身体が少し温もりを取り戻してきた。
ワンカップくらいならコンビニにもあるだろう。それに少し前に買っておいた一升瓶の酒がまだパントリーの中にあったはず。あとは具の足しにちくわとソーセージでも買って……。
期待に胸を膨らませながらコーサカは足取り軽く帰路に就いた。
***
――――というのが、およそ二時間半前の話。時計の針はもう日付の変わる頃を指している。
「~~ってさ! あんとこのプロデューサーがグダグダうっせえの! 自分じゃ何もやらねえクセに口ばっか、マジうぜぇ~~」
疲労困憊の身体に辛口の日本酒は余りにも効き過ぎた。あっという間に酔いが回り出来上がってしまったコーサカは、おでんの鍋が置かれたコタツの中で感情の振り幅を全く抑えられなくなっていた。今はロールキャベツの食べかけを皿に残したまま、仕事相手の愚痴を矢継ぎ早に並び立てている。呂律もやや怪しいくらいなので、韻を踏むやらエスプリを利かせた言い回しなんてものはなく、単純に悪口のオンパレード状態だ。顔色は普段のままなのが余計にたちが悪い。
さっきまで『待ちに待ってたエロゲの新作が来年やっと出る!』なんてキャッキャはしゃいでいたのに。忙しい男だなあ……とぼんやり思いながらアンジョーはうんうんと相槌を打っていた。ジョーさんのぶん、とお猪口に注いでもらった日本酒は舐めただけで顔が茹で上がりそうだったので、ほとんど口をつけずにそのままだ。
「このプロジェクトが終わったらもう、関わることはないんでしょ?」
「ないッ。金輪際ない。一度死んで生まれ変わっても有り得ない! クソっ、アイツ畜生道に落ちろマジ……」
ありったけの憎しみを込めようとして、コーサカの語尾が唸りめいて少し掠れた声になった。
いくら明日朝が遅いといっても、これ以上酔いが回ると体調に支障が出てしまう。……というかコーサカはともかく、俺は昼前に一件用事があるのだけども。ほどほどに切り上げないと、寝坊だなんて歳にも似合わず情けない姿を晒してしまう羽目になるだろう。
「そうだねぇ……。ね、お茶飲む? 温かいの」
子供をあやすみたいにアンジョーが優しく話題を切り替えると、コーサカは「のむ」とだけ答えてそのまま大人しくなった。まだ腹の虫が治まらないのか、テーブルに肘をつきながら思いっきり口をへの字に曲げている。
アルミのやかんに勢いよく水を張り、そのまま強火にかける。そのまましばらく待っていると、細い注ぎ口からひょろひょろとした蒸気が立ち上った。大好きなコーヒーを香りよくドリップするためのそれを買った当初、何も知らないコーサカから「普通の電気ケトルでも一緒じゃねえの?」なんて心ない言葉を浴びせられたが、今は優越感のような気すら覚える。少しのお湯を作るくらいなら、電気より火のほうが断然早いんだからな。
急須にお茶のパックを一つだけ放り込み熱湯を注ごうとやかんに手を掛けた、その瞬間。
「ジョーさん」
「うわあ!」
突然シャツの裾をくいくいと引っ張ってくるコーサカに、アンジョーは驚きと焦りで調子はずれの間抜けな叫びを上げてしまう。
「びっくりした、いきなり何なん」
「だってジョーさんが全然戻ってこねえから」
視線を下に落として寂しいと言わんばかりの表情を浮かべる彼に可愛らしさを覚える。……確かに覚えたが、やってはいけないことははっきりと言わねばならない。それとこれとは話が別だ。
「でも、じゃない。台所で火を使っとうときはダメ! ってコーサカが一番言うとったやろ! 手が滑って袖が燃えたらどうするん! ほら、はよコタツに戻る。お茶淹れたら俺もすぐに戻るから」
訛りを隠さず勢い任せにまくし立てると、流石の傍若無人さも鳴りを潜めてコーサカはすごすごとリビングへ戻って行った。萎縮した背中はすっかり丸まっており、哀愁が色濃く滲み出ている。特段悪いことをしたわけでなく真っ当な正論を並べただけなのに、何故だかどうしてアンジョーは申し訳なさを感じずにいられなかった。
「あったけえ」
紺色の湯飲みに注がれた熱々のお茶に口をつけながらコーサカが呟く。
「苦くない?」
コタツに戻ったアンジョーが尋ねると、目をとろんとさせながらこくこくと頷いた。
彼の悪くなさそうな表情を確認してからアンジョーも自分で淹れたお茶を口にする。緑茶の香ばしい風味が嗅覚を包み込み、喉を潤していくそれも甘みと渋みのバランスがほどよく取れている。温もりが全身に伝わっていく感覚に安堵し、ふうとため息がこぼれた。
「アンジョーさん」
「ん?」
「これから何して遊ぶ?」
コーサカの突拍子もない提案に理解が追いつかず、眠気のせいでやや呆けた思考をどうにか回転させて何とか切り返した。
「えぇーー……これから……ってもう寝る時間だけど。そろそろお開きにしないと明日俺もコーサカも起きれなくなるよ」
違う違うと今度は横に振っている。言動がしっちゃかめっちゃかになるまで酔っている彼も珍しいな、と面白半分呆れ半分でアンジョーが再度問いただすと、待ってましたと言わんばかりの表情でコーサカは願望の数々を挙げはじめた。
「もっと先の話。月末もだし年末の企画もだし……あと来年! TRPGも遊びてぇし、曲も作って歌いてぇ! ライブももちろんやるだろ? あとは皆で集まって動画撮って、案件もニッチなところから沢山貰って……」
「そんなんじゃ身体がいくつあっても足らないね」
冗談交じりの相槌をいれると、コーサカの瞳が批判の意を込めて急に鋭くなった。
「何言ってんの。アンジョーさんももちろん一緒ですよ」
「だねぇ…………ん? おれ?」
「当たり前でしょ。今書いてるシナリオ、アンジョーさんにもいずれやっていただく予定なので」
さも当然と話題の中心へ巻き込んでいくのでアンジョーが面食らっていると、何としてでもうんと言わせてやろうとコーサカの語気が一層強くなった。
「ライブだって二人居ないと出来ねえし。新曲も作って持っていかないと。……あ! あれ出そうぜ! ジョーさんの描いた俺らの3Dモデル! ぷにっとしててかわいいTSの!」
「ええ⁉ まだモデリングとか全然わからんし! 春までにどうやって間に合わせりゃいいんだよぉ」
「ファイト、アンジョーダイスケ! ジョーさんならいけるって! 俺らぜってぇカワイイんだろうなあ。“アン嬢”さん、タッパがあって出てるとこ出てるから、お尻もしっかりしてんでしょうよ」
狼の遠吠えに似た悲鳴が閑静な住宅街に響く。時計の針がもう一周回りきってしまう頃合い、宵の宴はもう少しだけ続くのであった。